家族
春の夕焼けは鮮やかで美しい。
後宮に姿を見せた蒼蓮様はその黒髪が夕陽に照らされ、きらきらと輝いて見えた。
采和殿の入り口にて一人で出迎えた私は、いつものように合掌する。
「お待ちしておりました」
「…………あぁ」
不機嫌そうな声音は、今宵の呼び出しに納得していないという雰囲気だった。
普通の宮女なら足が竦むような冷たい雰囲気だが、私は知らぬ存ぜぬで笑顔を向ける。
「太皇太后様がお待ちです」
さぁすぐに奥へ……、と案内しようとしたところ、いきなり顔を寄せられた。
「なぜ私まで食事に参加せねばならん? 紫釉陛下と太皇太后の二人でよいではないか」
どきりとして一歩下がれば、また一歩近づかれてどんどん壁際へ追い込まれる。これではまるで、尋問されているようだ。
「紫釉様が、三人でお食事がしたいとおっしゃったのです……!」
「だからといって、皇帝として呼び出すことはないだろう」
「だって、そうでもしなければ理由をつけてお逃げになると思って……!」
三人でのお食事が実現できるかどうかは、蒼蓮様の御予定次第だった。たとえ空いた時間に予定をねじ込んだとしても、「逃げるのでは?」と静蕾様や麗孝様がおっしゃって、だから私は兄に相談して「どうすれば確実に蒼蓮様を食事に参加させられるか?」を考えたのだ。
「秀英だろう? 陛下やそなたにいらぬ知恵を吹き込んだのは」
皇帝陛下の召喚状。
これまでしばらく使われていなかったが、これがあれば拒絶はできない。
もちろん、蒼蓮様のお立場なら無視することもできなくもないのだが、いつも紫釉様を皇帝陛下として立ててきた彼は召喚状に従うだろうと兄は言った。
そして、予想通り蒼蓮様はこうして後宮へ来てくださった。
「三人でお食事をなさる前に、太皇太后様とのお時間をいただきたいのです」
「今さら話すことなど……。向こうだって私の顔を見るのはつらいはずだ」
「太皇太后様はそんなこと一言もおっしゃいませんでした。……蒼蓮様はお嫌ですか?」
そう尋ねれば、蒼蓮様はぐっと押し黙って目を逸らす。
「嫌ではない。どうしていいかわからぬだけだ」
いつも冷静な蒼蓮様にしては、めずらしく戸惑っているように見える。
私はその大きな手に自分のそれを重ね、願いを込めながら訴えかけた。
「余計なことをしているとわかっております。でも、このままではよくないと思いました」
今を逃せば、またいつ会えるかわからない。太皇太后様のお年やお体のことを思えば、あと何度会えるかという状況だろう。
「せめて、あの方のお心を蒼蓮様に知っておいて欲しいと思ったのです」
ぎゅっと握り返された手は、言葉のそっけなさとは裏腹に怒っていないと言っているようだった。
太皇太后様と同じく、蒼蓮様もまた迷っているのだ。そんな気がした。
私はまっすぐに彼の目を見て言った。
「蒼蓮様は、紫釉様と家族になられるために朝餉を共にしてこられたではありませんか。今宵は、どうか太皇太后様とも家族の時間を持ってくださいませんか?」
返事はなかった。
少し強引に腕の中に引き寄せられ、ただしばらく無言のときが過ぎていく。
「蒼蓮様?」
「…………」
人払いをしていてよかった。腕の中でじっとしながら、そんなことを思っていた。
蒼蓮様はそっと私を解放すると、采和殿の奥へと歩いていく。
「凜風」
「はい」
「今宵のことは一つ貸しだ。あとで宮へ来い」
「えっ」
呆気に取られる私を置いて、蒼蓮様は歩いていってしまった。
慌てて後を追うも、一体何をすれば「貸し」を返せるのかわからず混乱する。
これは兄に相談し、柳家の力を使って謝罪するべきことなのかしら……?
