嫌いな本を褒めたら、読書会の司会を頼まれました
「それなら、次の司会、お願いしていい?」
綾さんは、私の前に進行表を置いた。
『好きな場面を、一人ずつ』
六人分の丸が印刷されていた。
来月読む本を決めた、読書会の帰り際だった。
綾さんが鞄から出した小説を、私はもう読んでいた。
「良かったですよね、これ」
つい、そう言った。
嫌いだった。
最後の三十ページが、特に。
◇
在宅の仕事を始めて半年、私は休日に声が出なくなることがあった。
月曜の朝、最初の電話で咳払いをして、そこで初めて、昨日は誰とも話していないと気づく。
読書会に来たのは二度目だった。
一度目は、椅子を一つ出してもらった。二度目は、私の分が最初からあった。
その椅子に、私は鞄を置くのを忘れるくらい、すぐ座った。
「司会って、何をすれば」
「順番に振って、時間を見るだけ。佐久間さんが長くなったら、止めて」
綾さんは声を落とした。
「前回、作者の出生地から始まったでしょ」
始まった。駅の名前まで出た。
私は笑った。
「この本、私がすごく好きで。司会までやると、喋りすぎちゃうから」
綾さんは、本の表紙を撫でた。
「好きな人がもう一人いて、うれしかった」
今なら訂正できた。
でも、綾さんは来月の予定に私の名前を書いていた。
「分かりました」
私は進行表を、折らずに持ち帰った。
◇
小説の主人公は、橋のある町を出ていく。
ずっと一緒にいた友人が、橋の手前まで送ってくれる。
「また来る」と主人公は言う。
でも、最後まで帰らない。
私は、その友人が橋の手前に取り残されたような気がした。
あと五行でいいから、友人が帰った家のことを読みたかった。
余白の紙に、そう書いた。
司会のメモへ移すときは、
『旅立ちの描写が印象的』
に変えた。
嘘ではない。
印象は、強かった。
次に、『好きな場面』の下へ『橋』と書いた。
そこまでやって、ペンを置いた。
司会というのは、こんなに準備が要るものだったのか。
私は進行表の六つの丸を見た。
五人に振って、自分の番だけ飛ばす案も考えた。
丸は、一つ余った。
◇
会の三日前、綾さんに、少し話せないかと連絡した。
駅前の喫茶店で、綾さんは私のメモを見て言った。
「すごい。ちゃんと用意してくれたんだ」
「違うんです」
もう、それを褒めてもらうのは無理だった。
「この本、私、本当は好きじゃなくて」
綾さんの指が止まった。
「そうなの?」
「はい。良かったって言ったのは、話を合わせたんです」
「……そっか」
綾さんは、自分の本を鞄へ戻した。
「じゃあ、あのあと、ずっと話してたの、困ったよね」
読書会のあと、私たちは改札まで一緒に歩いた。
綾さんは、橋の場面のことを話していた。
「私は、楽しかったです」
言ってから、私は両手を膝に置いた。
「でも、それも今言われたら、分からないですよね。すみません」
綾さんは、紙ナプキンの角を一つ折った。
私は、本の結末が嫌だった理由を話しそうになって、やめた。
それは、綾さんに嘘をついた理由にはならなかった。
「司会、ほかの人に頼みますか」
「急に言われても、私がやるしかないかな」
「私、やりたいです。ただ、好きな場面を紹介するのは、うまく出来なくて」
綾さんは、進行表を見た。
「嫌いなところを、みんなで探す会にはしたくない」
「はい」
「この本、読んでよかったって、私は思ってるから」
私は頷いた。
しばらくして、綾さんが鉛筆を出した。
『好きな場面を、一人ずつ』
その隣に、
『気になった場面でも』
と書いた。
「これなら、話せる?」
「はい。私も、皆さんの好きだったところは聞きたいです」
綾さんは、鉛筆をしまった。
「私には、話しすぎって言ってね。ちゃんと」
私は一度だけ、頷いた。
◇
日曜日、六つの椅子はいつもの場所にあった。
私は端に座った。
進行表を出して、好きだった場面でも、引っ掛かった場面でもいいと説明した。
佐久間さんが手を上げた。
「作者の話は」
「今日は、場面からでお願いします」
「出身地が、この橋のモデルなんですよ」
もう始まっていた。
綾さんが時計を指で叩いたので、私は口を開いた。
「それ、あとで聞きたいです。先に、私から話してもいいですか」
あとで、本当に聞くつもりだった。
私は自分の丸の横へ、印を付けた。
「私は、最後の橋の場面が、好きになれませんでした」
思っていたより大きな声が出た。
「送ってきた友人が、そのあとどう帰ったのかが気になって。そっちも、読みたかったです」
佐久間さんが、本を開いた。
「友人も、自分の家へ帰るんじゃないですか」
「そうなんですけど」
私は次の言葉を探した。
綾さんが、その間に言った。
「私は、友人の暮らしを最後まで引き受けなくても、出ていっていい、と思えて。そこが好きだった」
同じ橋の話だった。
私はメモに、綾さんの言葉を少しだけ書いた。
書いても、やっぱり、友人の帰り道が気になった。
「私は、真ん中の洗濯の場面」
水野さんが言った。
「二人で、風で飛んだシャツを追いかけるところ。笑いました」
「あそこ、町の地形がよく分かるんですよ」
佐久間さんが言った。
今度は、誰も止めなかった。
私は、そこなら笑った、と話した。
橋は嫌いでも、笑った場面はあった。
六つの丸を全部埋めるまでに、時間は少し余分に掛かった。
綾さんの番は、私が時計を指したら終わった。終わり際に、もう一言だけ、と言われて、私は待った。
◇
椅子を片付けながら、水野さんが言った。
「今日は、ちょっと難しかったね。好きなところだけ喋るほうが、私は気楽かな」
私は畳みかけていた椅子を、もう一度開いた。
何か、答えなければと思った。
「次は、最初に好きな場面からにする?」
綾さんが聞いた。
「うん。それなら。あと、順番じゃなくてもいい」
水野さんは、さっき自分が座っていた椅子を畳んだ。
私は開いたままの椅子を見た。
それから、今度こそ畳んだ。
次の本は、皆で候補を見て決めた。
私の第一希望は、選ばれなかった。
二百ページもないから、と推したら、佐久間さんに、長さだけで選ぶんですか、と言われた。
長さも、大事だった。
でも、選ばれた本の題名は、手帳に書いた。
◇
帰り道、綾さんとは改札まで一緒だった。
「シャツのところは、本当に笑った?」
「はい」
少し間があった。
「前の『良かった』を、言い直したいです。全部好きではなかったけど、あそこは笑いました」
綾さんは頷いた。
それから、駅の階段で立ち止まった。
「次、橋のモデルの話も、聞こうと思って」
「佐久間さんの?」
「うん。会の前に、十五分だけ」
綾さんは、笑いかけてから言った。
「来たいなら」
私は手帳を開いた。
来月の欄には、読書会、とだけ書いてある。
「十五分で、終わりますかね」
「分かんない」
私は集合時間の前に、もう一つ、時間を書いた。




