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毒を食らわば皿まで

 鏡の中に映る自分を、九条樹里は冷ややかな、獲物を定めるような目で見つめていた。


 場所は、都心にそびえる老舗ホテルの最上階スイートルーム。静謐な空間には、衣擦れの音と、熟練の着付け師の緊張した呼吸だけが響いている。一分の隙もなく締め上げられていく振袖は、金糸を贅沢に用いた極彩色の芸術品。しかし、重厚な正絹の重みは、樹里にとっては彼女を縛り付ける「九条」という家名の呪縛、そのものだった。


「……樹里様。お顔、少し険しすぎますよ。せっかくの晴れ舞台なのですから」


 老いた着付け師が、なだめるように困ったような微笑を浮かべる。樹里はその言葉を、鏡越しにナイフのような視線で撥ねつけた。


「険しいのは生まれつきよ。それより、この帯、もう少しきつくして。呼吸が止まるくらいでちょうどいいわ。このクソ忌々しいパーティーの間、吐き気で正気を失わないようにしたいの」


 樹里がこの場に立っている理由は、父への従順ではない。

 今夜開催されるのは、表向きは門脇グループとの「伝統と革新の融合」を謳った合同提携レセプション。だが、その裏側にあるのは、父・九条龍三が画策する、門脇のITインフラを隠れ蓑にした強引な土地買収計画だ。


 樹里は、その巨大プロジェクトの心臓部に、緻密な「毒」を仕込んだ。

 父が誇らしげに壇上に立つその瞬間に、プロジェクトの致命的な欠陥が露呈するように。父の失脚と同時に、カビの生えたこの九条家という虚飾を、自分の代で跡形もなく焼き払うために。


「お仕度、整いました」


 着付け師が深く一礼し、退室する。

 独り残された樹里は、緋色の唇をわずかに吊り上げた。重い振袖の裾を捌き、一歩を踏み出す。その足取りは、華やかなパーティー会場へ向かう令嬢のそれではなく、自ら地獄へ火を放ちに行く処刑人のようだった。


「さあ、行きましょうか。地獄の宴へ」



 会場の巨大な重厚な扉が開かれた瞬間、無数のフラッシュの光が、処刑台へ向かうはずの樹里を白く塗りつぶした。

 彼女は即座に、訓練された「九条家の令嬢」という仮面を貼り付ける。手にしたシャンパングラスの泡が、皮肉なほどに美しく弾けていた。


「樹里さん、今日も一段とお美しい。ぜひ今度、我が社のリゾート開発についてお話を――」

「あいにく、耳にゴミが入っているようで。退屈な話はシャットアウトする設定なの。失礼」


 群がる有象無象の男たち――九条の看板に群がるハイエナか、彼女をトロフィーとして飾り立てたいだけの蒐集家コレクターたち――を、樹里は容赦ない毒舌の剣で斬り捨てていく。彼らが一瞬で見せる、自尊心をズタズタにされた絶望の表情。それだけが、この反吐が出るような社交界における、彼女の唯一の娯楽だった。


 しかし、会場の最奥。一段と厚い人だかりができている場所で、樹里の優雅な足取りが唐突に凍りついた。


 そこに立っていたのは、提携先の御曹司。門脇グループ副社長、門脇かどわき ろう


(……は?)


 樹里の思考回路が、一瞬でホワイトアウトした。

 噂には聞いていた。「門脇家の長男は、経営能力こそ未知数だが、顔だけは国宝級だ」と。だが、目の前に鎮座する実体は、そんな低レベルな噂話を嘲笑うほどに次元が違った。


 計算し尽くされた銀鼠色の髪が、会場のシャンデリアを反射して神秘的な光を帯びている。彫刻家が心血を注いで削り出したかのような鼻筋、そして少し眠たげでありながら、一度捉えたら離さない深淵のような瞳。


(……顔が。顔が、暴力的に良すぎる……!)


 樹里は無意識にシャンパングラスの脚を、指が白くなるほど強く握りしめた。

 彼女の鉄壁の理性を崩しうる、唯一にして最大の致命的弱点。それは、重度の「面食い」であること。


(ダメよ、樹里。落ち着きなさい……!)


