永遠に~声を聴かせて②
12月が来て、僕は二十歳になった。
瑛二さんは前から僕とお酒を飲むのを楽しみにしていたので、誕生日の夜に一緒に食事に出かけた。ちょうど土曜日で年末ということもあり、通りはたくさんの人でごった返していた。
「まずはメシにするか。空きっ腹じゃ飲めないからな」
こんなふうに憧れの人と誕生日を過ごせるなんて、3ヶ月前までは想像もしてなかった。
瑛二さんは、僕の大好きなアーティストだ。
メジャーデビューはしてないけれど、高校生の時に見たライブで魅了されて以来、僕は瑛二さんの虜になり、ギターを弾き始めた。それ以外何の接点もなかったふたりが、偶然に出会ったのが9月のことだった。
瑛二さんの気まぐれ(?)で一緒にライブをやることになり、それが思いの外好評で、今は毎週金曜日に定着している。僕からしたら、全てのことがまだ夢の中にいるみたいだ。
「蓮、何食べたい?」
「うーん。今日はお酒がメインなんですよね。じゃあ、ラーメン」
「よし」
ラーメンを食べてから、瑛二さんがよく行くバーでお酒を飲んだ。ビールが苦手な僕に、瑛二さんはカクテルを勧めてくれた。
「飲みやすいけど、アルコールは強いからな。あんまり調子に乗るなよ」
初めにそう言われたけど、飲み口がいいことに僕は知らない間にお代わりをしていた。体がぽかぽかしてきて、ふわふわして楽しくなって、瑛二さんといろんな話をした。酔っぱらって饒舌になった僕を見て、心配そうに覗き込む瑛二さんの顔を、うっすらと覚えている。
目が覚めると、周りはすっかり明るくなっていた。ベッドに起き上がるとひどい頭痛がした。
「うわ、何だ、コレ…」
頭を抱えながら布団から出て、はたと気がついた。
─ここは、どこだ…?
6畳一間の僕の部屋でないことは明らかだった。
「ええっ」
思わず声が出た。
その声を聞き付けたかのように、ドアを開けて瑛二さんが顔を出した。
「おう。やっと起きたな」
ニヤニヤ笑いながら僕を見ている。
「あの…」
「何も覚えてねーだろ、この酔っぱらいが」
瑛二さんの、家。
「まあ、俺が飲ませ過ぎたのもあるからな。頭、痛くねえか」
「あ、はい…」
「ちょっと水分補給しねえとな。顔洗ってこい」
「すみません、ご迷惑おかけして」
リビングで小さくなって言うと、瑛二さんはそんな僕を笑い飛ばした。
「気にすんな。誰でも一度はやることだ」
「そうなんですか…全然記憶がなくて」
「おまえはまだ何とか歩いてくれたし、吐いたりもしなかったから、マシな方だ」
そう言うと、瑛二さんは僕に顔を近づけてきた。
「な、何ですか」
「本当に覚えてないのか」
「僕、何かまずいことしましたか…?」
瑛二さんはにこっと笑った。
「ふふっ。おまえにキスされちゃったー」
「えっ」
─うわ、恥ず…
「おまえは俺のファンだしさ、俺だって別に初めてじゃないし、気にしてねーけど。俺も昔、酒飲んで陸としたことあるぞ」
「いや、そう言うことじゃなくて…」
僕は恥ずかしくて消えてしまいたいくらいだった。
「あ、でもおまえは初めてか?」
「!!」
「それにしちゃ熱っぽくて、ちょっと色気が…」
「あのっ、もう、それ以上はっ…」
しどろもどろになりながら僕が制すると、瑛二さんはゲラゲラ笑った。
「悪かった。おまえの反応が面白くて、つい」
「瑛二さんのことは、大好きですけどね…」
「わかってるよ。びっくりしただけだ、いつもはあんな大人しい蓮がキス魔だっ…」
「もー!やめてくださいってばっ」
「ははっ、とにかくおまえと飲む時は、いろいろ気をつけないとなー」
恥ずかしさでいっぱいになりながらも、僕の気持ちがダダ漏れなのは周知の事実なので、そう思うと少し冷静になれた。
『瑛二となら、あんなに楽しそうなのに』
陸さんに言われたことがある。
そのくらい、僕のギターの音色には瑛二さんへの思いが込められているらしい。かつての瑛二さんの仲間が嫉妬するほどに。自分ではまだよくわからないんだけど…。ただ、僕にとって瑛二さんとのライブが、いちばん楽しい時間であることは間違いなかった。
瑛二さんがテレビをつけた。録画したDVDを再生し始める。
