第1話 アスファルトと、昼間の星
四月。東京の空は、いつだって霞んでいる。春特有の薄曇りと地面から舞い上がる埃、そして無数のビルの排気口から吐き出される熱気。それらが混ざり合って、空は水色というよりは薄めた牛乳のような白に近い色をしていた。
「、、、あづい」
真新しいブレザーの襟を引っ張りながら、小日向あかりは小さくため息をついた。今日から高校生。校門には『入学式』と書かれた看板が立てかけられ、その周りでは記念写真を撮る親子連れが列を作っている。あかりはその賑やかな輪を避けるように、少し早足で校舎へと向かった。
――高校生活に過度な期待はしないこと。それが、あかりが中学時代に学んだ処世術だった。部活で全国を目指すとか、運命の恋をするとか、そういうのは漫画の中だけの話。現実は勉強と、そこそこの友人関係と、スマホの充電を気にする毎日が続くだけだ。
「そこの新入生ー!! バスケ部どう!?」
「吹奏楽部でーす! 初心者大歓迎ー!!」
入学式が終わった直後の昇降口は戦場だった。色とりどりのチラシを持った先輩たちが新入生という獲物に群がっている。人混みが苦手なあかりは音の壁に圧倒された。
(うわ、すごい、、、早く帰りたい。)
カバンの紐をギュッと握りしめ、勧誘の波を泳ぐようにすり抜ける。どこか静かな場所へ。誰にも話しかけられずスマホのゲームができる場所へ。
あかりがたどり着いたのは、特別棟へと続く渡り廊下のさらに奥にある非常階段の踊り場だった。ここなら誰も来ないだろう。ほっと息をつき手すりに寄りかかる。そこからは中庭の桜と、その向こうに広がる街の景色が見えた。ビル、ビル、マンション、ビル。地面はどこまでもアスファルトで覆われている。
「、、、眩しいなぁ」
あかりが目を細めた、その時だった。
「だよねぇ。今日の空は、ちょっと機嫌が悪いみたい」
頭上から、のんびりとした声が降ってきた。
「えっ」
と声を上げて見上げると、上の階の踊り場から誰かが身を乗り出していた。長い髪を緩く結んだ優しげな顔立ちの女子生徒。ネクタイの色は緑色。三年生だ。
彼女はトイレットペーパーの芯のような黒い筒を片目に当てて、じっと昼間の空を見上げていた。
「あ、あの、、、何してるんですか?」
あかりが恐る恐る尋ねると、先輩は筒を下ろし、ふにゃりと笑った。
「んー? 星を見てるの♪」
「え、、、星?」
あかりは釣られて空を見た。 真っ白な昼間の空。太陽が照りつけているだけだ。
「こんな昼間に、、、ですか?」
「うん。見えないけどね。でも、見えないだけでそこに『ある』から」
先輩は不思議なことを言った。見えないものを見る。哲学だろうか。それとも少し変わった人なのだろうか。
「君、一年生?」
「あ、はい。小日向あかりです」
「あかりちゃんかぁ。いい名前だね。私は夏目みどり。一応、ここの天文部の部長やってます♪」
”天文部”。その単語を聞いた瞬間、あかりの脳裏に【高そうな望遠鏡】と【難しそうな数式】が浮かんだ。一番縁遠い世界だ。
「、、、てことは、その筒も望遠鏡の一部ですか?」
「これ? ううん、ただのトイレットペーパーの芯を黒く塗ったやつ」
「はぁ……」
「望遠鏡なんて重いし、セッティング面倒だしね。うちはそういうの、使わないんだー」
みどり先輩は、その黒い筒をあかりに差し出した。
「覗いてみる?」
「え、、、あ、はい」
言われるがまま、あかりは筒を受け取り、片目に当てて空を見た。円く切り取られた視界。余計なビルや、校庭の桜が隠され、ただ「青白い空」だけが見える。
「どう?」
「、、、ただの、空です」
「ふふふふ、そうでしょー。でもね、そうやって視界を制限してあげると人間の目は『もっとよく見よう』として頑張るんだよ。今は無理でも、夜ならこれだけで普段見えない星が見えてくる」
みどり先輩の声は、春風のように心地よかった。
「うちはね、『見上げるだけの天文部』なの。機材はいらない。必要なのは、自分の目と、ちょっとした暇な時間だけ」
”見上げる”だけ。その言葉が、あかりの胸にストンと落ちた。難しく考える必要はない。ただ、上を向けばいい。
「、、、暇な時間なら、あります」
「ほんと?じゃあ、放課後屋上に来てみない?今日は歓迎会代わりに、いいものが見れるかもよ♪」
勧誘されているはずなのに、全く強引さを感じない。まるで「天気がいいから散歩しよう」と誘われているような気軽さだった。
「あかりー!ここにいたー!!」
その時、渡り廊下の向こうから元気な声が響いた。同じクラスになったばかりの、星野キキちゃん。両手いっぱいにダンス部や軽音部のチラシを抱えている。
「もう、探したよー! 一緒に部活見に行こうって言ったじゃん!クレープ屋の割引券配ってる部活あるらしいよ!!」
「あ、ごめんキキちゃん。、、、あの、私」
あかりは手の中の黒い筒を見つめた。ただのゴミみたいな紙の筒。でも、、、これを覗いた時の、世界がシュッと狭まって空だけになった感覚が、、、指先に残っていた。
あかりは上の階を見上げた。みどり先輩が、ニコニコと手を振っている。
「、、、行ってみたい部活、あるんだ」
高校生活に期待なんてしていなかった。でも、、、あのアスファルトしか見ていなかった視線を。少しだけ上に向けてみるのも悪くないかもしれない。
これが小日向あかりと【見上げるだけの天文部】の出会いだった。




