一、釣行日和
【一、釣行日和】
十二月の暮れも近づく、早朝五時。
青海高校の前で足を止め、東ちゆるはぐるりと周囲を見回した。
吐く息が白く、思わずぶるりと体を震わす。さすがに十二月の早朝は日の出前ということもあってかなり寒い。ホッカイロを貼った上からダウンジャケットやらコートやらを着込んできたが、やはりまだ冷える。
うんしょっと声を上げながら、ちゆるは校門の前で背に負っていた荷物を下ろした。ごそごそとリュックサックから水筒を取り出す。備え付けのコップに注がれた淡い黄色の液体から、ほんのりとレモンの香りがした。湯気がちゆるの顔を包み込む。
「お母さんが作ってくれたショウガ入りホットレモン……温まる」
ホッと一息つきながら、ちゆるは道路の向こうにそびえる山を見上げる。国道の向こう側に臨む山はすっかり葉を落としてしまい、山肌が露わになっている。山を見つめるちゆるの耳に、弦海灘の波音が届く。
佐賀県玄海町は佐賀県の北西部にある町だ。東松浦郡を構成する唯一の自治体となっており、町名は玄界灘の別名である「玄海」に由来する。ちなみに佐賀県の全市町の中で人口が最も少ない。
時間がゆったりと流れているような、そんなのんびりした町だ。
ちゆるが通う青海高校は二〇〇五年の四月に県内にあった二つの高等学校が統合されて開校された高校で、玄界灘に面しているその環境から東松浦半島や周辺の離島からの通学者が多いことが特徴だ。
青海高校の校舎を通り抜ければ、すぐ裏手に玄海灘の海が広がっている。波音が早朝の校舎を包み込んで、ちゆるの元までそっと囁きかけてきていた。
ふと、ちゆるの視線が持参した釣り竿収納袋を見下ろす。そのまま自然と頬が緩んだ。
「んふふふ……今日はいっぱい釣れるかなぁ」
父親におねだりして買ってもらったちょい投げセットの釣り竿である。初めて自分だけの釣り竿を手に、テンションが上がらないわけがない。
「何が釣れるかなぁ……やっぱアジとかが定番かな? そうしたら塩焼きとかにしてもいいし、酢和えもいいなぁ。クロなら野菜と一緒にあんかけで仕上げて……いやいや、ムニエルにするのもいいなぁ。いっそ油でからっと揚げるのもあり!」
でもやっぱり一番は……生!
新鮮な魚をそのままさばいて刺身にしてもらえば、きっとおいしい。
「海咲ちゃんの話では、イカも1月、2月にかけて旬だって話だし……一度、イカ釣りも体験してみたいなぁ。釣りに慣れたら、今度は船に乗って釣ってみたい」
ホットレモンを口にしながら、早くも今後の釣行スケジュールに思いを馳せる。焦るな、とは言われたが、わくわくする気持ちはどうしたって抑えられないものだ。
「楽しみだなぁ……」
ちゆるはほくほくと満面に笑みを浮かべる。
父親の転勤で四月からこの玄海町へ越してきたちゆるは、こののんびりとした風土を気に入っている。都会である東京は物が溢れているし、移動手段に困ることがなくて便利だったが、なんとなく目が回るようにあらゆる情報が流れ去ってしまう。うかうかしていると取り残されてしまうような、変に焦って落ち着かないような気分になるのだ。
「お母さんが老後は絶対田舎に住む、って力説していた意味がわかるなぁ」
ちゆるは水筒の蓋を閉めると、リュックの中へ突っ込む。左手で釣り竿収納袋を撫でると、右手を握りしめた。
「いつもは海咲ちゃんに釣り竿を借りていたけど……今日からは自分の釣り竿でしっかり釣りを楽しむぞ!」
おーっ! とちゆるは一人で早朝の空へ拳を掲げる。
「おー、ちゆるん朝から気合い入ってるねー」
すると背後から自分の名前を呼ばれた。振り返るとこちらに手を振りながら歩み寄って来るクラスメイト二人の姿があった。二人とも、ちゆると同じように釣り竿収納袋と背に大荷物を背負っている。
「朝っぱらから元気だねー。結構結構」
長い髪を頭の高い位置で束ねた同級生――古賀樹希は日焼けした顔でにっかりと笑った。ランニングが趣味だという樹希は太陽の下が似合う快活な人柄をしている。他所から引っ越してきたばかりのちゆるにとって、最初に話しかけてきてくれた彼女の存在はとても安心できるものだった。
