Ⅰ/箱庭の世界
腰まで届くかのような、銀髪。
その長い髪は窓から差し込む日差しに照らされ、仄かに輝いていた。
いや輝くというより、透過している。
文字通り透き通る、銀の糸。
次に印象に残るのが、その儚さ。
「――――」
いつも、憂いの表情を浮かべている。
いや実際そこに、表情と呼べるものはないに等しかった。
伏し目がちで、口元も喋るとき以外開かれることは少ない。
だからそれを憂いと取るのは、つまりは醸し出される空気だった。
まるで時が、緩やかになったような。
そこに流れ着き、たまっているような、そんな錯覚。
つづいて病的なほどに白い肌、華奢な体躯、整った顔つきに目がいく。
それはすべて美しい少女という体裁を整えていたが、しかし同時にとても儚い、人ではないモノのような条件をも兼ね備えていた。
それに加えて少女を取り巻く環境を鑑みて、出会った人物の最終的な印象が決まる。
現実ではなく、まるで一枚の絵のようだと。
それほどの価値と言うべきか非日常というべき異常さを、宝石のようなはたまた幽霊のような人外じみた触れるのを憚られるような──しかし実際に見つめ、想うことが出来た人物は、ただひとりの女性に過ぎなかった。
その女性は少女が存在する空間にある扉を注意深く開き、口を開く。
「いま、帰ったわよ? 今日の調子は、どうかしら? だいじょうぶ、だったかしら?」
老婆だった。
足元まで伸びる黒いローブを身にまとい、灰色の髪に、皺だらけ顔で、しかしそこに愛想のある笑みを浮かべた。
そこは、とある民家の一室だった。
質素な作りだった。
年季の入った木造で、あちこちに亀裂が入っている。
物も、壁に箪笥や中央に囲炉裏など、生きていく上での最小限しかない。
その部屋の窓際に、ひとり用のベッドがあった。
そこに一人の少女が下半身にタオルケットをかけ、腰掛けていた。
「調子は、どうかしら? 今日も、だいじょうぶかしら? だいじょうぶだったかしら? なにか、悪いことはなかったかしら?」
繰り返される、少女を気遣う言葉の数々。
それはまるで会話を求めてのものというよりも、自らの玩具を気遣う子供を連想させる一方的な問いかけだった。
それに少女は初めて窓から視線を切って、老婆の方を向く。
そしてゆっくりと確かめるように、微笑んだ。
「だいじょうぶです、おばあさん」
少女の名は、アレ=クロアといった。
よく晴れた昼下がりだった。
こういう日は、より遠くまで世界を見渡せた。
だからなにということはないけれど、だけどそれはどこまでも、それだけだった。
窓から、外を覗き込む。
今日も世界は、狂騒に満ちていた。
パン屋から飛び出してきた子供は、泣きそうな顔をしてそのまま目抜き通りを駆け抜けていく。
そのあとに続くのは、もの凄まじい形相をした大人の男。
子供の手には一切れのパンが、大人の手にはひと振りの鉈が、握られていた。
子供の口も大人の口も、これでもかというほど開け放たれていた。
閉め切られた窓では叫んでいるだろうその内容を聞くことは出来なかったが、しかしその二人の立場が、状況が、表情が、そのすべてを物語っていた。
助けて、と。
お願いパンを下さい、と。
許さん、と。
盗人には死を、と。
それに対して周りの反応は、厳しかった。
だれも、なにも、応えてはくれなかった。
それは子供の懇願に対しても、大人の狂気に対しても。
ただ冷ややかな視線を、送る者は送っていた。
それすらない者も、多くいた。
やがて二人は、アレの視界から消えていった。
少年の命運を知るすべは、アレにはない。
男の狂気の行きつく先も、結局はわからない。
世界はただ、何事もなかったかのように再び回り出す。
「――――」
それをアレは、いつものように無感情な瞳で見つめていた。
ベッドの上に膝を伸ばして座り、表情を変えずに。
心はいつも、揺れなかった。
「――――」
生まれてからずっと、アレ=クロアはそうやって生きてきた。
ご飯を食べたり排泄したり眠ったりする以外は、そのほとんどの時間を窓の外の観察に費やしてきた。