「瑛二さん、歌番組なんて見るんですか?」
「たまにな。ちょっとチェックしたいことがあって」
少し意外な気がした。瑛二さんの作る曲はロックがベースだし、テレビで流れてるのは流行りの歌だ。それでも、聞こえてくるメロディを何と言うこともなく聴いていて、ふと思った。
「…これ、もしかして、瑛二さんが作ったんですか」
瑛二さんは、驚いた顔で僕を見た。
「すげーな、おまえ。わかるのか」
「何となく、雰囲気で…」
─楽曲提供してたんだ。知らなかった
「僕、テレビ観ないんで、知らなかったです」
「…そんなにたいした数じゃないけどな。時々頼まれてる」
「すごいですね。瑛二さんの曲がテレビで流れて…皆が聴いてるなんて…」
「そうか?」
「バイトしなくても生活できるんじゃないですか」
僕が何の気なしに言うと、瑛二さんは真顔になった。
「蓮。俺もだけど、おまえも今の仕事は出来るだけ続けろよ」
「え、あ…はい」
瑛二さんの真剣な眼差しに、僕は気圧されてしまった。
「皆、良くしてくれんだろ。そういうのは大事だ。自分から手離すんじゃねぇよ」
「…はい」
「こんなしがないミュージシャンなんて、吹けばすぐに飛んでっちまう。どっかで地に足つけとかねーとな。ま、バイトじゃ偉そうなことは言えないけど」
瑛二さんは2年前の夏、自分の病気が原因で、その時に組んでいたバンドでのデビューを逃している。その苦い経験に裏打ちされた言葉なんだろう。
「あー、でも曲を作るのもどっちかと言えば地道な仕事だな」
「じゃあ、足ついてますか」
「…いや、やっぱり人気に左右されるのは違うな。やりたいことではあるけど」
歌が終わり、クレジットが映った。
『written by Eiji』
俺は、ここにいる─
瑛二さんの矜持を垣間見たような気がした。自分の存在を主張するその文字が目に焼き付いた。
「クリスマスパーティー?」
帰り際に僕のイブの予定を聞いて、瑛二さんはすっとんきょうな声をあげた。
「何の、誰と」
「あ、いや、えっと…」
「珍しいな。おまえがそんなところに顔出すなんて」
僕はまだ、瑛二さんに自分の生い立ちを打ち明けられずにいた。たった今、予想外のところから話さざるを得なくなって、僕は口ごもってしまった。
「…養護施設なんです。僕が昔いた」
やっとのことで、僕は言った。瑛二さんは意表を突かれたのか、ぽかんとしてしまった。
「…そうか、そうなのか。じゃあ、行かなきゃな」
「はい。有休、取りました」
「そっか」
しばらくふたりとも黙ってしまった。
「あの…すみません。なかなか言い出せなくて…」
「謝ることねーって。そんなの言いにくいのは当然だろ。でも、これでおまえが自分のことを何も言わない理由がわかったよ」
「…あそこでは毎年、イブは皆で過ごすんです。一人だと寂しくなるから…」
「そうだな…」
「24日って、ライブの予定があるんですか?」
「ああ。有志でどうかって話があって。強制じゃねーから、気にしないで行ってこい」
「はい…」
瑛二さんはちょっと何か考えていたが、思いきったように言った。
「蓮。そのパーティー、俺も参加してもいいか」
「えっ、でも小さい子どもばっかりですよ。せいぜい中学生で…」
「別にそれは構わないけど。こう見えて俺、子どもにも懐かれる方だし」
「…はい。きっと皆、喜びます。ありがとうございます」
クリスマスイブの日、僕は瑛二さんと一緒に施設へやって来た。懐かしい玄関をくぐると、小さい子どもたちが一斉に駆け寄ってきた。
「わー、蓮ちゃんだー」
「蓮ちゃん、おかえりー」
事情のある子どもたちばかりなのに、皆素直で明るい。まあ、さすがに全員がそうではないけれど、僕はこの無邪気な姿に何度も元気をもらったものだ。
「ただいま」
合言葉のように僕が答えると、瑛二さんが微笑んだ。
「いいな。それ」
「決まりなんです。いつもここに来たときは『ただいま』って」
職員の人たちに挨拶をして、瑛二さんのことも紹介していると、背中に聞き覚えのある声がした。
「蓮くん?わあ、久しぶり」
「梨花先生…、どうしてここに?」
「宗太郎くんが、今うちの高校に通ってるの。それで誘ってもらったのよ」
