朝の音と、春のにおい
第1話:朝の音と、春のにおい
「おばあちゃん、お味噌汁、もうできてる?」
台所からひょこっと顔を出したのは、小学五年生の陽菜。まだ髪もとかしていない寝起きの顔で、ほっぺがふくらんでいた。
「できてるよ〜、あとはお豆腐を入れるだけ」
祖母の澄子は、味噌をといた鍋をかき回しながら笑った。
「先に庭の桜、見てきな。今朝、けっこう咲いてたよ」
「ほんと!? じゃあ、ちょっとだけ!」
陽菜はパタパタと廊下を駆けて縁側へ出た。朝の光が木々の間から差し込み、まだ少し冷たい風が頬をなでる。
「……わあ、きれい……」
庭の桜の木が、まるで夢みたいに淡い花をつけていた。小さなピンクの花びらが風にのって、静かに舞っていく。
「おばあちゃん、咲いてるよ! 春、来たんだね!」
「そうだねえ。……春は毎年来てくれるけど、今年の春は、なんだか優しい気がするよ」
陽菜は、桜を見上げながら小さくうなずいた。
「明日、学校で桜の絵描くんだ。……わたし、この庭の桜、描いてもいい?」
「もちろんさ。ここに生まれた子が、この桜を描いてくれるなんて、木も喜ぶよ」
その会話の後ろで、味噌汁のいい匂いが、家の奥からふわりと流れてきた。
平凡で、でも愛おしい朝だった。
そのころ——アメリカ、メリーランド州。 NSA(国家安全保障局)・第3監視部門。
「コード異常を検出。再送信、3回目……それでも内容は復号不能」
若いオペレーターが、モニターに映った文字列を指差した。
「また“REBOOT:M”の派生コードか?」 上官が覗き込む。
「いえ、今回はそれより古いプロトコルです。“桜”という文字列が繰り返されています」
「“桜”? 日本語か?」
「はい。送信元は不明。ただ、経由ノードが日本国内のローカル光回線を示しています」
「……なんでこのタイミングで、日本の“桜”が暗号に出てくる?」
誰かが、どこかで、何かを始めた—— NSAの静かな部屋にも、春の兆しは確かに届き始めていた。
同じ日、午後。 東京郊外、江戸川沿いの堤防下で、河川工事を行っていた作業員がスコップの動きを止めた。
「……ん? これ、石じゃないぞ」
泥の中から覗いたのは、白くて細い、骨のようなものだった。
「ちょっと誰か、警察に連絡してくれ!」
やがて現場は封鎖され、警視庁の鑑識が到着。ブルーシートの下から慎重に掘り出されたのは、白骨化した人間の遺体だった。
「成人男性……死後、数年以上が経過してるな」
「頭部に外傷なし。けど……」
鑑識員が、遺体の口元にライトを当てて息をのむ。
「歯が、全部抜かれてる……一本残らず」
警部補が無線で本部に報告する。
「こちら第一現場。遺体は歯牙全欠損。身元確認は極めて困難と思われます」
その報告は、奇しくも“桜”という暗号を検知したNSAの報告と、ほぼ同時刻に記録された。
桜が咲き、春の光が差す日本の川辺で。 人知れず、何かが静かに崩れ始めていた。
翌朝、警視庁捜査一課・第七係。
会議室の空気は、コーヒーの香りと緊張感が入り混じっていた。
「江戸川の白骨死体、正式にうちが引き継ぐことになった」
課長の矢島が、配られた写真を机に並べながら言った。
「歯がすべて抜かれていた件、どう思う?」
若手刑事の木村が、眉をひそめる。
「身元を特定させないための処理……あるいは、何か別の意図が?」
「だが、そこまで徹底して歯を抜く手口は聞いたことがない」
矢島は静かに頷いた。
「情報はNSAとも共有された。向こうでも似た事例が出てるらしい」
「アメリカと……?」
「現場の鑑識記録には、“REBOOT:M”という文字列も書き残されていた。遺体に貼られていた古いラベルに印字されてたらしい」
室内に、微かなざわめきが走る。
「この事件、国内だけで完結しない。覚悟してかかれ」
