初夜で狸寝入りする妻は異世界の記憶があるらしい
アレグリア侯爵ベルトランは困惑していた。
緊張しながら迎えた結婚初夜だが、神の前で愛を誓ったはずの妻が寝たふりをしている。無言のまま、息を張り詰めたエリアナの寝顔を眺める。
胡桃色の髪はゆるやかに波打ち、シーツの上に広がっている。緑柱石の瞳は長い睫毛の下に隠され、珊瑚色の愛らしい唇はぷっくり艶やかだ。
「…………」
ベルトランは、エリアナの首筋にそっと手を添えた。
手のひら越しに、彼女の体が硬直するのがわかった。そのまま脈を取ってみるが、明らかな動揺が伝わってくる。
不安定な呼吸。うっすらと汗ばむ肌。じわりと薔薇色に染まる頬。
「……」
「…………。…………」
「……、…………」
どう考えても、エリアナは起きている。
だがその瞳は閉じられ、眉はきつく寄せられたままだ。胸元で祈るように組んだ両手がわずかに震えていた。
手を離したベルトランは狸寝入りする妻を見下ろし、首を傾げた。
(こんなバレバレの演技をする意味があるか? 初夜の作法は軽くさらったが、僕の知らない新しい常識でもあるのだろうか……)
考えられるのは、夫婦の営みへの拒否、もしくは未知なる体験への恐怖ゆえの行動か。
けれども、拒まれる理由がわからない。これまでのことを振り返るが、嫌われるようなことをした覚えはない。むしろ、好意は持たれていたはずだ。
エリアナとは政略結婚だったが、婚約中も穏やかな関係を築けていたと思う。仕事に忙殺されて会う頻度は少なかったかもしれないが、手紙で近況を報告し、贈り物をし合うほどには仲は悪くなかった。
(……ドレスも一緒に選んだし、嫌われてはいないはずだが、彼女の意図がわからない。これは、どう反応するのが正解なんだ?)
ネグリジェを着たエリアナは仰向けのまま、鼻水をすすった。
「…………」
「……」
「……、…………」
夫婦の寝室は、最小限の灯りのみで、甘い香が焚かれている。
使用人が初夜のために部屋に飾った花を一瞥し、ベルトランは嘆息した。友人に「いいかよく聞け、初夜の失敗は修復不可能な夫婦の亀裂を生む」と散々脅されたものの、正直そこまでの心配はしていない。
エリアナはおとなしい性格だが、言うべきことは目を見てしっかり言う度胸もある。
結婚式の準備でも、「お忙しいのは重々承知しておりますが、招待客の最終確認はベルトラン様にやっていただかねば困ります」と真剣な眼差しで言い切った。彼女なら侯爵家を任せられると頼もしく感じた瞬間だった。
エリアナの小さな唇を見つめた。やはり、貝のように閉じられている。
口で何も伝えてこないことを見るに、察してほしい、という無言のメッセージなのだろう。
(まあ、準備だけでも大変だったからな。知らない貴族たちに囲まれながら微笑み続けていたし、挨拶回りでろくに食事をする時間もなかった。きっと疲れたのだろう。僕もここのところ睡眠不足で……だめだ、眠すぎる。もう何も考えられない…………)
思考放棄したベルトランは妻に布団をかけ直し、その隣に潜り込む。いつもは冷えた寝台が暖かい。人肌に温められた布団がひどく心地よかった。
抗いきれない睡魔と戦うのを諦め、身を委ねるように目を閉じた。
◇◇◇
翌朝、目が覚めたら隣の温もりは消えていた。
それを残念に思いながら、執事に身支度を手伝ってもらう。アレグリア侯爵家の使用人は皆、優秀だ。常に主人に何を求められるかを考え、先回りして準備してくれる。イレギュラーな事態が起きたとしても、慌てた素振りはおくびも見せない。
優雅かつ忠実に与えられた役割を果たす。