瑛二さんが僕に近づいて来た。
「蓮、元カノ?」
「ちがっ、いますよっ。梨花先生は高校の音楽の先生で、僕のギターの練習に付き合ってくれたんです」
「へえ、なるほど」
「…あのー、もしかして、瑛二さんですか」
梨花先生は遠慮がちに尋ねてきた。瑛二さんが会釈を返した。
「やっぱり。写真よりも素敵ですね」
「は、どうも…」
「今日は一緒に来てくれて。あのね、先生。僕、瑛二さんと一緒にライブやってるんですよ」
「ホント?すごいじゃない。夢が叶ったのね!」
「うん」
ここに来るときは、いつも皆に元気を分けてもらっていた。いつかは、自分が逆の立場にならなければと思いながら、その日がやってくるのか不安でしかなかった。
でも、今日は違った。
ほんの少しだけど、僕の元気を分けてあげられた。
それはやっぱり瑛二さんのおかげだと思う。瑛二さんと出会えたから。僕を必要だと言ってくれたから。
パーティーは楽しかった。
小さい子どもたちが、ダンスや劇を披露してくれた。少し大きい子どもは、けん玉やマジックショーを見せてくれたりして、大いに盛り上がった。可愛らしい姿に、皆笑顔で拍手を送った。
「蓮ちゃん、来てー。こっちこっち」
歌になると僕はギターを持って、子どもたちの列のはじっこに腰をおろした。定番ばかりだけど、クリスマスソングを何曲か歌うことになっている。
梨花先生と瑛二さんのおかげで、僕のギターに感情が宿った。去年までとは違って、指に感じる弦の感触や、弾いてる時の気持ちがやわらかくなっているのがわかった。歌が終わって席に戻ると、梨花先生が言った。
「蓮くん。すごくよかった。上手いだけじゃなくて、表情も素敵だったし、こんなに変わるものなのね」
「先生と瑛二さんのおかげです」
「聴いててとても優しい気持ちになったわ。蓮くんの気持ちが伝わったのね」
僕は、瑛二さんをちらっと見やった。瑛二さんも嬉しそうに笑っている。
「ホントだな。歌もギターも俺の出る幕じゃねえや」
「せっかくだから、瑛二さんにも歌ってもらいたかったけど…」
「いや、おっさんは大人しくしてますよ」
「おっさんって6つしか変わんないじゃないですか」
僕たちのやり取りを聞いていた梨花先生が、吹き出した。
「蓮くん。よかったわね、瑛二さんがいてくれて」
「はい…?」
「笑ってる蓮くんが見られて、嬉しいな」
高校の頃の僕は、まだ誰にも心を開いてなかった。
ライブを一緒に見に行った樹や、練習を見てくれた梨花先生にでさえも。瑛二さんのことを通して交流が生まれたけれど、心の底から笑って一緒に過ごすことはなかったように思う。
今日みたいに穏やかな気持ちは、初めてだった。
帰り道、瑛二さんがぽつんと言った。
「おまえの親って、生きてんの?」
「…わかりません。9歳の時に置いてきぼりにされたんで…」
「そっか、わかった。ごめん」
そう言って僕の頭を優しくぽんぽんと叩いた。
「俺がいるから。な」
「…はい」
僕は瑛二さんのコートの袖を、ぎゅっとつかんで歩いた。いつものように瑛二さんは僕に歩調を合わせてくれた。
「瑛二さん、今日は何で来てくれたんですか」
「おまえの育った場所、見てみたかったんだ」
「…僕の?」
「うん。蓮のこと、もっと知りたいからさ」
思いがけない言葉に、泣きたくなった。
何で、瑛二さんはこんなに優しいんだろう。
そばにいられるだけでよかったのに、どんどん欲張りになってしまいそうだ…。
「空が真っ白だなー。こりゃ雪だな」
白い息を吐きながら、瑛二さんが空を見上げた。
「まだ時間あるから、店に顔出していくか」
「はい」
涙を笑顔に隠して僕は言った。
大晦日にはカウントダウンライブが開催された。
毎年恒例らしく、時には入場制限がかかるほどだそうだ。瑛二さんと僕も参加した。曲数をいつもより2曲増やして、瑛二さんも楽しそうだった。
ライブが終わったのが夜中の1時過ぎで、そこからふたりで暁参りに行った。お正月にお参りしたことのない僕に、瑛二さんは参拝の礼儀やおみくじ、甘酒のことなど一通りを教えてくれた。
「あの煙は何ですか」
「ああ。体を清めるためにあるんだけど、無病息災とか病気が良くなる、おまじないみたいなものでもあるかな」