ずっと、世界を観続けてきた。
「――――」
アレは子供の頃から、身体がうまく動かなかった。
まともに歩くことも出来ず、筋力も人並み以下で、ずっと祖母がかいがいしく世話を焼いてくれた。
外から食材を買ってきて、それを調理して食べさせてくれた。
身体も拭いてくれたし、髪もすいてくれた。
ただ黙って、ベッドに横になっていればよかった。
だからただ黙って、外の世界を見続けてきた。
「――――」
数え切れないほどのレンガ造りの建物の間を、無数の人々が行き交っていた。
稀に荷馬車が通ることもある。だけどアレは荷馬車という単語すら、知らなかった。
無数の人々は、様々な色の服を着ていた。
無数の人々は、みんな苦しそうな表情をしていた。
また誰かが、誰かを追いかけていた。
「――――」
決して自分と繋がることがない人々を、アレはずっと観続けてきた。
理由はなかった。
というよりもアレは自分の行動やなにかの事象に、理由や意味を見出すという習慣がなかった。
それは選択肢が無いという自身の境遇に、起因していた。
ただそれしかないから、それをしてきた。
ただ、それはそれだけのことだった。
「……アレ=クロア?」
呼びかけられた声に、アレは視線を部屋の内側に送る。
祖母がこちらを、いつもの笑顔で見つめていた。
「どうしたのかしら、アレ=クロア? お腹が空いたのかしら? それとも喉でも渇いたのかしら? いったいどうしたのかしら? なにかあったら、なんでもいっておくれ? わたしの、アレ=クロア?」
そこに、悪意は見つけられなかった。
完璧な単語の羅列に、完璧な笑顔。
しかし残念ながら、同時にそこには善意の欠片も見つけることは出来なかった。
アレは、気づいていた。
理屈ではなく、永く窓から世界を、人々の様子を観続けてきた結果として身につけた直感のような、ものによって。
祖母が自分を、どんなふうに観ているか。
アレは微笑む。
いつものように。
それに祖母は、相好を崩す。
「ああ……アレ=クロアや。かわいいな、お前は。ずっと、ずっとそのままでいておくれ。ずっとそのままで、わたしのそばにいておくれ?」
ニヤニヤと、自分を向けられるその視線。
それはどこまでも、どんな風に受け取っても、それは自分のこの在り方しか見てはいない。
自分を、人間扱いしていない。
ただの、所有物のひとつとして観ている。
「…………」
それでも、笑っているしかない。
自分には、それ以外の選択肢がない。
祖母に育ててもらわなければ、それ以外の生きていくすべを自分は知らない。
「ずっと。このままでいます。ずっと傍にいますよ、おばあさん」
「あぁ……ずっとそのままでいてね、わたしの……アレ=クロア」
窓の外では、別の子供が大人の男に追い立てられ――そして、捕まっていた。
夜、眠る時。
それはアレにとって、怖い時間だった。
「…………」
アレは普段、使っている感覚が少ない。
まず、触覚はほとんど使わない。
ずっと同じ姿勢でベッドに腰掛けていて、触れているものといえばタオルケットぐらいのものだからだ。
聴覚も乏しい。
窓はずっと閉め切られていて、耳に入るものといえば祖母との僅かな会話のみだ。
嗅覚及び味覚なんて日に一度の食事だけ。
だからほとんど、視覚のみに頼って生きているようなものだった。
だからそれを強制的に閉ざされるということは、それはすなわち自分が生きていると――人間であると感じられる手だてを――神から奪われる感覚に、似ていた。
「――――」
だから毎夜、アレ=クロアは自然に意識が消えるまで決して、自分の意思で瞼を閉じることはない。
ずっと瞳を開けて、窓の外を見つめる。
夜の街はまた、昼のものとは趣きが違っていた。
人が、ほとんどいない。
昼間あれだけ行き交い、物売りなど含めて多様な人間たちで活気がある大通りが、まるで死んだように寂れている。
その代わりのように、街の輪郭のようなものが浮き彫りになっていた。
普段は行き交う人々や荷馬車や追いかける姿に目を奪われて見えていない街の形に、目がいった。