彼らの主として、ふさわしくあらねばならない。ベルトランはより一層、気を引き締めた。妻帯者となり、守るべきものが増えたのだから。
支度を済ませたベルトランは王宮に出仕し、膨大な業務を最速で終わらせる。
邸で待つ妻のもとに帰宅すれば、使用人とともにエリアナが出迎え、一日の労を労ってくれた。夕食のビーフシチューを食べながら世間話を振るが、彼女は興味津々といった様子で熱心に相づちを打ち、たまに質問を挟んだ。
ベルトランとエリアナに新婚の甘さはないが、夫婦の関係は決して悪くないはずだ。
エリアナは食後のデザートにカスタードプディングを選んだ。恍惚とした表情で一口一口、味わって食べている。
少し離れた位置で待機する使用人の視線は、雛鳥を見守る親のようだった。
ベルトランもその気持ちはよくわかる。これほど幸せを噛みしめながら食べてくれるなら、もっと美味しいものを食べさせてあげたくなる。
食後は、階段で彼女と別れた。女性は寝る前の支度に時間がかかるからだ。
ベルトランも自室に戻り、湯浴みを済ませる。執務室で領地の書類に目を通し、事務仕事を終わらせ、夫婦の寝室に赴いた。
ドアを開けたベルトランは目をぱちくりとさせた。
あまりにも既視感のある光景だった。
違っているのは、彼女のネグリジェの色とデザインくらいだろう。いや、香の種類も昨日とは少し違った香りが混じっているので、配合を変えているかもしれない。
「…………」
「……、……っ……」
「…………。……」
エリアナは苦悶の表情を浮かべながら、目を固く閉じている。
数分の間じっと眺めていたが、胡桃色の髪の一房をそっと手に取ると、びくりと彼女の肩が震えた。
もし狸寝入りしていることを夫が見抜いていると知っていれば、こんな茶番は続ける意味がない。彼女は夫に気づかれていることに、まだ気づいていない。
夫として、アレグリア侯爵として、どう対処すべきか。
少し悩んだが、ベルトランは考えることを早々に諦めた。エリアナが口を閉ざしている以上、無理に聞き出すのは紳士的振る舞いではない。
エリアナが温めた寝台の中に身を滑り込ませ、目をつぶる。
忘れていた疲労感がどっと押し寄せ、そのまま泥のように眠った。
◇◇◇
ベルトランが婚約の打診をしたとき、エリアナは十九歳だった。
行き遅れと揶揄される年齢だったが、家柄や派閥、人柄を加味した結果、侯爵家に迎え入れることにしたのだ。
エリアナに婚約者がいなかった理由は、王都で流行っている婚約破棄騒動に彼女も巻き込まれたからである。真実の愛という言葉を盾に、あろうことか公衆の面前で、男性側が一方的に婚約破棄を宣言するというものだ。まったくもって理解に苦しむ。
そして、エリアナの婚約は白紙になった。彼女自身に非がないにもかかわらず。
ベルトランは両親の急逝により二十歳で家督を継いだため、領地経営が安定するまで結婚を考える余裕はなかった。
アレグリア侯爵家は、建国から続く歴史ある一族だ。自分の代で絶やすわけにはいかない。二十七歳で宰相補佐に抜擢されたときは、国王直々に「結婚して身を固めろ」と命令が下った。
(僕たちは利害の一致で結婚した。だが、君と過ごす時間は心地よい。エリアナがほどよい距離感で接してくれるからだろう。……夫婦の寝室には僕と彼女しかいない。今夜こそ、エリアナの本音を聞き出す。何か不安があるのなら、ちゃんと確かめたい)
覚悟を決めて寝室に入ったベルトランは、天蓋つきベッドに近づく。
思ったとおり、エリアナは目をつぶっていた。しかし、いつもと少しだけ様子が違う。
(…………ん? 狸寝入りではなく、本当に眠っている?)