「へえ」
僕は炉のそばに近づいた。
「蓮は手だな」
「じゃあ、瑛二さんは、ここ?」
僕が喉をめがけて煙を送ると、瑛二さんは微笑んだ。
「頭にすると賢くなるらしいぞ」
「ホントですか?よしっ」
新しい年は静かに始まった。
次のライブの頃にはもう仕事も始まり、お正月気分もすっかり抜けていた。それでも「新年会」と称して瑛二さんに誘われた僕は、自制しながらもそこそこに酔っぱらい、またその夜は泊めてもらうことになった。
翌朝と言ってももう10時を回っていたが、携帯の着信音で僕らは目が覚めた。まだぼうっとしている頭で、瑛二さんが話している声を聞いていた。
「わかった、すぐ行く」
電話を切ると、瑛二さんが身支度をしながら言った。
「ちょっと呼ばれたから、店に行ってくる。そんなにはかからないとは思うけど」
「はい」
「ゆっくりしてていいけど、ひとつ頼みがあるんだ。もうすぐ遠藤って奴が来るから、これを渡してくれるか」
瑛二さんはそう言って僕に封筒を渡した。
「わかりました」
瑛二さんが出かけてから30分ほどでインターホンがなった。
「はい」
「グリーンシードプロダクションの遠藤です」
少し緊張しながらドアを開けると、40歳くらいの眼鏡をかけた男性が顔を覗かせた。プロダクションの人ってことは、仕事関係だよね…。
「こんにちは。って、あれ、瑛二くんいないの?」
「今、ちょっと…。コレ預かってます」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
封筒を受け取った遠藤さんは、しばらく僕をじっと見てから言った。
「ふうん。キミかぁ、瑛二くんのお気に入りは。一緒にライブやってるんだって?」
「は、はい」
「へえ、どうするんだろうね、これから」
話が見えなくて、僕はきょとんとしてしまった。
「何のことですか」
「聞いてないの?前に瑛二くんのバンド、デビューしそこなったじゃない。でも、勿体ないなと思ってこうやって時々曲書いてもらってたんだけど、評判も上々だし、本格的にどうかって話を今進めてるとこなんだよね」
「それって、デビューするってことですか…?」
「まあ、シンガーソングライターって肩書きになるのかな」
瑛二さん、すごいじゃない。何で言ってくれなかったんだろう…
「すぐには無理でも、バイト生活からは抜け出せるくらいにはなるだろうね」
─あ、そうか…
あの店でライブをやることも、なくなるのか…
「ただねぇ、いまいち乗り気じゃないんだよね、彼。
キミのためだと思うんだけど」
「え?」
「瑛二くんは、キミとの活動を続けていきたいみたいなんだよ。彼もキミのことはずいぶんと気にかけているようだし」
僕のために…?
「でも、瑛二くんもやっと掴んだチャンスなんだから、みすみす逃すことないと思うんだよね」
「…そうですよね」
「キミからも瑛二くんを説得してくれないかなぁ。さもなくば、大きな声じゃ言えないけど、キミの方から身を引いてくれるとかさ。その場合はもちろんタダでとは言わないよ」
どこまで本気なのか、半信半疑で聞いている僕を相手に、遠藤さんは楽しそうに続ける。
「…お金、ですか」
「それに、こういう場合に付き合ってる女の子がいることは良くあるけど、キミは男の子だし。あんまり変な噂を立てられるのも、ね」
遠藤さんは意味ありげに言った。
僕は一言も返せなかった。
僕と瑛二さんが、端からどう見えるのかを思い知らされた。瑛二さんと一緒にいられるだけでよかった。それ以上のことは望んでなかった。
─でも、それすらももう叶わないんだ
僕は、瑛二さんの足枷にしかならないのかな…。
遠藤さんと入れ違いに瑛二さんが戻ってきた。
「あ、遠藤もう帰った?」
「はい、さっき」
「そうか、悪かったな。急に頼んで」
『キミは男の子だし』
さっき遠藤さんに言われたことが、頭から離れなかった。僕がいることで、瑛二さんの夢がまた遠ざかる。
瑛二さんの言葉を信じたかったけど、ふたりの間にはまだこの話が出ていないので、どこから、いや、そもそも切り出していいのかもわからなかった。
─僕に話さないのは、何で?
