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「痛……っ!」
春一が顔の右側を手で覆う。右の頬がじんじんと痛んで、口の中には血の味が広がっている。
「すごいよ春一君、膂力が強い妖怪に角材で殴られても立っていられるなんて!」
リアルが大仰に手を広げて感嘆する。しかし春一はそんなリアルには目もくれず、目の前の妖怪に神経を集中した。
身長は夏輝と同じくらいある。しかし体つきはプロレスラーのようで、見た目にもとても強そうだ。そんな妖怪が木の角材を手に、春一と対峙している。
春一はそんな妖怪を前に、ポケットから黄色いナイロン質の帯を取り出した。包帯ほどの太さで、そこには黒い文字が書かれていた。これは上等な術者のみがつけることのできる呪符で、これを身に付ければ、人並み外れた妖怪でも相手にできる。この呪符には妖怪が嫌う気がめぐっている。
春一はその呪符を手にぐるぐると巻きつけ、端を金具で止めると、改めて妖怪を睨み上げた。
「可愛げねぇヤンチャしてくれやがって、いくら温厚な俺でも、もう許さねぇぞ?」
春一が地を蹴る。一瞬にして間合いを詰め、妖怪の顔面に唸る拳が迫る。そしてそれが当たろうかというとき、その妖怪が視界から消えた。
「!?」
次の瞬間には再び顔面を殴られて、その衝撃で床に転がる。転がりながら体勢を立て直し、壁にぶつかる寸前で片膝をついた状態になる。
「あ、春一君、言い忘れてたけど、そいつは全体の筋力のレベルがものすごく高いんだ。だから、打撃の威力も避けるスピードも人万倍。なかなか手ごわいよ。何て言ったって僕の側近だからね」
ソファの背に座っているリアルは、面白そうに足をぶらぶらさせながら春一を見ている。当の春一は今の一撃で頭を切ってしまったらしく、口と頭から血を流している状態だ。
「おい、リアルつったっけか?お前後でぶん殴ってやるから覚悟しとけよコラ」
「その元気があればね」
春一は立ち上がり、再び妖怪と対峙した。先ほどの一撃で角材は折れ、妖怪はぎゅうと拳を握りこんでいる。
「おい、デカブツ。俺を倒してぇんなら、もっかい殴ってみな」
その挑発的な態度に、妖怪が腕を振り上げる。春一はにやっと笑って、その一撃を全力で受け止めた。
「痛ぇけど……やりぃ」
春一は出された拳を避けることもせず、顔全体で受け止めた。しかしその殴られる瞬間、妖怪の腕を取った。妖怪は春一に腕をがっちりと絡め捕られ、身動きが取れなかった。その状況を打開すべくもう片方の拳も春一めがけて飛ばすが、一歩遅かった。
「受け取れコラァッ!」
春一のボディブローが、妖怪の腹にめり込む。斜め下から突き上げるように殴られた衝撃で、妖怪の巨体が若干上に浮く。そしてそのまま仰向けにドスンと倒れる。
「ざまーみやがれ」
春一はその場所でくるりと体の向きを変え、リアルに向き直った。
「観念して大人しくお縄につきやがれこの独裁者」
しかしリアルはあくまで飄々とした態度で、ソファの背から腰を浮かそうともしない。
「春一君、褒めてあげたいのは山々だけどね、そういうのは後ろを良く見てから言った方がいい」
「あ?」
そこで、春一の頭の中に警報機が響き渡る。咄嗟に後ろを振り返ると、先ほどの妖怪が立ち上がっていた。血を吐き出しながら、その巨体を揺らしている。
「まだかよっ!」
叫んだ春一の腹に、妖怪の巨大な拳が突き刺さる。さっきのお返しと言わんばかりに、今度は春一の体が宙に浮く。くの字に折れ曲がった体が、壁に叩きつけられる。
「イッテェ……。ゲホッ!」
妖怪の巨体が、春一に向かって一歩また一歩と近づいてくる。次の一撃を受ければ、確実に意識が飛ぶ。そうすれば終わりだ。
(ここまでか……!)
春一が奥歯を噛みしめて目を伏せた時、妖怪の剛腕が再び振り上げられた。項垂れた春一は顔を上げることもできず、ただその腕が振り降ろされる時を待った。
「春一君、残念ながら終わりだ」
リアルの声が、どこか遠くで聞こえた。