紫釉様の疑問
「凜風、もうよいのか?」
早朝、私が紫釉様の寝所へ向かうと、すでに目を覚ましていた小さな主が寝台の上に座ってそう言った。
「はい、このように健やかでございます。おはようございます、紫釉様」
帳を上げた私は、笑って答える。
紫釉様はぴょんと寝台から飛び降りると、私の前に駆け寄ってこの手を掴んだ。
「よう戻ってきた。調子はどうだ?我は心配したのだぞ?」
「ありがとうございます。もうこの通り万全です」
紫釉様には、私が牛車酔いを起こしたと兄・秀英から報告を受けている。襲撃の件は、一切伝えられていない。昨日の一件は、柳家や麗孝様ら一部の武官だけが知る秘密となった。
宮女の桜綾も一連の報告を信じていて、「私も牛車は苦手です」と苦笑する。
事情を知る静蕾様からは『今日もつらかったら休むように』と伝言をもらっていたのだが、私はいつも通りの時間に目覚め、こうして寝所にやってきた。
「さぁ、髪を結いましょう」
「あぁ、頼むぞ」
紫釉様が椅子に座ると、私はその背後に立ち、その柔らかい黒髪を丁寧に梳かす。こうしていると気分が落ち着き、無事に戻って来られたのだなぁと実感が湧いてくる。
また少し髪が伸びたようだ、と日々の変化を感じられることもうれしい。
「そろそろ理髪師を呼んで、髪を整えてもらわねばなりませんね」
「まだよい。蒼蓮のように我も伸ばしたい」
「まぁ、それは楽しみですね。成人の儀までにはそのようにいたしましょう」
髪結いが終わると、紫釉様は朝餉の席へと向かう。すでに蒼蓮様が待っていて、紫釉様のお姿を見ると笑顔で挨拶を交わした。
表情には出さないものの、私と目が合うと具合を窺うように観察される。私は笑みを作り、「大丈夫です」と目で告げる。
お二人が席に揃うと、毒見を済ませた料理が次々と膳の上に並ぶ。
「どうぞお召し上がりください」
朝餉を共にし始めた頃は、ぎこちない雰囲気が漂っていたのに、ほんの数か月ですっかり馴染みの光景となった。
ときおり紫釉様が蒼蓮様に話しかけ、彼もまた自然に笑みを浮かべてそれに答える。
会話が続かない、と蒼蓮様が遠い目をしていた頃が懐かしく思えた。
「そろそろ海老や貝がうまい時期ですね。今年も紫釉様に、と海沿いの地を持つ太守から様々な食材が送られてくることでしょう」
「海老は好きだ。蒼蓮は何が好きなのだ?」
「私は何でもおいしくいただきますよ?」
蒼蓮様がそう言うと、紫釉様はじっと見つめて追及する。
「むかごは?」
「…………食べられます」
「先日、少し嫌そうな顔をしておった」
「よう見ておられますね」
鋭い指摘を受け、蒼蓮様は苦笑いを浮かべた。
「蒼蓮の嫌いなものはわかるようになってきたのだ!眉が少し動く」
「眉が?それは気をつけねばなりませんね」
くっと笑う蒼蓮様は、公の場ではうまく立ち回れていても、紫釉様の前では隠し事ができぬようになってきたことに気づいたらしい。
私としては、お二人が皇族としての立場だけでなく甥と叔父という近しい関係になれたことがうれしいのだけれど、蒼蓮様はちょっと反省なさっていた。
朝餉の場は和やかに進み、この日も平穏無事に一日が始まるような気がした。
ところが食べ終わった紫釉様が、ふと蒼蓮様を見上げて言った。
「なぁ、蒼蓮」
「何でしょう?」
「凜風を今すぐ妃にしてはならぬのか?」
「っ!?」
蒼蓮様があやうく茶を咽る寸前になる。それを不思議そうに眺める紫釉様は、こてんと首を傾げて続けた。
「右丞相から聞いた。蒼蓮と凜風は許嫁とやらになったと。そのうち夫婦になるのだと」
「柳右丞相が、陛下にそう話したのですか。まだご存じでないとばかり思うておりましたが」
「我が皇帝だから、知っておかねばならぬと右丞相は言っておった。よき皇帝は、周囲の者たちのことを把握しておくものらしい」
当然、父は紫釉様に口止めもしていて、私たち以外には決して口外しないようにと告げたという。
5歳だからまだ知らなくてもいい、ということと皇帝として知っておくべきというのは後者の方が強いという判断みたい。
「凜風はずっと我の世話係をするのであろう?栄殿が蒼蓮に早う妃を迎えろと言うておったし、右丞相も『5年は長い』と言うておったし……。なのに、なぜ今すぐ妃にせぬ?」
結婚しても世話係を続けるのならば、今すぐでも5年後でも同じだと紫釉様はお考えなのだ。皇族を取り巻く宮廷の事情など、とてもこのお年で理解できることではない。
蒼蓮様は、少し困ったような顔になる。
「今すぐはできませぬ。紫釉陛下が成人の儀を終えたら、しかるべき手段を取って妃に迎えるつもりです。ですが、なにゆえ今そのように?」
側に控えている私も、紫釉様をじっと見つめる。
「凜風が蒼蓮の妃になれば、もう柳家に戻ることはあるまい?牛車酔いになることもなかろう?」
「それは、何と申し上げてよいやら」
相変わらず麗しい笑みを浮かべる蒼蓮様だが、返答にかなり困っているのが伝わってくる。
確かに、皇族の妃になれば二度と柳家に戻ることはできなくなる。だからといって、牛車には何かしらで乗るのは変わりないのだけれど……?
紫釉様の中では、柳家に行かなければ私が体調を崩すこともないと思ったらしい。それで今すぐ妃にしろと……。
私はクスクスと笑い、紫釉様にお伝えした。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。しばらく牛車に乗る予定はございませんので、妃にならずとも大丈夫でございますよ」
静蕾様も、微笑ましいという目で紫釉様を見つめて頷く。
「紫釉陛下。この話は、決してほかの者にはなさらないでください。相手が知っているという顔をしていても、何も答えてはなりませぬ。ただ、笑みを浮かべ無言を通すのです」
「わかった。我は何も言わぬ」
「ありがとうございます」
紫釉様は、真剣な顔で口外しないと約束してくれた。こういう一面には、やはり皇帝として幼き頃から複雑な環境に置かれてきた方なのだなと思わされた。




