act.1
「そういえば柚子、知ってる?龍ちゃんが帰ってくるって話」
いつもより遅めの夕食の席で母親が口にした内容に、柚子は思わず耳を疑った。
「……は?」
「だから、龍ちゃんよ。忘れちゃったの?昔お隣に住んでた、黒峰さんのとこの」
黒峰。久方ぶりに聞いたその名前は、懐かしさをはらみながら自然と柚子の中に染み入ってくる。
手繰り寄せた記憶はおぼろげで、はっきりとは覚えていない。
けれども、幼い頃の柚子にとってその名前はとても特別なものだった。
「龍ちゃんって、黒峰龍、のこと?」
黒峰龍。それは、柚子が小学校に上がる前に引っ越してしまった幼馴染の名前。
黒峰家とは家が隣ということもあってか関わる機会が多く、自然と母親同士が仲良くなり、いつの間にか家族ぐるみの付き合いにまで発展していた。
幼い頃の柚子は人見知りで家族以外になかなか心を開かなかったそうだが、自分の娘のようにかわいがってくれる黒峰家の方々にはよく懐いていたような気がする。
ことに仲が良かったのが、黒峰家の一人息子である龍だった。
彼は柚子より五つ年上で、いつも優しく接してくれていた。柚子もそんな龍に懐き、兄のように慕っていたことを記憶している。
彼の両親の都合で引越ししてしまってからは疎遠になってしまったが、何故今になって龍の名前が出るのだろう。
「そうそう、その龍ちゃんよ。なあんだ、覚えてるじゃない」
「顔とかはもううろ覚えだけどね。ちゃんと覚えてるよ。それで、その龍ちゃんがどうしたの?」
「黒峰さん達、戻ってくるんですって。ほら、隣の家ずっと空き家になっていたじゃない?この間あんたが高校二年生になったって話をしたときにそれを優華さんに教えたの。そしたら、仕事も一段落したからちょうどいいかなって話になったのよ」
「……って、ちょっと、母さん優華さんと連絡とってたの!?」
教えてよ、と柚子が不満の声を上げるも、母親の反応はけろりとしたもので、「言うの忘れてた」と笑うだけだった。柚子はなんともいえない表情でウーロン茶を一口飲む。
優華さん、とは龍の母親の名前だ。
いつから連絡を取り合っていたのか、何故それを教えてくれなかったのか、言いたいことはたくさんあるものの、すべての言葉をウーロン茶と一緒に飲み込んだ。母親の性格からして、きっと面倒だからという理由で細かいことは教えてくれないだろう。最も、母親の話しぶりからして、定期的に連絡を取り合っていたことは想像に難くないのだが。
柚子は空になったコップを手の中で弄びながら、母親に新たな質問をぶつけることにした。
「それで、いつ戻ってくるの?」
「土曜日。つまり明日よ」
「……は!?明日!?早くない!?」
「優華さんには一ヶ月前くらいに教えてもらってたんだけどね?顔合わせもする予定だったんだけど、教えるのをすっかり忘れてたのよー」
ごめんねー、と笑いながら席を立つ母親に、柚子は脱力感を覚えた。
先程のことも含めて、言いたいことは山ほどある。
もう何から言えばいいのかわからないけれど、ひとつだけ言わせてほしいことがある。
「なんでもっと早く教えてくれなかったのよ!母さんの馬鹿ああああ!」
柚子の叫びは、無常にも台所へ向かう母親の背中に吸い込まれて消えた。
*
明くる日、柚子は半ば強制的に夕飯の買い物に駆り出されていた。
なんでも、今日は引っ越し祝いとして黒峰家と一緒に夕飯をとるらしい。
母親はご馳走を作るのだと張り切っていたのだが、父親と共に引越しの手伝いに向かっているため、必然的に買い物は柚子がすることになる。
特に断る理由もなかった柚子は、母親から渡されたお金とメモを手に、最寄りのスーパーマーケットに足を運んだ。
「えーっと、じゃがいも、にんじん、たまねぎ……カレーでも作るのかな?」
カートを押しながら、メモにリストアップされた材料を籠に放り込んでいく。
このぶんだとかなりの量になりそうだが、自転車を持ってきているのである程度までなら平気だろう。
買い物リストに書かれた材料をすべて籠に入れてしまうと、今度はお菓子売り場に向かう。
余ったら好きなものを買っていい、と多めにお金を受け取っていたので、柚子はお言葉に甘えることにし、吟味したお菓子いくつかを籠に追加した。
「うわ、重っ」
会計を済ませ、買ったものを袋に詰めると、大きな袋二つ分になった。
それらにバッグを加えると結構な重さになってしまうのだが、何とか持ち帰るしかない。
柚子は両手に袋を持ちながら自転車置き場までやってくると、片方を自転車の籠に入れた。もう片方はハンドル部分に引っ掛け、バッグを肩にかける。
「仕方ない、歩いていくかー」
自転車の鍵を外し、自転車を押してゆっくりと歩き始める。
