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魔法が使えない俺を拾った天使が距離近すぎる件

掲載日:2026/04/03

 午後四時半。


 都内の空は、まるで誰かの感情を代弁するかのように、重く(にご)った雨を降らせていた。


 その中を、伊久佐(いくさ)トウマは傘も差さずに歩いていた。


 行き先はない。目的もない。ただ、足が動くから前に進んでいるだけだ。


 五年間勤めた会社を、たった一言で切り捨てられた直後だった。


『魔法が使えない君より、優秀な新人を使う』


 それが理由だった。


 笑えない冗談だと思った。


 だが、相手は本気だった。


 トウマはナビゲーターとして、毎朝まだ暗いうちからダンジョンに潜り、構造を把握し、依頼者を安全に導いてきた。


 魔物の気配を察知し、最短ルートを割り出し、危険を未然に回避する。


 それがどれだけ命を救ってきたか、彼自身が一番よく知っている。


 ──それでも、魔法が使えないという一点だけで、すべてが否定された。


「……もう、疲れたな」


 ぽつりと、言葉がこぼれた。


 家では出来のいい妹と比べられ続け、無能の烙印を押され。


 社会に出ても同じだった。


 努力すれば、いつか報われる。


 そう信じて、ここまでやってきた。


 けれど。


 その“いつか”は、ついに来なかった。


 雨粒が頬を伝う。涙なのかどうか、自分でもわからない。


 このまま、どこかのダンジョンに潜って──帰ってこなければいい。


 そんな考えが、ふと頭をよぎる。


 その時だった。


「魔法の暴走よ!?」


「逃げろ! 巻き込まれるぞ!!」


 周囲が一気に騒がしくなる。


 顔を上げたトウマの視界に、巨大な炎の渦が映った。


 制御を失った魔法が、暴風のように膨れ上がっている。術者の姿は見えない。責任を放棄して逃げたのだろう。


(……ああ、最悪だな)


 よくある魔法事故だ。


 舌打ちしたくなる衝動を押し殺し、トウマもその場を離れようとした。


 だが──


「きゃあああっ!」


 甲高い悲鳴が耳に刺さる。


 反射的に振り向いた。


 そこにいたのは、逃げ遅れた小さな少女だった。まだ小学校にも上がったばかりだろう。足がすくみ、動けずにいる。


 そして、その前に立ちはだかるように、もう一人。


 頭上に淡く輝く輪──天使族の証を浮かべた、金髪碧眼の少女が、その子を庇うように覆い被さっていた。


 炎は、すぐそこまで迫っている。


 考えるより先に、体が動いていた。


 地面を蹴り、二人の前へ飛び込む。


 そのまま、背中で炎を受け止めた。


 熱が走る。焼けるような痛みが一瞬遅れてやってくる。だが、それだけだった。


(ぐぅ……でも、これくらいなら……っ)


 頑丈な体が、辛うじて耐えきった。


 だが同時に、限界も来ていた。


 積み重なった疲労が、一気に押し寄せる。


 視界が揺れた。


 意識が、暗闇に沈んでいく。


 最後に感じたのは、誰かの震える手が、自分の服を掴む感触だった。

 

 ──次に目を覚ましたとき。


 トウマは、見知らぬ天井を見上げていた。


 雨音は遠く、代わりに静かな空気が満ちている。


(……ここは)


 ゆっくりと体を起こす。着ていた服は別のものに替えられていた。


 状況を把握するため、部屋を出る。


 廊下を進み、渡り廊下を抜けた先にあったのは──礼拝堂だった。


 そこには、多くの人がいた。


 そして、その中心に立つ一人の少女。


 先ほど見た、天使族の少女だ。


 彼女は静かに手をかざし、患者たちに向けて何かを行っている。


 淡い光が広がり、人々の苦しそうな表情が、少しずつ和らいでいく。


(……解呪、か)


 この地球には、人の負の感情から生まれる魔力を吸い上げ、浄化し、再び世界へと循環させる仕組みが存在している。


 だが数百年前、その浄化は限界を迎え始めた。


 処理しきれずに残った負の魔力は、行き場を失い、やがて『呪い』となって人々に降りかかるようになったのだ。


(厄介な話だよな……)