瑛二さんが何を考えてるのか、僕には見当がつかなかった。不安がどんどん広がって、僕の心を覆ってしまっていた。
「蓮、どうした?」
「あ、いえ。あの、僕そろそろ帰りますね」
「そうか?もうすぐ昼だし、メシでもと思ってたんだけど」
「すみません、また今度で…」
僕は逃げるように玄関へ向かった。
「ちょっ、おい、蓮!」
瑛二さんの顔を見るのが怖かった。ずっと一緒にいたいのに、何を話せばいいのかわからなくなってしまった。
瑛二さんのマンションを出てしばらくしてから、僕は走るのをやめ、呼吸を整えた。依然として頭は働かず、気持ちは乱れたままだった。
─来週までには、少しマシになるかな…
次のライブには引きずらないようにしたかった。遅かれ早かれ、僕はあの店にいられなくなるかもしれないんだ。あと何回、瑛二さんと一緒に演れるんだろう。
─1回1回を今まで以上に大切にしないと…
視界が涙で歪んだ。
一度手にしたものを失うことがつらいのは、わかっていたはずだった。それでも瑛二さんの優しさに、いつの間にか甘えてしまっていた。
置き去りにされたあの時よりも、何倍も悲しかった。
すれ違う人が、泣きながら歩く僕を怪訝な顔で見ていたけど、もうどう思われてもかまわなかった。
携帯の電源を切って、週末は家から一歩も出ずに過ごした。
仕事は何とか出勤することができた。誰かと他愛ない話をしているだけで、思ったよりも気が紛れていた。それでも、週末にいつも通りに瑛二さんに顔を合わせることができるのか、自信はなかった。
火曜日の夜、仕事が終わってアパートに戻ると、僕の部屋の前に瑛二さんが座っていた。僕の姿を見ると、立ち上がってゆっくり近づいてきた。
「おかえり」
いつもの優しい声。
夜目にもわかる白い吐息。
凍りつきそうな気温の中、いつからそこにいたんだろう…。
「瑛二さん、何で。風邪、ひいちゃう…」
「店で、住所聞いた。呼び出そうにも電話は繋がらないし」
「…ごめんなさい」
「蓮、俺の家で話そう。このままじゃ俺たち、ライブどころじゃない」
瑛二さんは穏やかに、でもきっぱりと言った。僕はまだ、何をどこから話していいのか考えあぐねていたけど、瑛二さんが来てくれたことで、心のどこかでほっとしてもいた。
何か食べるか聞かれたけど、そんな気にはなれなかった。瑛二さんは、黙ってコーヒーを淹れてくれた。マグカップを僕の前に置くと、瑛二さんはため息をついた。
「昨日、遠藤を締め上げてきた。…おまえ、遠藤に何言われた?」
遠藤さんの名前を聞いて、僕はビクッとして何も答えられずにいたけど、それで瑛二さんには全部伝わってしまったようだ。
「…俺がおまえにその話をしなかったのは、最初から断ろうと思ってたからだ」
「え…」
「俺はあの話を受けるつもりはない。だけど、やり残したことがあるから、それが形になるまではちゃんと言えなかったんだ。不安にさせて、悪かった」
「何で?せっかくのチャンスなのに…」
「俺は蓮と一緒に演りたいんだ」
「ダメですよ、そんなの…。夢だったでしょ。つらいことを乗り越えて頑張ってきたから、叶ったんじゃないですか。バイトだってしなくてもよくなるんだし、それに僕なんかがいたら、迷惑でしか…」
「おまえ、身を引けって言われたんだって?」
瑛二さんの声が急に乾いて、僕は、はっとして口をつぐんだ。
「俺から離れて、黙っていなくなって、あいつらから金を貰う気でいた?」
「ちがっ…そうじゃなくて、僕は…」
瑛二さんは僕を真っ直ぐ見据えたまま続けた。
「蓮、おまえ…そんな金でメシ食えんのか」
「そんなこと…」
「飲みに行けるか?服、買えるか」
僕は弱々しく首を横に振った。
「俺を売った金で、おまえは生きていけんのかって聞いてんだよっ」
聞いたことのない瑛二さんの怒号に、僕は自分の気持ちを伝えるのが精一杯だった。
「…僕は、ただ、瑛二さんの、重荷になりたくなかっただけだよ…」
「おまえはお荷物なんかじゃない。今もこれからも」
涙が滲んできた。
「ごめんなさい…だけど、僕のせいで、瑛二さんの夢がダメになったらと思うと…」
「言っただろ、蓮。俺にはおまえがいればいいって」
瑛二さんは、僕をぎゅっと抱きしめた。
「それに…っ、彼女でもない僕が、瑛二さんにくっついていたら、変な噂になるかもって…」
「ゲスだな。気にすることねえよ、そんなもん」