彼女の口元に耳を寄せると、いつもの緊張を滲ませた吐息ではなく、規則正しい寝息が聞こえてくる。眉間に皺は寄っておらず、終始リラックスした表情だ。
夜でも薄化粧しているようだったが、今夜の彼女は素顔をそのままさらしている。
頬に触れても、何の反応も返ってこない。ぐっすり眠っているようだ。
(君は化粧なんてしなくても愛らしいな)
幸せな夢でも見ているのか、なんとも締まりのない顔をしている。
もしかしたら、夢で美味しいデザートでも食べているのかもしれない。その光景が容易に想像できる。
妻の寝顔をしげしげと見つめていると、不意に彼女の唇が開いた。
「うう、ベルトラン様……ごめんなさい……」
「!?」
驚きのあまり呼吸を止める。
だが、どれだけ待っても、すうすうという吐息しか聞こえてこない。
(──なんだ、寝言か)
ほっとしたような、残念のような。
ベルトランが肩から力を抜いていると、再びエリアナの唇から断片的に言葉が発せられる。
「しま……す……おね、が……」
「…………」
「……ような……悪妻には、ならないと誓います。ですから処刑ではなく、せめて修道院へ……! どうかご慈悲を……っ」
身が張り裂けそうなほどの懇願に、ベルトランはたじろいだ。
(彼女は何を言っているんだ? 処刑……?)
片手で口元を覆いながら、エリアナを凝視する。
先ほどは実際に会話しているような力強い声だったが、瞼は閉じられたままだ。実は起きているのではないかと勘ぐっていると、ふとエリアナの目尻からこぼれた雫が頬を伝う。
慌てて指先で拭ってやると、彼女の強い想いを表したかのように温かかった。
(本当にただの夢か? あの悲痛な叫びは、まるで──)
ベルトランは妻を見下ろす。エリアナは眉を寄せ、悲壮感が漂う顔つきだ。
その痛みを少しでも和らげたくて、彼女の頭に手を伸ばす。生まれてこの方、誰かの頭を撫でた経験なんてない。できるだけ優しく指先を滑らす。慎重に、そっと。
初めて触れた胡桃色の髪は、綿菓子のように柔らかかった。
おずおずと何度か撫でていると、やがてエリアナが安心したように表情をゆるませた。
しばらくして、穏やかな寝息が聞こえてきた。ベルトランは詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
(……エリアナ。夜伽を拒むのは、覚悟が決まらないからではなく、僕に断罪される未来を恐れて? もしそうだとしたら君は一体、何の罪で処刑されそうになっている?)
侯爵夫人の務めを果たそうと自ら学ぶ勤勉さ、自分のことより他人を労る博愛の精神、いつもは控えめながらも大事な場面ではきっぱりと意見を述べる姿勢。
彼女ほど、悪妻という言葉が似合わない妻はいない。
(所詮は夢だ。それはわかっている。単に夢見が悪かっただけかもしれないし、妻の寝言でいちいち思い悩むなんて滑稽だ。……それなのに、胸がざわつく。ただの直感だが、あれは普通の夢ではない気がする)
まだ夫婦になって数日だ。
心の内をさらけ出せるほどの信頼関係は、まだ築けていない。
寝所を共にしても、心の距離は近くなるどころか、遠のいている。肌を重ねることもなく、口づけを交わすこともなく、ただ隣で寝ているだけ。
(……僕たちの間には、薄いカーテンを一枚を隔てたような距離がある。こんなに近くにいるのに、君に触れることすらできないのだから)
エリアナは心の奥底に大きな不安を抱えているのではないか。悪夢にうなされるほどに。
叶うならば、その心に寄り添いたい。彼女から悩みを聞いて、不安な気持ちを減らしてあげたい。しかし夫婦の営みを拒まれている現状、それは容易なことではない。
その日、ベルトランは眠れぬ夜を過ごした。
◇◇◇
カーテンの下から差し込む明かりで、夜が明けたことを知った。
隣で眠るエリアナはまだ夢の中にいる。
(果たして、これは時間が解決してくれる問題なのか。信頼されるようになれば、いつか彼女から相談してくれるだろうか。だが、それはいつだ? 一週間後か、二ヶ月後か、一年後か。それまで、僕は起きている彼女に触れることすらできないのか?)
