宴にて【前】
皇后選定の儀は、宮廷の大広間で行われる。
北側に位置する最奥には、皇帝・紫釉陛下が座っていた。
黒い御簾に隔てられているので、私たちのいるところから皇帝陛下のお姿は見えない。
子どもが座っている、小さな影が見えるだけだ。
そしてその隣、一段低い位置に座っているのが皇帝陛下の叔父にあたる蒼蓮様。
皇帝陛下と同じく、彼もまた御簾に隠されていてその姿も表情も窺えない。
厳かな雰囲気の中、宴は着々と進行していく。
5大家の当主たちが、それぞれに挨拶と娘の披露目を行い、それが終わるとすぐに宴の催しが始まる。
5歳の皇帝陛下に配慮した構成ではあるが、それでも豪華絢爛な宴はそれなりに長い。
幼い姫たちの集中力もそう続くはずはなく、いよいよ選定の儀という頃には5大家の当主たちだけがはりきっていて、娘たちは何ともいえないぼんやりした顔つきになっていた。
かわいそうに、と胸を痛めていると、人の心配をしている場合ではないことに気づく。
父が、私にそっと耳打ちしてきたからだ。
「いつもの二胡はどうした」
傍らにある二胡が、私のものでないことに気づいたらしい。
父が私の二胡を把握していたことにまず驚いたけれど、小さな声で状況を報告した。
「手違いで琴軸が割れました。それで、上級武官の方から宮廷にあったこちらをお借りしたのです」
茜色の筒に目をやると、父はそれを見てピクリと眉を動かす。
私はその顔を見て、叱られると思いどきりとした。
ところが、父は少しうれしそうに口角を上げ、それ以上何か口にすることはなかった。
「あの、この二胡が何か……?」
「…………」
見覚えがあるんだろうか?
国宝級の二胡を借りられことが、選定に有利に働くと思ったの?
父の横顔をじっと見つめるけれど、返事はない。
私の質問は、無視する気ね!?
自分が聞きたいことはもう終わったから、会話はおしまいってこと!?
父はいつもこうだ。
傲慢で、高圧的で、娘のことなんてこれっぽっちも考えていない。
右丞相として権力を振るうその姿は、柳家においても変わらない。この人は家長であり、家族ではないのだ。
内心はとても苛立ったけれど、宴の場でそれを顔に出すことはできない。
諦めに似た気持ちで、私はまっすぐに前を見た。
しばらくすると、ついに私の出番が回ってくる。
「柳家より、ご息女、凜風様」
進行役の官吏に名を呼ばれ、私は立ち上がり、皇族の方々に合掌してみせる。
中央まで静々と歩いていくと、数十人の視線がいっきに集まった。
こんなに注目されたことなど、当然ない。
身体中の血が沸騰しているのではと心配になるくらい、ドクンドクンと心臓が強く鳴っている。
煌びやかな装飾が眩しいくらいに輝いていて、気を抜くと眩暈がしそうだった。
正面にいる皇帝陛下や蒼蓮様が、御簾で見えないことが唯一の救いだろうか。
皇族の方々にまでじっと見られていたら、それこそ弦を押さえる指が震えてしまうわ。
私は深呼吸をして、着席する。
ここからはもう、演奏のことだけを考えればいい。
選んだ曲は、愛おしい人のために身を引き、その背を見送る恋歌。
誰よりもあなたの幸せを願います、という恋人へ贈る歌でもあるけれど、近年では親が子に向ける愛にも受け取れると、婚礼の儀でも定番になっている曲だ。
この曲を弾いてしまえば、私が皇后になるつもりがないというのは誰だって気づく。己は身を引くという宣言そのものなのだから。
父には悪いけれど、私の想いはこうだ。
どうか、幼い皇帝陛下に幸福が訪れますように。
かわいらしい姫たちに、楽しい時間がもたらされますように。
私は、あなた方のことを遠くから見守ります。
いつもより丁寧に、心を込めて演奏する。
曲の中盤には、緊張していたことも忘れただひたすらに指や手を動かしていた。
伸びやかな音色。
本当にいい二胡を借りられた。
演奏が終わると、私は閉じていた瞼をゆっくりと開ける。
大広間はしんと静まり返っていて、穏やかな空気が流れていた。
「ありがとうございました」
あぁ、終わった。
皇后に選ばれることもなく、蒼蓮様には目通りすらできず、残すところはもう李家へ嫁ぐのみ。
悔しいけれど、腹を括るしかない。
幸福な人生など、選ばれた一握りの者にしか訪れないものなのだから────