それはまるで、横たわる巨人のようだった。
這い回る小人たちが消え、悠然としている。
アレの瞳には、そう映った。
だから夜は、苦手だった。
自分が巨人の胃の中に、いるような気分になる。
「――――」
アレはずっと、夜の街を見続けた。
誰もいない街角を見ていると、昼間の出来事が思い出された。
それを想い、アレは月を見上げた。
ほの明るいあの天体を、アレはずっと見つめていた。
アレがもちえる知識は、多くはない。
教育など受けておらず、祖母から与えられるものもほとんどなかった。
よって言葉もそれほど知っているわけではなく、字を読むこともかなわなかった。
だからただ、アレ=クロアは胸を痛めていた。
「…………」
今日も街角で、少年が痛めつけられていた。
殴られ、蹴られ、血に染まるその頬は悲しくなるほど、痩せ細っていた。
手はまるで祖母のように、筋が立っていた。
泣き叫ぶその表情は、こちらの胸を切り裂くかのようだった。
それでもなお、男は殴る手を止めることはなかった。
男もまた、必死の形相をしていた。
世界はなんて、悲しいモノなんだろうと思っていた。
「…………」
言葉が出ることはない。
出す習慣がなく、そして出してもどうにもならないことを哀しいくらいアレは理解していた。
だからただ、アレは胸を痛めていた。
世界はなんて、思い通りにならないモノなんだろうと思っていた。
いや思い通りという発想すらなかったアレ=クロアは、ただ与えられない境遇に諦観に近い悲しみを感じるだけだった。
ただ、悲しかった。
どうしようもなく。
どうにか出来るとか、どうにかしようだとか、どうにかしたいだとかも考えない。
ただ、嘆いていた。
「――――」
そして今日も、眠気が訪れる。
それに気づくこともなくアレはそのまま、眠りについた。
そして今朝もいつものように、祖母が声をかけてくれる。
「アレ=クロアや……どうしたの、かしら?」
だけどなぜかその言葉は、いつもと違っていた。
自分を、気遣っていた。
「……どうして、ですか?」
ゆっくりと瞼を開けながら、応える。
窓からは淡い光が差し込んできていた。
癖で、最初にそちらに視線を向ける。
朝早くから、いつもの光景が繰り広げられていた。
行き交う人たちは、本当にいつものようだった。
それに安堵がつけないことの意味を、少女は知らなかった。
そして視線を切り、声の方へ。
祖母は少しだけ、ほんの微かにいつもより眉を、寄せていた。
「だって、あなた……泣いてるじゃ、ないの?」
「え……」
言葉より先に、右手の甲で頬を拭っていた。
本当だった。
手の甲に、冷たい筋が触れる。
自分は気づかないうちに、一筋の涙を流していた。
「なん、で……」
理由はわからなかった。
言葉で説明できる類のものではない。
だいたいが、それほど流暢な言葉をアレは知らない。
だから純粋にそれは、不思議だった。
それを見て、祖母が言う。
「アレ=クロアや、あなた……なにか、悲しいのかしら?」
祖母の悲しげな言葉が、鼓膜に沁み渡る。
それにアレ=クロアは、実感する。
――あぁ、わたしは……悲しいのだ。
この、世界が。
虐げられている、人々が。
それは何も子供に限ったことではなく、子供に分け与えてあげられず、暴力を振るうことしか出来ない大人すら含めての、ことだった。
優しさを持ちえない全ての人々。
そんな世界が、悲しかった。
そんな世界で生きていかなければならない祖母が、不憫でならなかった。
そして憂うことしか出来ない自分ですら、悲しかった。
「……おばあさん」
「どうしたのかしら、アレ=クロアや……あなたにそんな風に泣かれたんじゃ、なんだか私まで、悲しくなるじゃないの……」
優しい。
祖母はどこまでも。
それがわかるから、余計悲しかった。
たとえそれがモノに対する愛情と同種のものだとしても。
なぜならアレには、わかるから。
どうしようもなく理屈ではなく、実感として、わかってしまうから。
この暮らしが、遠くない未来で終わってしまうことが。