でも宮へ行って解決できることならば、特に大きなことにはならないのでは?
パタパタと軽い足音を立てて廊下を進めば、扉の前に麗孝様がいた。蒼蓮様はすでに中へ入られたらしく、走ってくる私を見て麗孝様が不思議そうな顔をする。
「どうかしたのか?」
「い、いえ。何も……」
曖昧に笑ってそう答え、私も続いて扉をくぐった。
丸い紫檀の机に、太皇太后様と蒼蓮様がついている。
紫釉様はお召替えをしてから来る予定で、まだ到着していない。
沈黙は重く、二人は互いの出方を見ているようだった。
「「…………」」
こ、これは思っていたよりも空気が重い……。
茶を用意した宮女たちはすでに下がっていて、麗孝様と私だけが壁際で控えていた。
白い陶器の中には、色とりどりの花びらが浮かぶ青茶。太皇太后様がお好きなお茶だという。
蒼蓮様はそれを一口飲むと、しびれを切らしたように口を開いた。
「官吏たちが騒がしかったようで、すみませんでした。今後、あなた様の宮への立ち入りは禁止するよう命じます」
茶器に視線を落としていた太皇太后様は、驚いた様子で顔を上げた。
まさか謝られるとは思っていなかった、という雰囲気だった。
「いえ、此度のことで思いました。やはり私はここへ戻ってくるべきではなかったと」
「どういう意味ですか?」
「私とあなたが不仲であると、官吏らは思ったのでしょう。付け入る隙を与えないためにも、私はおらぬ方がよいと思います。あなたに不快な思いはさせたくありません」
「…………」
蒼蓮様の眉間にわずかにしわが寄る。
それは違う、と思っているようだった。
「去る前に、一つよろしいか?」
「何でしょう?」
意を決したように、太皇太后様が切り出す。
「私を恨んではおりませんか?」
その言葉に、蒼蓮様はまた一段と険しい顔になる。はっと息を呑んだ太皇太后様は、大きく瞼を閉じて下を向いた。
重い沈黙が流れ、お二人は互いを見ようとしない。
しばらくの後、蒼蓮様は茶に浮かぶ花びらを見ながら、脈略のないようなことを話し始めた。
「つい先日です。後宮の花を見上げ、こんなことはいつぶりだったかと……」
「?」
「後宮で花を愛でる余裕が生まれるなど、思いもしませんでした」
呆れ交じりにふっと笑ったその顔は、太皇太后様がやって来て初めて見せる表情で。私の知っているいつもの蒼蓮様だった。
「恨んでいるのかと聞かれれば、恨んでおりますと答えるしかありません。私は、兄上を助けられず、雪梅妃を泉へ帰すしかなく、あなたの心も救えなかった。己の力のなさをずっと恨んでおりました」
「え……?」
呆気に取られる太皇太后様。
蒼蓮様は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「私の中で、あなたは強い女性だった。物心ついたときから、そう思い込んでいました。だから、お心に不調をきたしていることに気づきもせず……。その上、自分が楽になりたいあまりに、『なぜ燈雲ではなくおまえが生きておるのだ』と恨みをぶつけてくれればよいものを……、と思っておりました」
「私はそのようなことは……!」
懸命に否定しようとする太皇太后様に、蒼蓮様はわかっていますとその手で制する。
「我らは互いに、悲しみのやり場がなかったのでしょう。相手に恨まれることで楽になりたいと、そう思っていたのではないでしょうか?」
相手をまっすぐに見られないから、気まずくなる。後ろめたさは次第に積もり、互いに顔を背けることでいつしか本心を言えなくなってしまった。
本当は互いに大切に思っているのに、近づけなくなってしまったのだと伝わってくる。
「残念ながら、私はあなたを恨んではおりません。あなたも私を恨んではいないのでしょう」
「……そうですね」