そのころ——また別の東京郊外、のどかな住宅街。
「翔太くん、ランドセル、逆だよ!」
「えっ? あ、ほんとだ〜」
美咲がくすくす笑いながら、翔太の背中のベルトを直してあげた。
「ありがとう。……てか、なんでそんなに早いの?」
「桜見たくて、ちょっとだけ早く来たんだよ。あそこの公園の木、満開だったよ!」
「マジで? 寄ってく? 写生会の練習にもなるし」
二人は並んで歩き出した。小学生らしい小さな足音が、アスファルトの上に軽やかに響く。
「……あのね、私、昨日おばあちゃんと“この春がいちばん優しいかもしれない”って話したの」
「優しい春?」
「うん。なんか、風もあったかくて、桜もゆっくり咲いてる気がして……」
翔太は少し考えてから言った。
「そういうの、すごくいいな」
風がふわりと吹いて、二人の間を桜の花びらが通り抜けていった。
何も知らない子どもたちの、静かで温かい春の日。 それは、世界のどこかで崩れ始めているものと、まるで正反対の時間だった。
公園に着くと、すでに花見客でにぎわっていた。 ブルーシートの上では、おにぎりを広げる家族、カメラを構える中年男性、犬を連れた老夫婦、そして浴衣姿の女子高生までいた。
「わっ、すごい人!」
美咲が目を見開くと、翔太も笑った。
「この前までガラガラだったのにね。やっぱり桜の力ってすごいな」
「写生できるかなあ……」
「うん。でもせっかくだし、ちょっとここでお弁当食べたいな」
「……え、持ってきたの?」
翔太はランドセルの奥から、小さな布包みを取り出した。
「ママが作ってくれた。美咲ちゃんの分もあるって」
「……やさしいなあ。ほんと、優しい春だね」
桜の下で笑い合うふたり。その声は、春の風にのって、にぎわう公園の空に溶けていった。
警視庁捜査一課・第七係 会議室では、捜査会議が再び開かれていた。
「報告を」 課長の矢島が短く言う。
「現場周辺の監視カメラ、過去3ヶ月分を洗いましたが、不審人物の出入りは確認できず。ただし……」
木村がファイルを開きながら続けた。
「10年前に同じ場所で、類似した遺体が見つかっていたという報告がありました。未解決事件です」
「歯の状態は?」
「部分欠損。今回ほど徹底されてはいませんが、似た処理跡がありました」
矢島が腕を組む。
「それが“プロトタイプ”だった可能性もあるな」
「NSAとの情報共有は進んでます。先方も過去の“REBOOT:M”関連事件と照合を始めています」
「この事件は過去ともつながっている。……時間軸で見直す必要があるな」
室内の空気が、一層静まり返った。捜査は、新たな局面へと移ろうとしていた。
翌日の夕方、江戸川区の旧貯水施設跡地で、第二の遺体が発見された。
現場に急行した木村は、鑑識の報告を受けながら顔をしかめる。
「歯の全欠損……第一の遺体と同じですね」
「さらに今回、首元に奇妙な縫合跡があります。後から開かれて、また閉じられたような……手口が、やけに“きれい”すぎる」
鑑識員がファイルを差し出しながら言った。
「おそらく、医療か解剖の知識がある者の手によるものと見られます」
木村は頷いた。 「つまり、プロの仕事……」
報告を受けた矢島は、会議室で静かに言った。
「同一犯の可能性が高い。しかも、素人じゃない。“歯を抜く”だけじゃない。これは情報の“切除”だ」
プロの仕業。 誰かが、何かを、徹底的に消そうとしている。
桜が咲く日本のどこかで、また一枚、仮面が落ちた。
その翌朝——外務省・国際警察協力室を経由し、アメリカ大使館を通じてNSAとの緊急通信が行われた。
警視庁本庁舎の地下会議室では、矢島課長と木村刑事、外務省連絡官、通訳官が並んでモニターに向かっていた。
「NSA本部、こちらTokyo-Metropolitan PD、捜査一課。音声確認できますか?」
