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四、待ちの談笑

「そういえば、さっき樹希ちゃんが言ってた、海咲ちゃんの釣りをする理由って何?」

 餌を投げ入れて少し、ちゆるが海咲を振り向いた。潮騒だけが響く波止で、並んだ三人は静かに魚が餌にかかるのを待つ。

「ん? ああ……私、高校を卒業したら、漁業関係の仕事に就こうと思ってる。そのためには、魚の生態はもちろん、活性時期、海流、気温や水温……そういった知識をフル活用して、どこにどんな仕掛けをするかってことを、お父さんの仕事を手伝いながら自分なりにも実践してるんだ。釣りもその一貫で始めたの。けど……」

「けど?」

 言いよどんだ海咲に、ちゆるは首を傾げた。

「最近は、お母さんみたいな海洋学者になるのもいいなって思ってて……」

「海咲ちゃんのお母さん、海洋学者さんなの!?」

「ちゆるん、あんまり大声出すと魚寄ってこないよぉー」

 ちゆるは驚きのあまり、思わず叫んだ。傍らで樹希が苦笑している。

「みさきんのお母さんは海洋生物学、中でも人間の食料となる魚を中心に研究している水産海洋学の学者さんなんだよ」

「おかげでほぼ家にいない。あちこちの海を渡り歩いては、大量の写メを送りつけてくる」

「不満そうに言ってるけど、本当はすっごく嬉しいんだよね。この間も、私に写メをいくつか見せて自慢してきたし」

「別に、自慢したわけじゃ……」

 不本意そうに呟く海咲を、樹希がニヤニヤしながらからかった。

「へー……じゃあ、海咲ちゃんのお母さんは研究のためにこの玄海町に来て、海咲ちゃんのお父さんと出会ったってこと?」

「うん。そうらしい」

 目を輝かせるちゆるに、海咲は海を見つめながら小さく息をつく。

「お父さんは、好きにすればいい、って言ってくれてる。研究のために日本全国を飛び回ってるお母さんのこと、お父さんの親戚はあまりよく思ってなかったけど……。お父さんがいつもお母さんを応援していたから、今では多少理解してもらえてる。だから、私が漁師にならなかったとしても大丈夫だって言ってくれた」