毅然とした瑛二さんの口調に安堵して、僕はそれ以上喋ることができず、しばらく嗚咽を止められなかった。瑛二さんは小さい子どもをあやすように、ずっと僕の髪を撫でてくれた。
「あいつな、ゲスだけど才能を嗅ぎ付けるのだけは確かだから」
「…瑛二さんにギターのこと言ったの、あの人でしょ」
瑛二さんは苦々しい顔で頷いた。
「想像つくだろ?そういう奴だよ」
「…でも、本当に、これでいいんですか」
「俺はピークだった2年前に、夢は見せてもらったからな。…だけどあの時、俺は陸たちのチャンスを潰しちまってる。だから、俺だけいい思いするわけにいかねえんだよ」
「…どうするんですか」
「考えはあるんだ。あとは、向こうが受け入れてくれるかどうかだ。俺はそのくらいの価値はあると思ってるけどな」
瑛二さんはそう言うと、笑顔になった。
「おまえは俺のそばにいればいい。何も心配すんな」
「はい…」
「また泣く。ホント、泣き虫だよなー、おまえは」
呆れたような、でも優しく笑う瑛二さんの声が体にしみこんでくる。包まれているようでとても安心した。
「さっきは悪かったな、怒鳴ったりして」
気を取り直してふたりで食事に行った帰り、瑛二さんが切り出した。
「蓮が金で動くヤツだとは思ってねーけど、身を引けって言われたら、黙っていなくなりそうな気がしたからさ。でもそれはそれで裏切りだし、それでなくても、おまえは一人で抱えこんじまうだろ」
「…確かに、あの店にはいつまでいられるんだろうって思ってました」
「蓮の本当の気持ちが、知りたかったんだよ」
「…はい」
たぶん、あれがなかったら、言えてなかった…。
「…あのさ、俺も蓮とは事情が違うけど、家族がいないんだ」
唐突に言われて聞き間違えたかと思い、僕は立ち止まってしまった。
「え?だって…」
「なかなか、言い出せなくて…蓮とおんなじで。…交通事故でさ。両親と、兄貴夫婦と甥っ子まで」
あまりのことに僕は言葉が継げなかった。瑛二さんは淡々と話し続けた。
「旅行に行った先のことで、俺はバイトがあったから、1人残ってたってわけ。蓮と初めて会った日が、一周忌だった」
「そんな…」
『この2年は色々ありすぎて』
病気のことだけじゃ、なかったんだ…
「…ごめんなさい」
僕が言うと、瑛二さんはくすりと笑った。
「今度は何をやらかしたんだ?」
「…瑛二さんは、僕に無いものを持ってると思ってました。『生きてるだけでいい』って言ってくれた家族がいるって。だから、あの時の言葉の重みが今やっとわかりました」
『俺も、おまえがそばにいてくれたらそれでいい』
「そうだな。本当に蓮しか残ってないんだ、俺には」
瑛二さんは穏やかに続けた。
「身内バカになるけど、ホントに皆優しくていい人たちだった。俺が好き勝手やってても笑って見守ってくれた。俺が歌えなくなった時も、支えてくれた」
─ああ、そうか
瑛二さんに感じた優しさは、きっとそうやって家族からもらったものなんだろうな。
「でも、俺に『生きろ』って言ったくせに、俺がその気になったら勝手に逝っちまうのかよって、この1年は理不尽なことばっか考えてた。1人だけ取り残された時、死ぬほど後悔したんだ。『ありがとう』の一言だけでも伝えたかったって。俺はもう、あんな思いはしたくない」
瑛二さんに悲壮な感じはなかったけど、聞いている僕の方が悲しくなってしまった。
「蓮。一緒に暮らそう」
僕は顔をあげた。瑛二さんの優しい笑顔が、そこにあった。
「おまえまでいなくなったら、俺には何にも残らねーじゃん。そんなの寂しすぎんだろ。だから、失くす前に言っとくわ」
瑛二さんの声に、涙があふれてきた。
「ずっと俺のそばにいろ。俺もそうするから」
こらえきれずに両手を伸ばして、僕は瑛二さんを抱きしめた。瑛二さんも僕をしっかりと受け止めた。優しい腕の中で、僕は倒れないように立っているのがやっとだった。
***
〈 A few days after 〉
怒涛のようにチャイムが鳴った。たたき起こされた俺がドアを開けると、陸が息を切らして立っていた。
「瑛二!どういうつもりだ、これ」
陸は握りしめた書類を俺に突き付けた。
遠藤のヤツ、また余計なこと言いやがったな…。
あくびをしながらリビングに戻り、俺は平然と答えた。
「どうって、書いてある通りだけど」
「おまえ、なに考えてんだ、せっかくのチャンスを…」
「俺の声じゃ無理なんだって。おまえらがデビューした方が何倍も得だって、遠藤に吹き込んでおいたから」