どこまでなら許してもらえるのか、正直わからない。
答えが出ないことを考え続けたせいで、頭がズキンズキンと痛む。
(……ああ、朝になったと自覚した途端に、急に眠気が襲ってきたようだ)
少し仮眠をとったほうがいいかもしれない。
ベルトランが次に起きたとき、隣にあったはずの温もりはどこにもなかった。小さな胸の痛みに気づかなかったふりをして、朝の支度に取りかかった。
エリアナとの日常は穏やかに過ぎていった。
彼女は相変わらず夜は寝たふりを続けているが、それ以外は何の問題もなく、平和な日々だった。顔を合わせば挨拶を交わし、雑談もする。
けれども、それだけだ。悩みを打ち明けられることも、憂いを帯びた表情を見せることもない。そのたびに、夫としての不甲斐なさを痛感した。
夕食の席で、ベルトランは探りを入れることにした。
「エリアナ。どんな些細なことでも教えてほしい。…………何か、悩んでいることはないか?」
「? 特にはございません」
「……そうか」
「皆様にはよくしていただいています。まだ慣れないこともありますが、精一杯励んで参ります」
「責任感が強いところは君の美点だが、何事も抱えすぎはよくない。女主人が休まねば、周囲も休めない。休む時間もちゃんと作るように」
ベルトランはそれだけを言うと、席を立った。
廊下に出て、顎に手を当てながら早足で歩く。それぐらい動揺していた。優しく問いかければ、きっと打ち明けてくれるだろうという打算があった。
だが、それは自惚れだった。彼女の眼差しに迷いは一切なかった。
ため息をつき、廊下の突き当たりで足を止めた。何気なく窓の外を眺める。
夕方に降り出した雨は本降りとなり、ざあざあと降る雨音が否応なく耳に入ってくる。月は隠され、黒い沼を覗いたように向こう側が見えない。ひときわ強い風が吹き、窓枠を揺らした。まるで、心の中の荒れ模様をそのまま映し出したかのようだ。
(……どうやったら君の本音を聞けるんだ?)
エリアナに頼ってもらえない。その事実にベルトランは打ちひしがれた。
◇◇◇
何の進展もないまま、一週間が経った。
どうすれば、心を開いてもらえるか。その答えは出ないままだったが、焦りだけが募っていく。一番の理想は、彼女の口から自発的に話してもらうことだ。
だが悠長に待っていていたばかりに、取り返しのつかないことになってしまったら──。
悔やんでも悔やみきれない。もう迷ってはいられなかった。
「旦那様。こちらが奥様の日記帳でございます」
書類仕事をしていた手を止め、ベルトランは顔を上げた。
黒檀の執務机に、執事が日記帳を置く。エリアナは王都にやってきた友人に会うため、朝から出かけている。観劇のボックス席も手配させたし、本人からも帰りは遅くなると聞いている。
ベルトランは日記帳を手に取り、鈍色の表紙をそっと撫でる。
「ご苦労だった」
「……僭越ながら、旦那様。奥様は使用人にも平等に優しく接してくださいます。仕立屋を呼んだ際も、侯爵夫人としてふさわしい品を守りつつ、高価な宝飾品をねだることもありませんでした。手持ちのアクセサリーで充分足りるとおっしゃって」
「…………」
「奥様は立派にお勤めを果たされています。どこにも恥じるべきことはございません」
執事に太鼓判を押されるエリアナが誇らしくなる一方で、心が波立つのがわかった。
妻の日記を盗み見るなんて、最低な行為だ。いくら侯爵家当主とはいえ、本人の許可なく読んでいい理由にはならない。
ベルトランは渋い顔になりながらも、毅然とした口調で告げる。