 頭の中で警報装置がけたたましく鳴り響く。あいつは敵だ。あの男の父は、強引な買収で数多の人生を食い潰してきた冷酷な守銭奴。その血を引く息子が、まともな人間であるはずがない。


 だが、彼がふいにこちらを向き、微かに口角を上げた瞬間。

 樹里の脳裏に構築されていた「九条家壊滅シミュレーション」の数式が、そのあまりの造形美を前にして、バラバラと音を立てて崩壊していった。



「……あ、九条樹里さんだ。はじめまして」


 その声が届いた瞬間、波が引くように人だかりが割れた。

 彼がこちらへ一歩踏み出すたびに、周囲の空気が一変する。何この視覚エフェクト? 物理的に背景に大輪の幻花が舞い、柔らかなスポットライトが彼だけを照らしているように見えるのは、私の網膜のバグか。


「門脇 狼です。父さんから聞いてるよ。君、ものすごく頭がいいんだってね。僕は勉強も経営もさっぱりで、いつも怒られてばかりだから……君みたいな人、本当に尊敬しちゃうな」


 狼はそう言って、ふにゃりと、あまりにも無防備に、春の陽だまりのような笑みを浮かべた。

 ……バカだ。樹里は、生存本能に近い直感で確信した。こいつ、本物の、救いようのない天然バカだ。

 これから食うか食われるかの謀略が渦巻く戦場において、これほどまでに隙だらけの、純粋培養された「善人」の顔ができるなんて。


「……お世辞は結構よ、門脇さん」


 樹里は震えそうになる指先を扇子で隠し、氷のような声を絞り出した。


「貴方のような、親の七光りで副社長の椅子に座り、ただ微笑んでいるだけのお人形さんと話す時間は、私の人生に一秒も残されていないの。その暴力的に整いすぎた造形を、一刻も早く私の視覚から排除してくださる?」


 渾身の罵倒。喉の奥まで出かかった「顔だけは合格よ!」という本音を必死に飲み込み、冷徹な九条の女を演じる。

 大抵の男なら、屈辱に顔を歪めて去るか、プライドを傷つけられて激昂するはず。しかし、狼は長い睫毛をパチクリとさせ、心底感銘を受けたように目を輝かせた。


「えっ……すごい。樹里さん、そんなにはっきり言ってくれるんだ! 周りは嫌なことを我慢して、愛想笑いしてる人ばっかりだから……なんだか、すごく新鮮だなぁ」


「……は?」


「あ、もしかして僕のこと、嫌い? 初対面なのに、そんなに情熱的に否定されるの、初めてで」


 小首を傾げる仕草すら、計算のない完璧な黄金比。樹里は、こめかみに青筋が浮かぶのを感じた。


「嫌いなんて生ぬるい言葉じゃ足りないわ。大嫌いよ。……その、顔以外はね」


「あはは! 顔は褒めてくれるんだ。よかった、親に感謝しなきゃ。ねえ、君って本当に面白いね。もっと怒った顔も見せてよ」


 狼は一歩、距離を詰めてきた。高価な香水の香りではなく、石鹸のような、あまりにも清潔で無害な匂いが樹里の鼻腔をくすぐる。


(……ダメだ。話が通じない。この天然バカ、防御力がゼロすぎて逆に無敵……!)


「近寄らないで! 貴方のその……眩しすぎるオーラで、私の緻密な計画が狂うわ!」


「え? 計画? 何の? 僕も手伝おうか?」


「結構よ! ひとりで地獄に落ちてなさい!」


 樹里は翻る振袖の裾を乱暴に捌き、逃げるようにその場を去った。

 背後から「また後でね、樹里ちゃん!」という、のほほんとした間の抜けた声が追いかけてくる。

 バクバクと暴れる心臓。それが計画を邪魔された怒りによるものか、それとも至近距離で浴びた「国宝級」のスマイルによる破壊力なのか、今の彼女には到底判別がつきそうになかった。

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