『こちらNSAオペレーション・センター。音声クリア。日本側の第二事案、受領済みです』
モニターに現れたのは、冷静な表情の女性分析官だった。
「我々の過去データにも、同様の“歯牙全欠損”および“縫合処置”の記録が複数存在します。REBOOT:Mプロトコルとの関連は否定できません」
木村が身を乗り出した。
「REBOOT:Mの目的、何かわかっていることは?」
『断定はできませんが、特定の個体情報を“物理的に切除・リブート”する儀式的行為——と仮定されています』
「まるで、人間ごと“ファイル消去”してるみたいだな……」
誰かが呟いたその言葉に、誰も否定の声を上げることはできなかった。
「……つまり、個人の記憶や履歴を、社会から完全に抹消する手段として機能している可能性があるわけですね」
通訳が訳す前に、NSA側の分析官が静かに続けた。
『さらに付け加えるなら——REBOOT:Mが実行されるケースでは、必ず何らかの“記録抹消機関”の影が見え隠れしています。内部コードには“LV-Ω”という識別子も……』
「LV-Ω……?」
矢島の声に、分析官がわずかに表情を曇らせた。
『我々NSAの独自分類でも“レベル・オメガ”に該当するもの——つまり、国家単位では対処不可能な大規模情報制御機構の可能性があるということです』
室内の空気が凍りついた。
「つまり、大きな組織がこの背後にいる……と」
『その通りです。個人レベルの犯行ではあり得ない痕跡が、複数の地点に同時に存在している。明らかに組織的です』
その日の午後、美咲と陽菜は近くの図書館で待ち合わせをしていた。
「ひさしぶりに一緒に来たね、図書館」
「うん。写生会の参考に、桜の本探そうと思って」
陽菜がにこっと笑い、リュックからメモ帳を取り出す。
「今日はね、“桜のいろんな名前”を調べるの。染井吉野だけじゃなくて、なんか“枝垂れ桜”とか“寒緋桜”とかもあるんだって」
「え、すごい……詳しいなあ。私は“桜前線”って言葉くらいしか知らなかったかも」
「ふふ、じゃあ一緒に調べよ!」
2人は児童書コーナーの机に並んで座り、桜に関する本を何冊も広げた。
「あ、この“彼岸桜”って書いてあるやつ、うちの近所にあるかも」
「じゃあ今度見に行こうよ!」
外の世界がどんなにきな臭くても、この小さな図書館には、静かであたたかい時間が流れていた。
「……もう夕方だよ。そろそろ帰ろっか」
陽菜が腕時計を見て言うと、美咲もうなずいた。
その日の午後、美咲と陽菜は近くの図書館で待ち合わせをしていた。
「ひさしぶりに一緒に来たね、図書館」
「うん。写生会の参考に、桜の本探そうと思って」
陽菜がにこっと笑い、リュックからメモ帳を取り出す。
「今日はね、“桜のいろんな名前”を調べるの。染井吉野だけじゃなくて、なんか“枝垂れ桜”とか“寒緋桜”とかもあるんだって」
「え、すごい……詳しいなあ。私は“桜前線”って言葉くらいしか知らなかったかも」
「ふふ、じゃあ一緒に調べよ!」
2人は児童書コーナーの机に並んで座り、桜に関する本を何冊も広げた。
「あ、この“彼岸桜”って書いてあるやつ、うちの近所にあるかも」
「じゃあ今度見に行こうよ!」
春の光が窓から差し込み、本のページの上で反射していた。
外の世界がどんなにきな臭くても、この小さな図書館には、静かであたたかい時間が流れていた。
「うん。明日も学校あるしね」
2人はそっと本を閉じ、借りた数冊をバッグに入れると、受付に軽く頭を下げて図書館を後にした。
外に出ると、夕陽が西の空を赤く染めていた。風が少し冷たくなって、昼間とは違う季節の匂いが漂っていた。
「ねえ、美咲ちゃん。今日、なんだかすごくいい日だったね」
「うん。たくさん桜のこと知れたし、春ってやっぱり好きだな」
2人の影が長く伸びて、帰り道を静かに照らしていた。