浮気
朝食の後、看護師が来て許可を得ずに面会に来ていたルナは無事に病室を追い出された。その後シャワーをしてシーツ交換をしてもらっている間、晶は医師の許可をもらって病院のカフェに来ていた。
晶がカウンターで注文をして、座って待とうと空いてる席を探していた時だった。ルナがどこかの女性と親しげに話している。手を繋いで。明らかに親密だ。
晶が他のチームの仕事を手伝う時に幾度となく見てきた一部始終によく似ていた。不倫。女性の左手薬指にはシルバーのリング。
最低だ。
昨日、あんなことをしておいて。今朝も勝手に押しかけて、好き勝手して。今はどこかの女性と浮気をしている。
“付き合う”と決まったわけではない。だが、いい歳をした大人が、“これから付き合いましょう“などと言って交際を始めるだろうか?
晶は冷や水をかけられた気分だった。カウンターから注文したコーヒーを貰って、そのまま病室へと帰った。
荷物をまとめて、医師と面談できないか、看護師に伝える。医師はすぐに晶の元へやってきた。
「紫水さん、どうしました?」
「あの、私、やっぱり今日退院できないですか?仕事が残っていて…」
「仕事ですか?あなた、一昨日過労で死んだばかりですよ?…あ、いえ、その、仮死状態」
「それはわかってます。でも、どこも異常はないですよね?」
「昨日の検査データ的にはそうですけど…まだ、検査できていない項目もありますし、原因も不明のままです」
「…じゃあ、通院という形はどうですか?仕事もだいぶ融通してもらっているので、やらなければならない仕事だけは片付けたいんです。午前中に病院に来て、午後から出勤とか、そういうのは可能ですか?」
「紫水さんが負担でなければ…可能ですが」
「じゃあ、それでお願いします。今日から」
物分かりのいい医師だった。さすが、ブラックと呼ばれる職業人だ。やらなければならない仕事、というワードにひっかかたらしい。
医師も弁護士も、高所得者として世間からは見られているが、実際のところそうではない。医者も弁護士もまともに人を助けようとしている部類の人間は、いつでも薄給だ。
自由診療や金持ちの訴訟ならばたんまりと見返りをもらえるだろう。だが、この公立病院で働く医者も、人権派や国選弁護士として活動する者も、見合った待遇とは程遠いい環境にいる。晶も晶の主治医も、世間が思うほど稼いではいない。
謎のシンパシーが生まれた二人が今後の検査計画を立てるのは早かった。この医師が弁護士なら、きっと一緒に仕事をしてもスムーズに行くのだろう。
晶はそう思った。荷物をまとめて病院を去るときに、廊下を通りかかった先ほどの医師に晶は声をかける。
「先生、私のわがままをきいてくださって、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ、我々のためにご協力いただいて感謝しております」
「もし、私が力になれることがありましたら、いつでも連絡ください。何度か、外国人医師の待遇改善について訴訟を担当したことがありますので。うちは病院側の弁護に回る専門のチームもありますし。ご入用の際は、是非」
名刺を受け取った医師は笑った。
「頼もしいですね。私は名刺は持っていませんが」
そう言ってスクラブのズボンのポケットからスマホを取り出した医師は、画面をこちらに向けている。
「この番号は、私に直通のホットラインです。体調のことでも、プライベートなことでも、もし、何かあれば、この番号に連絡してください」
その場でぶつぶつと番号を読み上げて暗記をした晶。主治医はまさか晶が見たものをそのまま思い出せる記憶力の持ち主だとは思わないだろう。お互いにお世辞だと弁えてにっこり笑って、お互いに一礼をしてその場を後にした。
その一部始終を誰かに見られているとは晶は思わなかった。
晶はそのまま事務所へと向かう。オフィスにいるはずのない人物が登場して、フロア全体が騒ぎ出した。
「ちょっとちょっと!なんでいるの!?」
すぐさまジェイクが駆け寄ってきた。
「ジェイク、昨日はありがとう、お見舞いに来てくれて」
「そりゃ、君が死んだって!いや、蘇ったって聞いたからさ!病み上がりなんだから、休みなって!」
「んー、そうなんだけど、何もせずぼうっとしてると逆に、うつ病にでもなりそうで。主治医の許可はちゃんと取ってる」
「まあ……専門家がいいって言うならいいんだろうけど…」
オフィスがひとしきり盛り上がった後、晶は社長と部長に挨拶をして、午前中は通院し午後から勤務することで合意した。そして、しばらくの間は追加で案件を振り分けないこと。さらに、傷病手当はもらい、長期休暇は以前担当していた案件が終わったら必ず受け取ること。それを約束して復帰した。
晶が定時で終わって退社すると、ロビーにルナがいた。
鬼のような形相で。
晶はその横を挨拶もなしに通り過ぎた。しばらく歩くがルナは追いかけてくる様子がない。晶が気になって後ろを振り返ると、受付の女性をナンパしているようだった。
少しでも期待した自分が惨めで、晶は今日教えてもらった番号にかける。
8コール目で相手が出た。
『はい、丹糸です』
「あ、先生?私です、今朝退院した、紫水晶です」
『あ、え、』
電話の奥で戸惑っている声が聞こえる。もう忘れられているのか、電話したらまずい状況だったのか。晶は電話したことを一瞬後悔したが、すぐに明るい返事が返ってきた。
『紫水さん、まさか、本当に電話が来るとは思わなくて…メモしている様子もなかったですし』
「私、記憶力はいい方なんです。あの、今、お忙しいですか?」
『退勤したばかりです。どうされました?』
「先生、今日、この後、何か用事はありますか?」
少しの沈黙の後、電話の向こうから明るい声が聞こえた。
『ええ、暇ですよ。もし紫水さんも暇なら、今夜、一緒に食事でもいかがですか?』
晶の返事は最初から決まっていた。