俺は遠藤にひとつ提案した。
遠藤が未だに陸のギターを諦めきれず、俺が抜けた後でもデビューさせたい気持ちがあるのは知っていた。
『曲のインパクトが弱いって言うかさー、もうちょっと何か欲しいんだよね。今思えば、瑛二くんが作ってた時は最高だったんだねー』
そこで、俺が陸たちに定期的に曲を提供することで、手を打たないかと持ちかけたのだ。
もちろん、今まで通り単発の仕事も受けるつもりだ。
バイトだけよりは生活も楽になるし、蓮も工場の仕事があるから、俺たちにしたらそれで十分だった。
「おまえ、まだ気にしてんのか、自分のせいで…」
「曲は書くよ。俺だって金はないよりあったほうがいいし、面倒見ないとのたれ死にするやつがいるから」
「瑛二…」
「俺は蓮を失いたくない。ただそれだけだ。まあ、おまえに対する負い目があるのは否定しないよ。でもこれは、あくまでも蓮と一緒に生きていくことを考えた結果に過ぎないんだ」
書類をテーブルに置いて、陸はソファに腰をおろした。
「あの子はおまえのファンだからわかるけど、おまえは何でそんなに蓮くんのことを…?」
「さあ。初めはただ放っておけなかっただけだった。いつの間にか、あいつの存在が大きくなってて。おまえもわかるだろ。あんな音、聴かされたらさ」
「…ああ、そうだな」
蓮のギターの音色には、俺への思慕が込められている。
俺と組んだりセッションするようになって、普段もかなりいい音を出すようになったが、俺と一緒の時とは明らかに違う。
「蓮と初めて会った時さ、あいつはどこにいてもどうせ一人なら、人混みに紛れてた方が寂しくないからって、それで街に出てギター弾いてたんだ。そんでちょっと気になって声かけたら、俺の曲を弾き始めるし」
俺はあの時のことを思い出した。蓮は緊張しながらも、俺の曲をひとつも間違わずに弾き通した。
「初めてあいつのギターを聴いたときは驚いたよ。テクニックだけなら俺でも舌を巻くぐらいなのに、感情がこもってねえ。あんな音は初めてだった。どうしたらこうなるのかと思ったけど…」
『もっと楽しめよ』
「…孤独か」
陸は呟いた。俺は黙って頷いた。
「俺より寂しいヤツがいたんだなって、ほっとけなくて」
「そうだったのか…」
「でも、逆だった。一緒にライブを演ってるうちに、俺はあいつのギターに救われたんだ。いつだってあいつの出す音は、俺を見守ってくれた。ここにいていいんだって言ってくれてた。俺も蓮のその気持ちに応えたいと思った」
両親や家族は俺を手放しで愛してくれたけど、自分自身がこんなにも誰かのことを、愛おしく思ったことはなかった。
「人との関係なんて、きっと多かれ少なかれ変わっちまうよな。でも、もし俺らがそうなっても、この家を蓮がいつも安心して『ただいま』って言える場所にしてやりたいんだ」
陸は大きく息をついた。
「…わかった。瑛二、ありがとう」
陸は今までに見たことのないくらい、優しい笑顔で言った。
***
5月の瑛二さんの誕生日に合わせて、直前のライブではちょっとしたサプライズを仕掛けた。MCが終わったのを見計らって僕が「ハッピーバースデー」を弾き出すと、瑛二さんは照れ笑いの顔で僕を見た。アナウンスが流れた。
「瑛二さん、明後日の23日がお誕生日でーす!」
そして、お客さんが手拍子をしながら歌ってくれるのを笑顔で聴いていた。スタッフが、ろうそくを立てたバースデーケーキを厳かに運んでくると、拍手と指笛が飛んだ。火を吹き消すと、瑛二さんは皆に手を振った。
「ありがとー」
僕が袖に用意しておいた花束を渡すと、瑛二さんは両手で受け取ったあと、僕をハグして耳元で囁いた。
「サンキュ」
子どもみたいに照れた瑛二さんの笑顔を、僕はこの先もずっと忘れないだろう。
予定していた曲が全て終わり、いつもなら最後に短い挨拶をするだけの瑛二さんが、マイクを手にして話し出した。
「今日は来てくれて、そして俺の誕生日まで祝ってくれて、本当にありがとう。すごく嬉しかったです!」
拍手が起こった。お客さんは誰も帰らずに、瑛二さんの話を聞いていた。
「お礼と言ってはなんですが、俺から1曲歌わせてください」
会場がざわめいて、歓声と拍手があがった。
「蓮」
マイクを外して瑛二さんが僕を呼んだ。
「気持ちは込めるからさ、おまえが弾くならありだろ?」
瑛二さんが何を言いたいのか、僕にはすぐわかった。
