笛の在り処は
「いかがいたしました?」
夜の静寂に包まれた宮で、私は蒼蓮様のおそばに寄り添いながら美しい月を見上げていた。
煌びやかな赤と黄色の灯籠は幻想的で、木蓮の白い花が咲く中庭は後宮の庭に勝るとも劣らぬ優美さで、時間を忘れて見惚れてしまう。
盃を傾ける蒼蓮様の隣で並んで座っていたら、珍しくぼんやりとなさっていたのが少し気になって声をかけた。
蒼蓮様はふと我に返り、私を見つめて笑みを浮かべる。
「──兄上のことを思い出していた」
「先帝様のことを?」
「あぁ。兄上もよくこうして雪梅妃と酒を飲んでいた。何を話すでもなく」
今ここにある三本足の盃は、今宵の月とよく似た金色。
先帝様が愛用していた物だという。蒼蓮様はあまりお酒を飲まれないが、私がここへ来たときにはすでにこれが用意されていた。
一つ「貸し」だと言われこうして宮へやって来たわけだけれど、求められたのはこうして中庭で並んで酒を飲むことだった。
「ただぼんやりとするのは落ち着かぬと思うておったが、そなたが隣におるのなら悪くない気がする」
「まぁ、そうですか。それは光栄です」
ふふっと笑えば、蒼蓮様もまた笑みを深める。
自然な所作で肩を抱かれ、そっと引き寄せられればぬくもりが伝わってきて少しだけ緊張してしまった。
ただじっとしていればいいのだろうか、と戸惑う私に蒼蓮様が言った。
「もう笛は探さずともよい」
「え?」
「兄上が持って行ったのだと、太皇太后から聞いた」
「どういうことです?」
紫釉様と三人で食事をした帰り際、太皇太后様が蒼蓮様を呼び止めた。
二人で何やらお話になっているのは見ていたけれど、そのとき話していたのが行方知れずの笛の話だったらしい。
「兄上が亡くなる数日前、太皇太后様が寝所を尋ねたら見覚えのある笛があったそうだ。なぜそれを枕元に置いておるのかと尋ねたら、兄上はこう答えたと」
──蒼蓮は私と違い、殉葬者がおりませんから。
皇族が亡くなると、側近のうち一人がその旅路にお供するのが慣例だ。「天に昇るには案内人がいる」と言われていて、そのために誰か供をつけねばならないとされている。
先帝様のときも、尚書だった側近が自ら望んで殉死している。
蒼蓮様の場合、側近は私の兄しかいない。
でも、兄は柳家の当主を継ぐ立場にあるから、蒼蓮様が先に亡くなられてもお供することはない。
──私が天からこれを吹いてやれば、蒼蓮は迷わず昇ってこられるでしょう。
そう言って、己の棺に笛を入れるよう世話係に言づけたそうだ。
太皇太后様はそれを思い出し、伝えてくれたのだった。
「兄上らしい。死んでまで私を救おうとしてくださる」
「……っ!」
蒼蓮様は呆れたように笑い、そして深く瞼を閉じた。
「まさか棺の中だとは、どうりで探しても出てこぬはずだ。そなたには無駄に探させてすまなかったな」
「いえ……、いえ。そのようなことは……」
涙の雫がぽたぽたと頬を伝い、思わず口元を覆う。
先帝様がそんなにも深く蒼蓮様を愛しておられたことに驚き、嬉しくもある。なれど、もう決して戻らぬ時間が悲しくもあった。
涙を流す私を見て、蒼蓮様は困り顔で手を差し伸べる。
私の目元や頬を優しい手つきで拭い、一向に止まりそうにない涙でぐずぐずになった顔を見てくすりと笑った。
「そなたは存外、よう泣くな」
子ども扱いされている気がして、私はどうにか泣き止もうと大きく息を吸う。
「柳家にいた頃は、そうそう泣くことなど……」
顔と体が熱い。喉がひりひりして、それでも涙が止まらなかった。
後宮に来てからは色々なことがありすぎて、ひっきりなしに心が動くのだから仕方がない。よいことも悲しいことも、今の私の周りにはたくさんのことがありすぎる。
蒼蓮様は両手で私の頬をそっと挟み、鼻先が当たるくらいまで顔を寄せて言った。
「構わぬ。涙などとうの昔に枯れ果てた私の分まで、そなたが泣いてくれておるのだろう」
「蒼蓮様の分、ですか?」
「あぁ、そなたは私の半身なのだ」
静けさの中、私がすすり泣く声だけが響く。
蒼蓮様は何もおっしゃらず、私が泣き止むまでずっと抱き締めていてくださった。
この方のために、私ができることは何だろう?
こうしてそばにいるだけで、お心を慰めることができているのだろうか?
考えても考えてもわからなくて、でも一つだけどうしても伝えたいことがあった。
「蒼蓮様」
背中に回した手にぎゅうっと力を籠める。
「私は、うんと長生きいたしますね。ずっと、ずっと、蒼蓮様のおそばにおります」
この方を悲しませたくない。私はずっとおそばにいなくては。
きっと大丈夫。私が風邪も引かぬほど丈夫に生まれてきたのは、蒼蓮様のためなんだと思う。
私の頭を撫でた蒼蓮様は、嬉しそうな声で言った。
「あぁ、そうしてくれ。長く生きて、そして私を見送ってくれ」
「はい。……あ、でも蒼蓮様も長生きしてくださいね。あまり早くお見送りするのは嫌ですので」
どうか知っていて欲しい。
私も、兄も、紫釉様も、太皇太后様も、蒼蓮様を大切に思っている人はたくさんいるということを。あまりご自分に執着がないように思えるから、どうかお命に未練を持って欲しい。
わかってくれているかしら、と上目遣いに見上げれば、蒼蓮様はしばし考える素ぶりを見せた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、私が早う死んで、そなたがまたほかの男に嫁ぐのは許せぬと思うたのだ。だから、できるだけギリギリまで生きるとしよう」
真剣にそんなことを言い出すものだから、つい笑ってしまった。
心配しなくても、私はほかの方には嫁げないだろう。好きな人と共に過ごせる時間が、これほど幸せなのだと知ってしまったのだ。
家のために嫁ぐのが当然と思っていたのに、今となっては到底受け入れられそうにない。
これはいよいよ困ったことになった……と苦笑いしていると、前触れもなく唇が重なって驚いた。
「……苦いです」
「許せ」
かすかに酒の味がして、思わず眉根を寄せる。けれど、やめてはくれないらしい。その後も何度となく口づけられ、私の方が酔っているのかと思うくらいに顔を赤くしていた。