「もうよいのではないですか? 昔、生まれてきたことが失敗だったと嘆く私に、兄は言いました。『己を許してやれ』と。今、改めてそう思います。無力でも、情けなくても、強くなくても生きていてよいのだと、己を許してやってはくれませぬか?」
「……蒼蓮は、それができたのですか?」
伺うように尋ねる太皇太后様に、蒼蓮様は「はい」と答えた。
そして、こちらを一瞥すると穏やかに微笑む。
そのお顔の優しさに、一瞬だけどきりとした。
「こんな私でも、いてくれてよかったと言うてくれる娘がおりました。今はその者と、これからの日々を生きていけたらと思うております」
まさかそんな風に思ってくださっていたなんて……。胸の奥に温かいものが込み上げる。
太皇太后様は、目に涙を滲ませ大きく息をついた。
「そのような時代となりましたか……。無力でも、生きていてよいのですね」
それは、後宮での日々を生き抜いてきたこの方にはあり得ないことなのかもしれない。
皇后として立派に務めを果たすことを求められたこの方には、心が休まる暇もなかったのだろう。
今はもう、力を持たねば生きていけぬような愛憎渦巻く後宮はない。これからは、お心安らかに過ごして欲しいと祈った。
少しの無言の後、蒼蓮様は改めてご自分のお気持ちを宣言される。
「紫釉陛下のことは、どうかお任せください。光燕をよりよき国へと導き、いつの日か必ず紫釉陛下にお渡しいたします。それが私の役目であり、希望なのです」
「蒼蓮」
「まぁ、片づけねばならぬ事柄や人間も数多おりますが……。ははっ、どうにかいたしましょう」
一体、何をするおつもりなのですか……?
いきなり物騒な話題になりかけたところで、蒼蓮様はにこりと笑って話を元に戻す。
「紫釉陛下は、あなたの孫です。お体さえよろしければ、いつでも会いに来てください。官吏どもは私がどうにかいたしましょう。ですから……、お待ちしております」
その言葉に、太皇太后様は目を瞠る。そして、震える声で繰り返した。
「また会いに来てもよいのですか? 私が? 会いに来ても……?」
手巾を握り締め、感極まったように涙を流す。
私も気づかぬうちに涙が流れていて、慌ててそれを拭った。
蒼蓮様は黙って太皇太后様を見つめていて、そこにはもう気まずさはない。お二人がこうして心の内を話すことができて、何よりだと思った。
話に区切りがついた頃合いを見計らい、麗孝様が静蕾様を呼びに行く。
ほどなくして、美しい夕日によく似た燈色の衣装を纏った紫釉様が現れた。
「蒼蓮、おばあ様!」
その小さな手には子ども用の碁石が入った袋を持っていて、嬉しそうにそれを机に乗せて広げて見せる。
「六歳の祝いにと、栄殿から碁をもらったのだ」
さすがは紫釉様の教育係、栄先生らしい贈り物だった。
武官の一人が石造の碁盤を運んできて、紫釉様は覚えたての碁にすっかり夢中でやる気を見せている。
「紫釉陛下、おばあ様は大変にお強いですよ?」
蒼蓮様が笑いながらそう言うと、太皇太后様が苦笑いになる。
「そんな昔のことを……、今はもう何年も触ってもおりませんのに」
紫釉様は二人の間にちょこんと座り、今すぐにでも遊びたいと目を輝かせている。
静蕾様はそっと陛下の手から碁石を抜き取ると、優しい声音で諭す。
「お食事が先ですわ。こちらは預かっておきますので、たくさん召し上がってください」
給仕係の者たちが、すぐさま料理を運んでくる。紫釉様の好物が並ぶ中、体に優しいあっさりとした味付けの麺や汁物も用意されていた。
「さぁ、紫釉様。いただきましょう」
六歳を迎えた紫釉様は、食べる量も少しずつ増えてきている。おばあ様の前だからとはりきって箸を進める姿が微笑ましく、私と静蕾様は目を見合わせて笑顔になった。
この日、采和殿にはたくさんの笑い声が聞こえていた。