「誤解があるようだから、はっきり言っておく。僕は彼女を疑っているわけではない。僕にとっても、エリアナは聡明で貞淑なよき妻だ。彼女を伴侶として迎えられた幸運に感謝している」
「そのお言葉を聞けて安心いたしました」
執事の表情がふっと和らぎ、目尻の皺が深まった。にこにこと微笑まれ、チクチクと罪悪感が刺激される。
眉根を寄せたベルトランは、呻くようにつぶやいた。
「…………僕だって、女性の秘密をいたずらに暴きたいわけではない。見て見ぬふりをする良識ぐらい持ち合わせている。だが、彼女に危険が迫っているなら話は別だ。エリアナの身の安全のために、僕は調べなければならないんだ」
「さようでございましたか。差し出口を申したようで、失礼いたしました。奥様は気丈に振る舞っていらっしゃいますが、何かに苦しんでいるようです。その憂いを払えるのは旦那様だけでしょう。どうか奥様をお救いくださいませ」
「ああ。必ず」
短く答えると、執事は恭しく腰を折り、退室した。
人払いを済ませ、一人きりになった執務室はひどく静かだった。
(…………エリアナ、すまない。僕は君の秘密をこれから暴く)
心の中で懺悔し、ベルトランは日記帳のベルトを外した。
慎重にページを繰る。最初はごく普通の日記だった。しかし、数ページもいかないうちに様子が一変する。
そこには信じがたい事実が綴られていた。
よほど急いでいたのか、走り書きのような文章も多い。誰かに読まれることを前提にしていないためか、これから起こる出来事が箇条書きで列挙されていたかと思えば、砕けた口調で不満や不安が書きなぐられており、自身の破滅を防ぐ解決策も思いつくまま並べられていた。
そのすべてに目を通し、ベルトランは日記帳を閉じた。
ところどころ彼女の苦悩を表したように文字が歪んでいる箇所もあったが、おおよその内容は理解した。眉間に深く皺を刻み、椅子の背にもたれかかる。
(君には異世界の──前世の記憶がある。このままでは、小説通りに悪妻エリアナとして裁かれる。そう考え、やがて訪れる破滅の未来にずっと怯えていたわけか)
日記帳によると、小説の中のエリアナはとんだ悪妻らしい。
最初こそ従順な妻のふりをするが、徐々に化けの皮が剥がれ、侯爵家のお金を湯水のように消費するようになる。
贅沢三昧だけでは飽き足らず、長年侯爵家に仕えてきた執事の命を脅し、嫌がる夫を閨に誘う。そして侯爵家の子を妊娠したと嘯くが、新しい使用人であるヒロインが、エリアナに悪魔の加護があることを見抜く。
悪魔との契約は、最大の禁忌だ。
王国が建国するよりもはるか昔、アレグリア侯爵家が所有する公園の地下に、神話時代の悪魔が封印された。それをうっかり解いてしまうのがエリアナらしい。彼女は異空間で悪魔と体を交え、死後は自分の魂を悪魔に売る契約を結ぶ。
その代わりに、老いることのない体を手に入れる。
だが、自分の美貌を永遠のものにするという願いは、浄化の魔法を持つヒロインによって打ち砕かれる。悪魔の加護がある──それはエリアナがすでに人間ではない証しだ。悪魔はその場で浄化され、禁忌を犯したエリアナは公開処刑される。
ヒロインは大聖堂から聖女であると認定され、彼女の望みでベルトランの花嫁になる。大団円を迎え、物語はそこで終わる。
(王国周辺は昔から争いが絶えず、併合や独立を繰り返してきたという。封印された悪魔の記録が途絶えたのもそのせいだろう。……エリアナが口を噤むのも無理はない。こんな眉唾物の話、誰も聞く耳すら持たないだろう)
エリアナの孤独を思うと、胸が苦しい。
