REBOOT:M
警視庁捜査一課・第七係、臨時捜査会議。
「第二の遺体が発見された以上、連続性は確実だ」
矢島課長が会議室を見渡す。木村が立ち上がって説明を続けた。
「遺体の縫合痕と歯牙全欠損は、手口として完全に一致しています。しかも今回の現場には、REBOOT:Mと酷似した暗号断片が、地下の排水溝壁面に記されていました」
「書かれていた? スプレーやペンでか?」
「いえ。……何か金属製の器具で刻まれたような痕です。まるで誰かに“伝える”ために残されたような……」
矢島は黙ったまま顎に手を当てた。
「……つまりこれは、犯人の痕跡ではなく、警告かもしれないということだな」
「NSAにもその写真は送付済みです。向こうも“LV-Ω”に関係ある可能性を否定していません」
「よし、今夜中に資料を精査して、明朝までに仮説を立てる。木村、君は第一・第二現場の共通点を再分析してくれ」
「了解です」
春の夜は、東京の空に淡く霞んでいた。 だが、その霞の奥では確実に何かが、次の姿へと変わりつつあった。
その同時刻、アメリカ・メリーランド州、NSA本部 地下4階・特別戦略通信室。
「出席確認。分析局、技術局、対諜報部門、暗号通信解析チーム……全員揃っています」
重厚な防音扉の向こうで、厳重なセキュリティを通過したメンバーたちが、長い楕円形のテーブルに静かに着席していた。
「本日の議題は“REBOOT:M”に関連する国際事案、および“LV-Ω”の再定義について」
中央に座る白髪の戦略部長・マッケンジーが開口一番に言った。
「日本で発見された2体の遺体。歯牙全欠損と医療的縫合。すでにLV-Ω関連コードとの一致を3件確認している」
「問題は“誰が”“なぜ”という部分だ」
別の技術局員が資料を広げる。
「暗号化されたREBOOT:Mのコード群に、今朝、未知の変数が追加されました。コード名“Ω-Dust”」
「“Dust”?……消去残渣、あるいは痕跡回避処理か?」
「はい。そしてその直後に日本側の防衛通信網に一時的なトラフィック変動がありました」
室内の空気が重くなる。
「もはやこれは、非国家レベルの脅威だ。NSAだけで処理するには限界がある」
マッケンジーはテーブルを叩いた。
「LV-Ωを“消極的監視対象”から“アクティブ・グレイゾーン対処”に格上げする。……この場で異論は?」
沈黙。
「ならば決定だ。コードネーム“クロックダウン・フェーズ1”を発動する」
その瞬間、部屋の空気が変わった。 長く静かだった時計が、“動き出した”。
同じころ——東京・多摩川下流域。
朝6時45分、釣り人の男性が川岸のごみ溜まりに目を留めた。
「ん? ……これ、人間の、手……?」
警視庁捜査一課の現場到着は7時12分。すぐに周辺が封鎖された。
「今回も……歯が、全部ない。しかも——」
鑑識員が遺体の首筋を調べながら息をのむ。
「皮膚の内側に、コードが刻まれてる……“Ω-Dust-003JP”」
木村刑事がそれを見て呟いた。
「第3の遺体……ついに、こっちにも“Ω-Dust”が来たか」
木村刑事は、遺体の首筋に刻まれた暗号を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……こっちにもか」
その声には驚きというよりも、諦めに近い確信がにじんでいた。
「第3の遺体……“Ω-Dust-003JP”。間違いなく、同一系列の犯行です」
横にいた鑑識員が顔をしかめる。
「これ、本当に“人間”がやってることなんでしょうかね……」
木村は答えなかった。ただ、ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸った。
——これでも、まだ“始まり”なのかもしれない。
次は、警視庁側での緊急会議の再招集、もしくはNSA側での「003JP」コード解析、または美咲たちの学校で起こる小さな異変などへ進められます。どうしましょうか?