「うん。自分の釣り竿で釣りができるって思うと、つい嬉しくって」
「わかる。やっぱ自分の釣り竿持つと、すごくテンション上がる」
ちゆるがはにかむと、樹希の傍らで海咲が頷いた。
堤海咲。樹希同様、ちゆると同じクラスの同級生だ。顎のラインに沿って切りそろえられた黒髪がさらりと彼女の動きに合わせて揺れる。普段、あまり表情に変化がないため、最初こそとっつきにくい印象を持った。とはいえ、半年以上も一緒にいると、何となく彼女の雰囲気で喜んでいるのか悲しんでいるのかがわかるようになってきた。それが何だかとても特別に思えて、ちゆるは思わずにやけてしまう。
「海咲ちゃん、クーラーボックスありがとう。重くない? 釣り場まで交代で持とう」
「問題ないよ。漁で使う網に比べれば大したことないから」
ちゆるの心配に対して、海咲はケロッとしていた。海咲はちゆるよりも小柄な体躯ながら、彼女は幼い頃から父親の船に乗って漁を手伝っている。腕力には自信があるらしい。
「まぁ、釣り場は三島だし、そこまで遠くないから」
「海上温泉の施設がある場所だよね。玄海、温泉……えーっと……」
「玄海海上温泉パレア。仮屋湾に沈む夕日を眺めながら、お風呂入ったり、新鮮な魚料理が食べられる食事処が売りの施設だね。絶好のロケーションが自慢ってことで家族連れとかカップルとかがよく来るよ」
樹希はにっこり笑いながら、言葉を続ける。
「施設の駐車場の岸壁と横の波止が釣り場なんだ。遊漁センター以外での場所で、ここから近い釣り場って言ったら、パレアくらいしかないしね」
「そこまで広い場所ではないから投げ釣りはできないけどね。あ、ライフジャケットはちゃんと持ってきた?」
海咲の確認に、ちゆるは即座に頷いた。
「もちろん! あんまり高いのは買えなかったから七千円くらいのものだけど……」
「問題ないよ。結局、タイプはどれにしたの? けっこう迷っていたよね?」
「固形式にした。やっぱり安全第一かなって」
「それがいいね」
釣りをする際にはライフジャケットは必需品である。その種類は大きく分けて二種類あり、浮力材の入った固形式ライフジャケットと膨張式のライフジャケットに分けられる。
固形式ライフジャケットはベストの中に固形の浮力体が入ったタイプのライフジャケット。気室が開かないといったトラブルの心配が少なく、確実に浮力が得られる。よく海上レジャーの際に身に着ける救命胴衣はこちらのタイプだ。安全性は高いが、持ち運びの際にかさばったり、股ベルトが体にスレて痛いのが難点ではある。
膨張式のライフジャケットはさらに二種類に分けられる。水中に入った時に自動で起動する自動膨張式ライフジャケットと、手動で起動させる必要のある手動膨張式ライフジャケットだ。船釣りから防波堤釣りまで、幅広く使われているのがこのタイプで、軽くて動きやすい機能性からライフジャケットの装着率を向上させた実績がある。しかし、膨張式のライフジャケットは双方のタイプとも、定期的な点検やパーツ交換が必要となり、稀に誤作動などを起こして開かない恐れもある。価格もそれなりにするし、また子供用のものがほとんどないのが難点だ。
ちなみに固形式ライフジャケットと膨張式のライフジャケットには、どちらも肩かけ式と腰巻き式がある。肩かけ式は首から胸に掛けるタイプで落水時に胸の前で開いて仰向けになって浮くことが多く、腰巻き式はウエストベルトで固定するタイプで、左右の空気室をつなげて浮き輪状に浮く仕組みのものが多い。
「さ、そろそろ出発しよう。釣り同好会、釣り堀以外での初[[rb:釣行 > ちょうこう]]! 二人とも気合い入れていくよ!」
「おーっ!」
「……おー」
樹希の音頭に、ちゆるの元気な声と、どこか気だるげな海咲の掛け声が早朝の朝に響いたのだった。
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