彼女は誰にも相談できず、日記にその思いを吐き出すことしかできなかった。こうしている今も、その恐怖は膨れ上がっているかもしれない。無理やりに笑みを作って。
(……アレグリア侯爵家の総力をかけて、君を破滅の道になんか落とさせない)
ベルトランは執務机の引き出しから羊皮紙を数枚取り出す。ペンスタンドから羽根ペンを抜き、先端をインク壺に浸した。
◇◇◇
それから二ヶ月後。
ベルトランは就寝準備を済ませたエリアナの部屋を訪れた。
事前に「寝る前に少し話がしたい。今夜、君の部屋に行く」と伝えていたので、飲み物を用意したメイドはすぐに下がった。
「……あの、ベルトラン様。お話というのは?」
ベルトランが紅茶で喉を潤していると、エリアナがネグリジェの上に羽織ったカーディガンを胸元でつかみながら、慎重に問いかけた。
静かにティーカップを置き、不安で揺れる緑柱石の瞳を見つめる。
「最初に言っておく。僕は君の味方だ。……ミリアム・リベラという女性を知っているな?」
「……え、ええ」
「ヒロインである彼女は、悪魔と契約したエリアナを見破り、僕と結婚する。小説ではそういうシナリオだったな?」
「!? ま、まさか……わたくしの日記を……?」
エリアナは驚愕の表情で、震えた指先を口元に当てた。
「実は君の寝言を聞いたんだ。君は、悪妻にはならないと誓うから処刑ではなく修道院への追放を懇願していた。どうにも気になって、悪いと思ったが君の日記を見せてもらった。そこで真実を知った」
「…………」
「君は悪妻エリアナとは違う行動で、破滅フラグを避けてきた。だが、日記には『物語の強制力』という単語がたびたび出てきた。これこそ、君が一番恐れていたことだろう?」
ベルトランが確信を持っていると理解したのだろう。エリアナは渋々頷いた。
「どうか安心してほしい。彼女が侯爵家の使用人になることはない。君の破滅フラグはすべて僕が折っておいた」
「……は?」
「アレグリア侯爵家所有の公園地下に封印された、神話時代の悪魔だが……。王家と大聖堂の協力を得て、秘密裏に処理した。悪魔が完全に消滅したことは僕も見届けた。よって、君が禁忌を犯す可能性は消えた。ちなみに、ミリアムは既婚者だ。遠い領地で温和な男のもとに嫁ぎ、仲睦まじく暮らしている。……つまり、彼女が僕の妻になることなど未来永劫、訪れない」
淡々と事実を告げる。
エリアナは意味がわからないとばかりに、声を荒らげる。
「えっ、で、でも……ヒロインはベルトラン様と結ばれる運命なんですよ!?」
「エリアナ。落ち着くんだ。息を吸って、僕を見て」
「…………」
「ここは君のよく知る世界なのだろう。未来予知できる君が、ミリアムの存在を無視できないのも無理はない。しかし、僕の妻は君だけだ」
「ですが、ベルトラン様。ヒロインに出会えば、あなたはヒロインを愛さずにはいられないんです。そういうストーリーですから。たとえ今はよくても、わたくしを娶ったことを後悔されるはず。その前に離縁すれば、赤の他人に戻るだけです」
ベルトランは席を立ち、エリアナの隣に座る。そして今にもこぼれそうだった彼女の涙を拭い、その頬を優しく包み込む。
「そんな寂しいことを言わないでくれ、エリアナ」
「……っ……」
「異世界の記憶があるから不安になるのはわかる。だが、貴族の常識で考えてみてくれ。伝統を重んじる侯爵家があっさり妻を捨て、婚姻歴のある平民の女を娶るわけがないだろう?」
エリアナの目が大きく見開かれる。
伯爵令嬢の記憶がある彼女なら、よく考えればわかることだ。