その日の午前10時——警視庁本庁舎・第六会議室。
「公安からも一人、参加してもらうことになった」
矢島課長の言葉とともに、会議室のドアが開いた。無地のスーツに無表情の男が静かに入室する。
「公安部公安総務課所属、速水です。今回の件、情報対処班より指名を受けました」
木村が少し身を乗り出す。
「公安が……ってことは、この事件、テロの可能性も視野に?」
「断定はできません。ただ、組織性、儀式性、そして“国家外”からの影——どれを取っても通常捜査では不十分です」
速水の口調は平坦だが、その言葉に場の空気が変わる。
「すでに内閣情報調査室、そして外務省安全保障室とも連携体制が敷かれています」
矢島が続けた。
「“Ω-Dust-003JP”というコードは、NSAが今朝、最高警戒レベルで処理を始めたそうだ」
「日本で発見されたコードに、外国の諜報機関が震える……」
木村がつぶやく。
速水は鞄から一枚の写真を取り出した。それは、第三の遺体の首筋に刻まれたコードの拡大図だった。
「このフォント、そして刻まれた深さ……“刻印”ではない。これは、内部から“焼き込まれた”ものです」
「内部から?」
「医療的に見て、皮膚の内側から高温の素子で焼かれた痕跡がある。つまり、体内に装置があったということです」
会議室に沈黙が落ちた。
「我々が今、相手にしているのは……人間の枠を逸脱した何かかもしれない」
アメリカ・メリーランド州 NSA本部 地下通信室
「日本から第三の報告が届いた。“003JP”コード確認、画像添付あり」
分析官のカーラ・モントレーが、端末の前で声を上げた。背後ではスクリーンに日本側から送られた写真——皮膚に焼き込まれた“Ω-Dust-003JP”の痕跡が拡大表示されていた。
「内部焼き込み処理……これは以前我々が“レベルDアプリケーション”で想定していた範囲を超えている」
技術主任のハワードが腕を組む。
「つまり、“外部から記号を刻まれた”んじゃない。“体内から符号を噴き出させた”と」
「自己発火型コード反応。……オメガ・ダストは、“焼印”じゃなくて“自己識別子”?」
「つまり、“彼”らはこの記号を自分自身の内側に持っているってことか……」
カーラが画面を切り替えた。
「さらに重要なのは、日本の公安部が今回正式に動いたことです。レポートによれば、“国内テロではなく、国家外の情報制御機構”に対する警戒が含まれていました」
マッケンジー部長が席に着いたまま静かに言った。
「やはり、“LV-Ω”は単なる暗号ではない。これは――コード化された“存在の再定義”そのものだ」
誰も、軽口を挟む者はいなかった。
「カーラ。すぐに東京へコード解析班を派遣しろ。コード感染型事象が始まっていると判断して構わん」
「了解。“クロックダウン・フェーズ2”へ移行ですね」
「そうだ。次の段階に入る」
翌日——羽田空港・政府専用ゲート。
午後2時20分、到着ロビーにひっそりと一行が現れた。
先頭を歩くのは、NSAコード分析班チーフのカーラ・モントレー。
40代半ば、切れ長の目と冷静な口調を持つ、暗号通信の専門家。
その隣に控えるのは、20代の若き分析技術官ジョシュア・テイト。かつてサイバー戦で実績を挙げた“数字に愛された青年”だ。
出迎えに現れたのは公安部の速水と、捜査一課・木村刑事。
「NSAのカーラ・モントレーです」
「公安部・速水。ご足労いただき感謝します」
カーラはすぐに要点に入った。
「我々の目的はただひとつ。Ω-Dustコードを使用した連続事案の“起点”を突き止めることです」
「起点……?」と木村が首をかしげた。
「はい。“Ω-Dust”は拡散型暗号。生成された“順番”があるはずです。日本のコードが003なら、001と002はどこにあるか。あるいは、すでに“失われた”のか」
速水はうなずいた。
「公安としても、最優先で協力する。“REBOOT:M”とLV-Ωの接点に関しても、内閣情報調査室に伝達済みです」
木村が思わず聞いた。
「それにしても……こんなこと、日本で起きるなんて思ってなかったでしょう?」
ジョシュアが初めて口を開いた。
「正直、驚いてません。LV-Ωの痕跡は、ほとんどの場合、“静かで目立たない国”で現れるんです。平和と秩序がある場所ほど、“情報の切除”が成功しやすい」
「……まるで、桜の下で行われる処刑みたいなものか」
木村の言葉に、カーラが目を細めた。
「それ、アメリカ本部の誰かも似たようなこと言ってました。『このコードは、“穏やかな春”に埋もれるのが似合ってる』って」
東京・霞が関、公安部地下第3会議室。
午後7時——NSAと公安の初の合同ブリーフィングが始まった。
会議室には、警視庁捜査一課・木村、公安部・速水、NSAのカーラとジョシュアを含む十数名が揃っていた。室内には電波妨害と通信遮断の特別対策が施されている。