 やがて作業が一段落し、人々が帰っていく。


 礼拝堂に残ったのは、トウマと、その少女だけだった。


 彼女はふう、と小さく息をつき、近くの椅子に腰掛ける。


 どこか疲れた様子だった。


「……あの」


 声をかけると、少女は顔を上げた。


 透き通るような碧眼が、まっすぐにトウマを捉える。


「あ……よかった、目が覚めたんですね」


 柔らかく微笑む。


「私はリリアといいます。あの時、あなたが助けてくれなかったら、私……どうなっていたか。本当に、ありがとうございました」


「いや……大したことじゃない」


 トウマは視線を逸らす。


 それ以上関わるつもりはなかった。


 軽く会釈して、その場を去ろうとする。


 だが。


「待ってください」


 背中に声がかかった。


「……何か、悩みを抱えていませんか?」


 ピタッと、足が止まる。


「ここは、迷える子羊を導く教会です。私は神様ではありませんが……相談相手くらいには、なれますよ」


 思わず、振り返る。


 その表情は、どこまでも穏やかで、そしてとても……優しかった。


 気づけば、トウマは口を開いていた。


 ──自分でも驚くほど、あっさりと。


 会社のこと。家のこと。自分が無価値だと思っていること。


 すべてを話していた。


 話し終えた時、リリアは──


 何故か、涙を浮かべていた。


「そんな……ひどい……」


「いや、あんたが泣くことじゃ……」


 慌てるトウマをよそに、彼女は強く頷く。


 そして、まっすぐに手を差し出した。


「いえ、貴方は命の恩人です。もしよろしければ……ここで働いてみませんか?」


「……え?」


「ちょうど、男手が足りなくて困っていたんです」


 彼女の言葉に、心が揺れる。


 だが、すぐに首を振った。


「それは無理だよ。俺は魔法も使えないし……役に立たない」


 唇を噛みしめ、踵を返す。


 ああ、そうだ。もう期待するのはやめようと、決めたばかりなのだ。


 だが、その時。


「あっ……!」


 背後で、何かが倒れる音がした。


 びっくりして、振り返る。


 するとリリアが、ふらりと前のめりに崩れ落ちていた。


 あのままだと、椅子にぶつかる。


 反射的に駆け寄り、その小さな身体を受け止める。


 その瞬間だった。


 温かい何かが、流れ込む感覚。


 リリアの体が、ぴくりと震えた。


「……え?」


 彼女の表情が、驚きに変わる。


「ま、まさか……」


 次の瞬間、ぎゅっと抱きしめられた。


 距離が近い。近すぎる。


 だがそれ以上に──


「……すごい。魔力が、一気に……」


 呆然とした声。


 やがて、彼女は勢いよく顔を上げた。


「トウマさん!」


「お、おう……」


 思わず気圧される。それくらい彼女の瞳は真剣だった。


「通常、魔力の回復には一時間ほどかかるんです。でも……あなたと触れていると、一分もかからない」


「……は?」


「これなら……もっと多くの人を、すぐに助けられる……!」


 その瞳が、まっすぐにトウマを射抜く。


「あなたは、絶対に逃がしたくない逸材です!」


「………………っ」


 その言葉が、胸に刺さる。


 ──必要。今まで、一度も言われたことのない言葉だった。


 家では無能と言われ。


 会社では役立たずと言われ。


 誰にも必要とされなかった。


 そんな自分を、必要だと言ってくれる人がいる。


「……こんな俺でも、誰かの役に立てるのか」


 心が、少しだけ揺れた。


 家にも、会社にも、もう居場所はない。


 でも、ここには──


 自分を必要としてくれる人がいる。


 恐る恐る、顔を上げる。


 久しぶりに、まっすぐ前を見る。


 視線の先にいたのは──正に天使様だった。


 金色の髪が、窓から差し込む光を受けて柔らかく輝いている。絹のように滑らかな髪が肩に流れ、動くたびにさらりと揺れた。


 透き通るような白い肌。


 そして、空よりも澄んだ碧い瞳。


 その瞳は、同情でも、哀れみでもなく。


 ただ真っ直ぐに、トウマだけを見ていた。


 まるで、本当に必要な人を見るような目で。


 思わず、息を忘れる。


 綺麗だ、と思った。


 こんな状況なのに、場違いなくらいに。


 今までの人生で、こんなに綺麗な人を見たことがなかった。


 いや、外見だけじゃない。


 自分を「必要だ」と言ってくれた、その言葉も。


 誰かを助けたいと本気で言える、その心も。


 全部が眩しくて。


 ボロボロだった心に、光が差し込むみたいで。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 泣きそうになるのを、必死にこらえる。


 彼女は不安そうに、少しだけ首をかしげた。


「……嫌、でしたか?」


「……いや」


 トウマはゆっくりと首を振る。


 そして、小さく、小さく笑った。


「こんな俺でいいなら……」


 一度、息を吸う。


 今までの人生を全部吐き出すみたいに、ゆっくりと言った。


「……俺を、ここで働かせてくれ」


 その言葉を聞いた瞬間、


 彼女の碧い瞳が、ぱっと明るく輝いた。


「はい! 一緒に、頑張りましょう!」


 そう言うと彼女は、少しだけ迷うように視線を泳がせてから──そっと、トウマの手を握った。


 細くて、柔らかい手だった。


 突然のことに、トウマの心臓がどくんと大きく跳ねる。


 彼女との距離は、思っていたよりもずっと近い。


 雨上がりの湿った空気の中で、彼女の髪からほのかに甘い香りがした。


「これから、よろしくお願いしますね」


 にこっと微笑む彼女の顔が、すぐ目の前にある。


 手を握られているだけなのに、なぜか落ち着かない。視線の置き場に困ってしまう。


「……あ、ああ。こちらこそ」


 できるだけ平静を装って答えたが、鼓動は全然落ち着いてくれなかった。


 こんなふうに誰かに必要だと言われて、


 こんなふうに誰かに手を握られて、


 こんなふうに笑いかけてもらえるなんて──思ってもいなかったからだ。


 雨は、いつの間にか止んでいた。


 こうして。


 誰にも必要とされなかった男の、二度目の人生が始まる。


 今度こそ、自分の居場所を見つけるために。

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