過換気だそうです
襲撃された囮一行を目の当たりにして動揺した私は、麗孝様によって宮廷の裏口まであっという間に連れてこられた。
死んでしまうのかもしれない。
息が思うようにできず、そんな不安を抱いていた私を助けてくれたのは、裏口で待っていた蒼蓮様だった。
「凜風!」
荒い呼吸を繰り返しながらもかすかに目を開けると、黒い衣を着た蒼蓮様が目に留まる。
「……蓮、さ、ま」
馬が止まると、彼は急いで私の元へ走ってくる。
麗孝様が私を抱えて下馬すると、蒼蓮様が奪うようにして抱きかかえ声をかけてきた。
「凜風!何があった!?」
まるで私が襲われて瀕死になっているかのように、焦りの滲む声。その腕に包まれると急に息ができたような心地になり、私は心から安堵して深く息を吸い込む。
「ただの過換気です。蒼蓮様、彩林に診せればよいかと」
麗孝様がそう言うと、蒼蓮様は私を横抱きにしてご自分の宮へと走る。
「あの、死ぬようなことじゃありませんからね!?」
後ろから麗孝様の声が聞こえたが、蒼蓮様がそれに何か答えることはなかった。
***
煌びやかな赤と黄色の灯籠に、蝶や花の見事な彫り物を施した黒い扉。
蒼蓮様の宮へ来たのは、これで二度目だ。
「どうしたの?」
血相を変えた蒼蓮様が走ってくるのを見て、雹華様が工房から顔を出す。
「彩林を!」
真っ青な顔をした私を抱きかかえた蒼蓮様、この状況を見た雹華様はすぐに廊下を走って行った。
私は宮の奥にある一室へと連れてこられ、寝台へと下ろされる。
今はもう随分と呼吸が落ち着いていて、さきほどまであんなに苦しかったのが嘘のようだった。
「凜風、聞こえるか?私がわかるか?」
「大丈夫、です……。蒼蓮様」
寝台に横たわる私は、ぎゅっと強く握りこまれた手を見て少しだけ笑みを浮かべた。
「もう苦しくありません。そのようにご心配いただかずとも、大丈夫です」
蒼蓮様はじっと私の目を見つめ、容体を確かめているようだった。
そして、本当に大丈夫だと信じてくれたらしく、はぁと大きな息をついた。
「囮が襲われたと聞き、迎えに出てみれば……。そなたが麗孝に抱えられて戻ったときは何事かと」
「すみません」
「謝罪はよい。けがはないな?」
「はい、どこも」
なぜあれほど苦しくなったのだろう。ふと疑問に思ったとき、部屋の扉が開いて女性の声がする。
「過換気だって?もう落ち着いたかしら?」
そちらを見ると、扉のところには小柄な若い女性と雹華様、そして麗孝様が立っていた。
振り返った蒼蓮様は、その女性を見て「彩林」と呼ぶ。
医官のような黒い服を纏った彼女は、肩より少し上で黒髪を切り揃えていて、目鼻立ちがくっきりした美人だった。
兄がここにいたら、即座に口説きそうな女性である。
「雹華が二階に上がってくるなんて珍しいと思ったら、病人だって大騒ぎするから何事かと思ったわ。麗孝様とそこでばったり会って、そしたら女官が過換気で蒼蓮様が慌ててるって聞いた」
無表情で話す彩林様は話しながらこちらに近づいてきて、押しのけるようにして蒼蓮様を私から離す。
そして私の腕をそっと掴むと脈を測り、どこにも異常がないことを確認した。
「眩暈は?吐き気は?」
「ありません」
「なら大丈夫。過換気は精神的な負担が限界を超えると発生する症状で、命に別状はないわ。麗孝様が女官に血なんて見せるからいけないのよ」
彩林様はそう言うと責めるような目で麗孝様を睨んだ。彼は肩を落とし、申し訳なさそうに言った。
「すまない。凜風が普通の娘だってことを忘れていた。あぁ、苗だったか?彼女は無事だ。牛車から降りるときに転んで頭を打っただけで、それも何ともないってさ」
麗孝様にそう教えられ、私はホッと胸を撫でおろす。
苗は昔からそそっかしくて、よく転んだり擦り傷を作ったり、何かと私をひやひやさせていた。今回のこともすぐに想像がつく。
「無事でよかったです。ほかの者も、どうか手当をお願いいたします」
「あぁ、すでに医官を手配している。全員軽傷だから心配しなくていい」
皆が無事でよかった。
安堵の息をつくと、彩林様がもう診察は終わりだという風に告げる。
「あなた、ここでしばらく休んでから帰りなさい」
この方は、やはり医官なのかしら?でも女性の医官がいるなんて、聞いたことがない。後宮で紫釉様を見てくれる医官は十人以上いるけれど、この方には今日初めて会った。
「過換気は自然に治まるから、私にできることはない。それじゃ」
あまりにあっさりとした対応で拍子抜けするも、なぜだか頼もしさはある。
すぐに踵を返した彼女の背中に向けて、私は慌ててお礼を伝えた。
「ありがとうございます、先生」
「…………」
すでに数歩足を進めていた彼女は、私の言葉に足を止め、少しだけ振り返った。
その表情はほとんど無表情だけれど、驚いているようにも見える。
「「…………」」
私は何かおかしなことを言ったかしら?
戸惑う私に向けて、彼女はかすかに唇の端を上げ、笑みを浮かべたような気がした。
「また何かあればここへ。私は二階にいるから」
どうやら、患者にしてもらえるらしい。よくわからないけれど、彼女もまたここに住んでいる女性の一人ということだろうということは理解できる。
「私、お茶入れてくるわね」
雹華様がそう言って微笑み、彩林様と共に部屋を出て行く。
いきなりやってきて休ませてもらい、お茶までいただくのは……と思うけれど、遠慮する間もなく扉は閉まった。
しんと静まり返る室内で、蒼蓮様は再び私の手を取り心配そうな目を向ける。
「すまなかった。心労をかけたな」
「いえ、蒼蓮様が謝るようなことではありません。私が、いけないのです。申し訳ございません……!」
己の不甲斐なさに居た堪れなくなり、私は視線を落とす。
柳家の娘があれくらいのことで取り乱すなど、あってはならないことだ。まして自分が襲われたわけでもないのに、血を見たくらいで麗孝様や医官の手を煩わせるなんて……。
「もう大丈夫です。どうか執政宮へお戻りください。私のことで、お時間を取らせるわけにはいきません」
握りこまれた手をするりと引き抜く。
笑って手を振ればきっと安心して執政宮に戻ってくれるだろうと、そう思った。
しかし蒼蓮様は、寝台のそばから離れようとしない。
「蒼蓮様……?」
悪寒がするほど怖い。
ひっ、と悲鳴が漏れそうになる。
「麗孝。ここはよい、外せ」
「わかりました」
ぞくりとするほど冷えた声でそう言った蒼蓮様は、不機嫌極まりない顔つきだった。動揺する私が縋る目で麗孝様を見るも、彼はすっと下がって扉を閉めた。