「我々の目的は、Ω-Dustのコード体系を再構築することです」
カーラがスクリーンを指し示す。
「こちらが現在確認されているコード群。003JP、日本の第三事例。そしてこちら——」
ジョシュアが画面を切り替えると、そこにはごく最近アジア某国で発見された“Ω-Dust-002KR”のデータが映し出された。
「002……韓国?」
「はい。コードが確認されたのは1週間前ですが、発見当時は無関係の事件と判断され、正式報告が遅れていました」
カーラが短く息をつき、重い声で言った。
「そして——今朝、過去記録の再解析中に、最初の痕跡が見つかりました」
スクリーンに映し出されたのは、5年前、ドイツ・ベルリンで報告された未解決事件の写真。
死体の首筋にはかすれた焼痕でこう記されていた。
Ω-Dust-001DE
会議室の空気が一変する。
「5年前……ドイツ?」
「はい。当時は偶発的な爆発による死傷事件として処理されました。ですが今回の再調査で、遺体の皮膚内側に同様の焼き込みがあったことが判明しています」
速水が目を細める。
「つまり、LV-Ωは5年前から動いていた……いや、もしかしたらもっと前から」
木村が手元の資料に視線を落としたままつぶやいた。
「001、002、003……次は?」
ジョシュアが無言でカーラを見た。
カーラは、まるでその質問を待っていたように静かに答えた。
「すでに、次の“コードナンバー”が生成される準備は整っている可能性が高いです」
「それは、どこに?」
「まだ分かりません……ですが、“桜が咲く場所”という暗号文が、すべての記録に共通して残されていました」
沈黙の中、速水が静かに立ち上がった。
「ならば、日本での次の発生は、桜が咲き誇る場所——つまり、すでに候補地に挙がっている可能性が高い。
……現地封鎖、間に合うか?」
会議室の照明がわずかに落とされ、スクリーンに衛星画像が投影された。
NSAのジョシュアが操作するノートPCから、数枚の地図が次々に切り替わっていく。
「我々は、これまでのコード001〜003の発生地に共通する環境条件を抽出しました。
具体的には——“都市部の境界”、かつ“季節性の花木”、そして“定期的に地域活動が行われる公共空間”」
木村が首をひねった。
「……なんだか、普通の住宅地にいくらでもありそうだけどな」
ジョシュアがスクリーンを止めた。画面に映っていたのは、日本語の案内板が立つ公園の空撮写真。そこにははっきりと、満開の桜が咲き誇っていた。
「その通りです。だからこそ、候補地は多数ある。しかし——“この場所”には、もうひとつの共通点がある」
ジョシュアは別ウィンドウを開いた。
そこには、過去3週間の匿名通信記録の断片が表示されていた。メッセージの一部が赤くハイライトされる。
「Phase004 - blossom target confirmed - JP/E23」
速水が鋭く反応する。
「E23……江戸川区の第23小学校通学区域……?」
カーラが言葉を重ねる。
「その地域にある公園が“南小春公園”——3日前、美咲と陽菜が写生をしていた場所です」
室内の空気が凍りつく。
「そこに何が……」
木村の問いに、ジョシュアが静かに応える。
「“Ω-Dust-004JP”。
次の“コード生成”が、あの公園で起きる可能性があります——最短で48時間以内に」
南小春公園——午後2時。
陽は柔らかく、空には雲ひとつなかった。
監視はすでに始まっていた。
公安部・速水の指揮のもと、覆面警官3名が公園内のベンチや児童遊具の陰に紛れ、NSAの技術班は近隣マンションから小型ドローンによる空撮監視を展開していた。
公園には、幼児を連れた母親、写生をする小学生、スケッチブックを抱えた高校生の姿。
どこを見ても、“事件の起きそうな空気”など微塵もなかった。
「異常なし。子どもたちが多くて逆に緊張しますね」
と、無線越しに監視班の一人がぼやく。
速水は無言で双眼鏡を外した。ジョシュアが横に立ち、タブレットでトラフィック監視結果を確認していた。
「無線もネットも、通信異常ゼロ。空気の揺れもなし。……変ですね」
「“あまりに”何も起こらなさすぎる、か」
カーラも静かに現場へ到着し、地図を指差した。
「観測ポイントは正しい。暗号も、“ここ”を指している。だとすれば——」
「……誰かが、こちらの動きを先に察知して“引いた”可能性があるな」
速水の言葉に、全員が静かになった。
まるで、誰かが“この桜の下で何かが起こる”と分かったうえで、それを延期したかのような静寂。
子どもたちは笑い、花は揺れ、スケッチブックには“今しかない春”が描かれていく。
だがそのすぐ外側で、警察とNSAはただ沈黙を抱えたまま、カウントダウンの行方を見守るしかなかった。
「……何も起きなかった、というのが、いちばん不気味です」