「…はいっ。キーは…」
「ん、そのままでいい」
─瑛二さんの歌声が聴けるなら、僕はいつでも弾くよ
他のメンバーに曲名を伝えると、すぐにカウントが取られた。イントロを僕が弾くと、わあっと言う声があちこちであがった。
「永遠に」
僕だけじゃなく、この曲を大好きな人はたくさんいるんだなと改めて感じた。僕のためにだけ歌うと言ってくれた時もそうだったけど、声が出せなくなってから敬遠してきたこの曲を、瑛二さんが歌おうと思ったことが、僕は何よりも嬉しかった。
『じゃあ、生ギター付きで』
『そう来たか』
─でも、スペシャルバージョンは、譲らないからね…
僕は小さく歌詞を口ずさみながら、瑛二さんの後を追っていた。
10代の頃の記憶は、どうしてこんなにも鮮やかで色褪せないんだろう。僕はまだ二十歳で、あれから3年しか経ってないけれど、今聴いていても鳥肌が立つし、耳も体もあの旋律を憶えている。一瞬にしてあの頃に帰ってしまう。
時を越えて、また同じ気持ちを瑛二さんと一緒に感じられる幸せを、噛みしめながら僕は弾き続けた。
サビにさしかかり、瑛二さんの高音が掠れた。
それはそれで素敵だった。このままでもいいなとも思った。
だけど…
僕は右手に視線を落とした。人差し指にはめているのは、瑛二さんからもらったお守り代わりの指輪だ。心の中で問いかけた。
─余計なこと、だろうか…
でも、僕の気持ちを伝えたかった。
瑛二さんに寄り添うように、僕は高音のキーを重ねた。瑛二さんが振り返り、僕を見た。どう思われてるのかと少し緊張したけど、瑛二さんはふっと笑うと、また前を向いて歌い続けた。その背中はさっきの優しい笑顔と同じに見えた。
「蓮。おまえ、俺からギターも歌も取り上げようってか」
ライブが終わると、瑛二さんは楽しそうに言った。
「そ、そんなことないですよ」
「意外といい声出すじゃん」
「余計なお世話じゃ、なかったですか」
ドキドキしながら僕は尋ねた。
「正直、ビックリした。だけど、蓮が歌いたいって思ったんだろ。それってすごいことなんだぞ、わかるか」
瑛二さんは少し興奮していた。
「その場の雰囲気を感じてサポートしたり、音を重ねたりする。俺があの歌を歌いたいって思ったのもそうだし、それがセッションの醍醐味だよ」
瑛二さんはまるで陸さんと話すような口ぶりだった。
「おまえがアドリブする日が来るなんてな」
そう言って僕の髪をくしゃくしゃと撫でた。
ギターのことを除けば、ファンの1人でしかなかった僕を、ミュージシャンの端くれとして認めてくれたように思えて嬉しくなった。
「はー、でも久しぶりだから緊張したわ」
「リラックスできる魔法の言葉があるんですよ。初めに伝えとけばよかったですね」
「魔法?」
「『瑛二、まずおまえが楽しむんだ』」
僕が声色を真似ると、瑛二さんは吹き出した。
「それ、俺が言ったヤツだろ」
僕の頭をぽんと軽く叩いて、瑛二さんは続けた。
「…陸たちのデビュー、決まったよ」
「ホントですか?バースデープレゼントみたいですね」
「そうだな。さあ、でもこれで貧乏路線は決定だ。覚悟しとけよ、蓮」
「仕事辞めなくてよかったです」
「だろ?人生は何が起こるかわからない」
「なんか、瑛二さんが言うと説得力ありますね」
瑛二さんは、僕の頭を優しく小突いた。
「痛っ」
「ばーか。誰のせいだと思ってんだよ」
僕のために…と言いかけてやめた。瑛二さんはそんなことは望んでないし、気にも止めていない。僕のそばにいたいと思ってくれただけだ。
何も望まないように生きてきた。たとえ手に入れたとしても、また失って胸が苦しくなる思いをするのは嫌だったから。だけど、その先にこんなにも穏やかな日々があることを、瑛二さんが教えてくれた。
「蓮、今から陸が来るって。今日はあいつの奢りだな」
携帯をチェックしていた瑛二さんが、いたずらっ子みたいに笑った。僕も笑って応じた。
「ですね」
この先だって、僕らに何が起きるのかはわからない。でも今はただ、その笑顔のそばにずっといられることだけを願っている。
Fin
『声を聴かせて』のその後のお話です。
孤独を抱えたふたりのつながりを、書いてみたくなりました。相変わらず瑛二は優しく、蓮は少しだけ成長しました。瑛二が言ったように、人との関係は多かれ少なかれ、変わっていってしまうものだと思います。でも、このふたりにはずっとこのままでいて欲しいです。