「そうだったんだ……」

「物心つく頃には、海に関わる仕事に就きたいって思ってたから」

 海咲はそう言って、大きく息を吸い込む。潮の香を胸いっぱいに飲み込むと、それだけで気持ちが穏やかになる。

「私は海が好き。魚を獲ることも、魚や海のことを学ぶことも楽しい。でも、漁師と海洋学者の両立はできないから、高校生のうちに結論を出さなきゃいけない……」

「そっか……。樹希ちゃんも海咲ちゃんも、自分のやりたいことが決まっててすごいな」

 ちゆるは視線を海に戻すと、ピンッと伸びた自分の竿を見つめた。

「ちゆるんはどうなの? 大人になったらこういうことしたいなぁとか、漠然とでも考えてることない?」

 樹希が明るい口調で尋ねる。

 ちゆるは「うーん……」と唸りながら、虚空を見上げた。

「料理するのが好きだし……私もお母さんみたいにカフェを開店するのもいいなって思ったことはあるかな」

「ちゆるんのお母さんの料理、おいしいもんねー! この後、行くの楽しみだよ! 毎日でも食べに行きたい!」

「あはは、お母さんも喜ぶよ!」

「ちゆる、樹希があんまりしつこいようなら断っても平気だよ。樹希はもう少し、遠慮ってものを覚えなよ」

「みさきんはもうちょい積極的に行こうよ。ちゆるんの家の味、恋しくならない?」

「そりゃ……まぁ、おいしいのは事実だし、あそこの味は優しい感じだから……食べたくないって言ったら嘘になるけど……」

 樹希を注意する海咲だったが、彼女もどこか頬を赤らめてぼそぼそと呟いている。それが何だか嬉しくて、ちゆるは頬をだらしなく緩めた。

「二人とも遠慮せずにいつでも来てね。うちのお母さんも二人が来てくれるとすごく嬉しそうだから!」

 ちゆるは満面に笑みを浮かべ、嬉しそうに言った。

 海咲と樹希はどこかはにかむように顔を見合わせる。

「でも、今年の釣りは今日で終わりかぁ……来年はどこの釣り場に行こうか!」

「まだ今日が終わってないのに、気が早いなぁ」

 ちゆるのわくわくした様子に、樹希が苦笑を浮かべている。

「今度こそ、天然ものの真鯛釣りたい! 船でもいいし、埠頭とかからでも!」

「真鯛にこだわるねぇ……まぁ、気持ちはわかる」

 樹希もどこかしみじみと頷く。

「遊漁センターの養殖真鯛も、味が悪いってわけじゃないし、むしろ美味しいけど……やっぱ、釣りやっていると天然ものを一度は自分で釣ってみたいって思うよね」

 海咲も同意するように呟いた。三人の間に、束の間の沈黙が流れる。


「お金貯めなきゃね!」


 三人の呟きが見事に重なる。思わず互いに顔を見合わせ、噴き出した。

「そう言えば、真鯛で思い出したんだけど……値賀崎の鯛女房って話、知ってる?」

「鯛女房?」

「ああ……よくある昔話だよ」


 昔むかし、いい年をした独り者の漁師がいた。ある日、沖で釣りをしていたが、その日は一匹も釣れず、仕方なく帰ろうとしたところ、強い手ごたえを感じたそうな。

「これはきっと大物に違いない」

 漁師が釣り上げてみると、鱗が輝くたいそう立派な赤鯛が釣れた。すると赤鯛は漁師に向けて「殺さないで!」と訴えたそうな。不憫に思った漁師は、そのまま赤鯛を海へ逃がしてやった。

 それから数日経ったある日のこと、漁師は勧める人があって、今まで見たこともないような赤ら顔の女を女房にもらった。その女房が作る料理のうまいこと……汁物の味はまさに天下一だったそうな。あまりにうまいので「どうやって作っているのか」と聞いたが、女房は恥ずかしそうにして漁師の質問には答えなかった。気になった漁師は、数日後の朝、台所の戸の透き間から女房が料理するところを覗き見た。そうしてびっくり。女は鍋をまたいでおしっこをしていたという。見られたと気付いた女は「私はあんたに助けられた赤鯛です。見られたからにはこれ以上、一緒にはいられません」と言って家を飛び出し、そのまま漁師を振り切って岬から海へ身を踊らせた。まもなく海面に大きな赤鯛が現れ、やがて波の中に消えていったそうな。


「へー、いい出汁(ダシ)だったんだね!」

 パッと表情を輝かせるちゆる。

「いや、何でそこに感心するの?」

 海咲が顔を顰めてちゆるを横目で見た後、抗議するように樹希を睨んだ。

「なんで魚釣ってるときにその話するかな……」

「いやぁ、この前役場のHP見てたらすごく印象に残っちゃって……それで少し調べてみたら、なかなか興味深いことがわかったんだよ!」

「興味深いこと?」

 含んだような笑みを浮かべる樹希に、ちゆると海咲は顔を見合わせた。

「海の生き物ってさ、当然だけど海中で食事をして、海中で排泄をするじゃない? ならその排泄されたものはどうやって分解されて、どう濾過されていくのかなって気にならない?」

「よくテレビとかで深海の、なんとかムシってのが海底に沈んだ生物の死骸とかを餌にしてるって聞いたことはあるけど」

 ちゆるはどこか戸惑いつつも呟く。

「ダイオウグソクムシのことかな? そういえば……海水魚を飼育するときは、魚だけじゃなくて海老やカニ、ナマコも一緒の水槽で飼うって話を聞いたことがある」

 海咲が己の記憶を探りながら宙を睨んだ。

「そう。海での排泄物は微生物や深海の生物によって食べられ、分解される。でも、実は魚の排泄物が珊瑚礁の大事な栄養源になってるって話は知ってた?」

「え、珊瑚礁?」

 ちゆるは目を丸くする。樹希は真面目な顔を海に向けた。彼女はじっと白い泡を浮かべた海面を見下ろしている。

「海外の学者さんが発表した論文らしいんだけどね。魚の肛門から排泄されるリンや、エラから排出されるアンモニウムなどの化合物が、実は珊瑚礁に適度な栄養素を与えているらしい」