「侯爵家の女主人は、貴族の教養がなくてはとても務まらない。そもそも平民の女風情が、代々侯爵家に仕える使用人からどうやって忠義を得る? 老獪な狸や女狐がはびこる社交界を渡り歩くことだって不可能だろうに」
「そ、それは……」
「小説のヒロインはすでに結婚し、ハッピーエンドを迎えている。無論、君は悪妻エリアナなんかじゃない。もうミリアムの影に怯える必要はないんだ」
僕たちの愛を妨げる者は、どこにもいない。
ベルトランの想いが伝わったのか、エリアナはうつむいた。少しの間を置いて、声を震わせながら彼女が口を開く。
「……ベルトラン様。ヒロインは……ミリアムは、本当に幸せになったんです、か?」
「ああ。僕が彼女の結婚相手を見繕ったからな」
「────はい?」
「アレグリア侯爵夫人となった君にひとつ、大事なことを教えておこう。権力はこういうときに役立つ。どんな非情な運命だとしても、権力があればねじ伏せることも可能になる」
「ひぇ……」
本気で驚いているエリアナに、ベルトランは柔らかく笑いかけた。
「僕は貴族の義務を果たしている。多少は大目に見てもらえるだろう。次は、夫の義務も果たしたい」
「……ええと?」
「不安で震える妻を慰めるのは夫の役目だ。おいで、エリアナ」
そう言って自分の膝を叩く。
ぽかんとしていたエリアナだったが、やがて意味がわかったのか、ぽぽっと頬を赤らめた。しばらく待っても、彼女は恥ずかしそうに体を縮こめさせていたので、彼女の膝の下に手を差し込んで、少々強引に自分の膝の上に乗せた。
「ベルトラン様!?」
「そこまで慌てなくとも、愛する妻を落としたりなんてしない。君は本当に可愛いな」
「……ず、ずるいです。そんな甘い笑みを向けるなんて」
「当然だろう? 君は僕の妻なのだから。その時点で特別な存在なんだ。僕は社交的なほうだが、誰にでも同じ笑みを向けるわけじゃない」
エリアナは顔どころか耳まで真っ赤に染め、目を潤ませた。
「参ったな……泣かせたいわけじゃないんだが。僕は、君にとびきり優しくしたい。君の笑顔が見たい。ただ、それだけなんだ」
「え」
「運命の恋をするなら君がいい。他の誰かなんていらない。エリアナだけを生涯愛する。今回は君との未来のために少々強引な手を使ったが、……嫌われてしまっただろうか?」
長い沈黙を経て、エリアナはふるふると首を横に振る。
「そんなわけ……ないじゃないですか。ベルトラン様は態度がおかしい妻でも、黙って見守ってくださる器の大きい方です。優しく気遣ってくださり、わたくしのために心を尽くしてくれました。不満など、どこにありましょうか」
「エリアナ。僕を幸せにするも不幸にするも──すべては君次第だよ。君の心を教えてほしい。僕と離れて生きていくのが君の望みなのか?」
できるだけ落ち着いた口調を心がけたが、内心は気が気でなかった。
不安と期待で、心臓が激しく脈を打つ。こんなにも心を揺さぶる相手は、後にも先にもエリアナだけだろう。自然と、彼女の腰に回していた手に力が入る。
エリアナは今にも泣き出しそうな笑みを浮かべて、ぎゅっと抱きついた。
「……ベルトラン様。わたくしは、あなたのそばで、生きていきたい……っ!」
「ああ。これから先もずっと一緒だ」
結婚式以来の口づけは、ひどく甘かった。
ベルトランは物語の強制力を権力でねじ伏せる男です。
ちなみにエリアナが前世の記憶を思い出したのは、初夜の1時間前でした。それまで貴族令嬢らしく初夜は妻の義務と受け入れていましたが、処刑される未来を知ったため、初夜どころではなくなりました。脳内は大パニック中で、とっさに寝たふりをしました。