家までそれほど遠いわけでもなく、徒歩での帰宅に苦痛は感じない。
四月中旬ともなれば気温も徐々に上がってきており、寒さに身を震わせるようなこともない。
「あ、桜咲いてる」
スーパーマーケットを過ぎ、自宅付近の公園まで来たところで、柚子はふと足を止めた。
公園を囲むように植え付けられた桜は、満開とまではいかないまでも、桃色の花を枝いっぱいに咲かせている。柚子はしばらく桜を眺めていたが、唐突に買い物帰りだったことを思い出し、慌てて自転車を動かした。
しかし、その拍子に思い切りバランスが崩れ、体勢を立て直す間もなく自転車が横転する。
当然、籠の中身もその場にぶちまけられる。
「あー……やっちゃった」
ため息をつきながらも、ころころと転がる野菜や果物を拾い集め、袋に入れ直す。
人通りもなく、誰にも見られなかったことだけが救いであるが、何となく自分が惨めな気分になるのは気のせいだろうか。
柚子はこれ以上無様な姿を見せたくないとばかりにさっさと自転車を起こし、とぼとぼと歩き始めた。
――そのとき。
「――あの」
後方から声がかけられ、柚子は咄嗟に振り返る。
そこには、背の高い青年が立っていた。
年の頃は十台後半から二十台前半くらいだろうか。
顔立ちは整っており、瞳には優しげな光が灯っている。アイドルだと言われれば信じてしまいそうな風貌だ。さらさらの黒髪はやや乱れており、少しだけ息を切らせていることからも、彼が走ってきたのだということがわかる。
(こんなかっこいい男の人が私に何の用なんだろ?もしかして、人違いかな?)
内心首を傾げている柚子だったが、目の前の青年が手に持っているものに気付くと、あっと声を上げる。
「じゃがいも!」
思わず声に出してしまった後、慌てて口を閉じる。
青年はそんな柚子ににっこりと笑いかけた。
「うん、じゃがいも。落としたよ」
どうやら見られていたようだ。恥ずかしいことこの上ない。
柚子は自転車を止め、青年の傍まで近付いた。
「すみません、拾ってくれてありがとうございます」
「いえいえ。はい、これ」
そう言ってじゃがいもを手渡そうとしてくる青年に、柚子も笑顔で手を伸ばす。
しかし、柚子が手を伸ばしかけたところで、青年の手がぴたりと止まる。
不思議に思いつつ青年を見上げると、彼は驚いたように目を見開いていた。
そんな青年の様子に、柚子は首を傾げた。
「あの」
「――柚子?」
「……え?」
口を開きかけた柚子に被せるように、青年が柚子の名前を呼んだ。
柚子は戸惑ったように視線を彷徨わせ、身を硬くさせる。
(え、どうして私の名前知ってるの?知り合いにこんな人いなかったよね?……一体、この人は誰なの?)
警戒の色を強めたまま何も答えない柚子の様子から、青年は何かを確信したらしい。
息を呑む柚子の前で、青年は困ったように微笑んだ。
「そうだな、急に名前呼ばれたら驚くよな。ごめん」
「……あの、確かに私の名前は柚子ですけど。私、あなたにどこかでお会いしましたっけ?」
柚子は親しげに話しかけてくるこの青年に見覚えが無いことを素直に伝えた。
すると、青年は一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた後、乱れた髪を無造作に直し、柚子を真っ直ぐに見据えた。
「俺はすぐわかったんだけどな。……俺のこと、覚えてない?」
「え……?」
柚子は、目を見開いて青年をまじまじと見つめた。
思いつく限りで知り合いの顔を思い浮かべても、彼の容姿と合致することはない。
けれど、柚子を名前で呼ぶということは、彼とはそれなりに親しかったはずだ。
柚子はばつが悪そうに首を振った。
「ごめんなさい、覚えていないんです。でも、名前を知っているってことはきっと知り合いのはずですよね?……お名前、教えてもらってもいいですか?」
そう言って見上げる柚子に青年はふうと息を吐くと、穏やかな表情で口を開いた。
「黒峰龍」
「……へ?」
「黒峰龍、だよ」
――時が、止まったかのようだった。
どくん、と心臓が跳ねる。
目の前の青年は、今、何と言ったのだろうか。
黒峰龍。その名前は、自分の知る限り、一人しかいない。
「……龍、ちゃん?」
震える声で問うと、彼はとても嬉しそうな表情を浮かべた。
「うん。――久しぶり、柚子」
蕩けるような笑みを向けてくる青年――龍の言葉に、柚子はあんぐりと口を開けることしかできなかった。
甘いお話が書きたくて、つい書き始めてしまいました。
優しい年上幼馴染×女子高生のお話です。溺愛される予定。
現代ものははじめてなので、新鮮ですね。
不定期ですが、のんびり進めていく予定です。
よろしければご感想などお聞かせくださいませ。