 樹希は自分を見つめるちゆると海咲に視線を戻し、真剣な声音で続ける。

「三島神社で、赤潮の話をしたでしょ? あれは山の栄養素が川を通じて海へ流れ込み、それがまた雨となって再び山へ降り注ぐことによる循環が魚介類にとって住みやすい環境を守っていたって話だったんだけど……魚の排泄に関しても同じらしいんだよね。とりわけ大型魚の排泄物が実は豊かな海を作り出す上で必要なものらしいって研究でわかってきたんだよ」

「それ、最近よくテレビとかで言ってるやつだよね……ええっと、確か……SGD’S!」

S()D()G()()()ね」

 自信満々のちゆるの背後で、海咲がしっかり訂正する。

 ちゆるはしゅんっと項垂れた。

「みさきんには嫌な話かもしれないけど、漁が行われた海域では、珊瑚礁にとって必要な栄養素が半数近く失われたって話らしい。それこそ日本だけでも全国のスーパーとかで魚売り場がないなんてこと、ないでしょ?」

「うん。よくニュースで今季のなんたらって魚の漁獲量が減った~とかってのは時々耳にするけど……」

 ちゆるも眉根を寄せて唸る。

「その記事を読んでから、たまに釣りをすると思うところがあるんだよね。私、釣りをするのけっこう好きだし、たぶん、社会人になってからも時々やると思うんだ。その時になってさ、今の悪循環が巡り巡った結果、いつか魚が釣れなくなるかもって思うと怖くなっちゃって」

 樹希は硬く拳を握りしめると、そっと目を閉じた。

「樹希ちゃん……」

「樹希……」

「だから、今からできることはないかなって考えちゃうんだ。できることなら、私が社会人になって釣りをするときには、最低でも必ず十尾は釣れる[[rb:世 > 海]]の中にしたいじゃない!」

 目を見開き、力強く言い放った樹希。

「おい、深刻な話みたいに語っといて、結局は自分の欲望のためか。その下りもまだ引きずってるし……」

 海咲が心底呆れたと言わんばかりに、眉を寄せた。

 ちゆるも気の抜けた笑い声を上げている。

「だってせっかく釣りをするならたくさん釣れた方がいいじゃん! 海産資源が豊富なのはいいことだし!」

「いや、それなら釣り堀行けよ」

「一番安いのでも二千円はするじゃん! 小遣い貯めて月に一回がせいぜいだし……高校生にとって死活問題じゃない!」

「バイトしろ」

「もうこっそりしてるよー。でも足らない!」

「いやいや、少しは節約しろ。まさか全部胃袋に消えているのか?」

「色々と必要な出費ってあるじゃん! それに釣り具だって色々揃えたいもん!」

 唇を尖らせる樹希に、海咲はため息をついた。

「まぁ、何にせよ……樹希がそこまで心配しなくても大丈夫だよ。今では養殖が各地で広く行われているわけだし、今の世の中は獲るばかりじゃなくて、育てられる魚種や貝類は自分たちで育てることをしないと海産資源はすぐに底をつくから。だからそこまで心配しなくても、ちゃんとそういう気運は年々高まっているよ。魚が獲れなくて困るのは、漁師だって同じなんだから」

 海咲はため息まじりに樹希を励ますように呟いた。

「でも、やっぱそこに海があるんだから、そっちでもたくさん獲れた方がいいじゃない」

「どんだけ欲張りなんだよ」

 樹希と海咲のやり取りを聞きながら、ちゆるは海を振り向く。朝日がだいぶ高い位置に昇ってきていた。きらきらと輝く海面が反射して、目に眩しい。

「見た目だけなら、海は全然変わらないのに……」

 綺麗な仮屋湾を見渡し、ちゆるは無意識に呟いた。

 不意に、釣り竿がくいくいと引かれた。

「あ」

「ちゆるん、魚!」

「巻いて! 慌てず! そう……魚の動きに合わせて、確実に引き寄せて!」

「う、うん!」

 海咲の助言を受けながら、ちゆるはリールを巻いていく。ピンッと張った釣り糸が、海面へどんどん吸い込まれていく。両足を開いて踏ん張るちゆる。樹希が網を手に傍で待機していた。

「ちゆる、巻いて!」

 海咲の鋭い声に、ちゆるは素早くリールを回した。海面から、陽光を受けてきらきらと光るものが飛び出す。虚空で身をくねらせる魚鱗が、まるで宝石のようにちゆるの目には映った。

Copyright(C)Itsuka Kuresaki 2023

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