心臓に悪い男【前】
こちらはWEB版です。
書籍版とは内容や人物名が異なりますのでご理解ください。
後宮で働く者は、武官や門番のみならず不規則な生活を送る者が多い。
皇帝陛下直属のお世話係や宮女も、早朝勤務と昼夜勤務に分かれていて、その起床時間は三日置きに変わる。
――リィン…………、リィン…………。
中庭に面した窓辺。
寝所のすぐ横で毎朝鈴の音が鳴り響く。
後宮には、鈴鳴り婆と呼ばれる高齢女性たちが働いていて、彼女たちは数多いる女官を起こすことが役割だ。
あらかじめ伝えてあった時間に彼女たちは窓辺の向こうに立ち、鈴を鳴らしてくれる。
「ん……」
そろそろ起きなくては、と思うけれどなかなか瞼が上がらない。
今日は昼夜勤務だが、早めに起きて二胡を弾いてから陛下の元へ向かうつもりだった。
睡眠時間が少々足りないので、起きるにはまだ身体が重いのだけれど……。
――リィン…………、リィン…………。
「ん?」
高い鈴の音が、やけに近くで鳴っている気がする。
違和感からぱちりと目を開け、鈴の音が鳴る窓辺に目を向けた。
――リィン…………、リィン…………。
いつもなら、鈴の音はもう次の部屋へ移動しているはずで、私は不思議に思った。
「…………」
そろりと起き上がり、窓の枠に手をかける。
そして、ゆっくりと戸を横へ引いた。
「目覚めたか、凜風」
「………………」
ちょうど目線の位置に、その美しい顔がある。
これは夢?
どうしてここに蒼蓮様がいるの?
何度も目を擦り、もう一度深く瞬きをしてから確認する。
後宮の中とはいえ、ここは女官たちが住んでいる一角。しかも中庭に、彼はいた。
「蒼蓮様!?」
どう見てもご本人!
驚く私を見て、彼はふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
「さきほどそこで鈴鳴り婆に会うて、昔馴染みだったからこれを借りた」
手のひらサイズの棒に幾つもの鈴がついたそれは、くすんだ色に年季が入っているのがわかる。
元は後宮育ちの皇子だった蒼蓮様が、長年勤めている使用人と顔見知りであることは理解できるけれど……。
「凜風を起こしにいくと聞き、それならばと私が役目を代わったのだ」
「──っ!何をなさっているのです!?こんなところ人に見られでもしたら……!?」
慌てて周囲を確認し、申し訳程度に声を潜めるも彼は笑顔のままで。
私が蒼蓮様の許嫁になったことは、当然ながらどこにも公にされておらず、こんなところを見られてそれが知れたらやっかいなことになるのは間違いない。
「女好きの執政官が女官のもとを渡り歩いていても、誰も気にも留めぬ」
あっさりとそう言った蒼蓮様は、鈴を私に預ける。
「すぐそちらへ行く」
「え?」
通用口の方へ行った蒼蓮様は、もしかしなくても私の部屋を訪れるつもりらしい。
しばらくぼんやりとその背を見ていたが、自分が寝起きであることに気づいて一瞬にして蒼褪めた。
着替えもせず、顔も洗わず、化粧も髪結もしていない。
さきほども普通に会話をしていたが、どう考えても許嫁に会うような姿ではない。
「大変っ……!」
慌てて寝台を飛び降り、衣装部屋から着替えを引っ張り出す。
衝立に紐や飾り、羽織を投げるようにしてかけ、寝間着を脱いで慌てて女官の衣を身に着けた。
「凜風?まだ寝所にいるのか?」
「早いですっ!」
隣室に勝手に入ってきた蒼蓮様は、当然のように私に声をかける。
私がこれほど慌てて着替えているとは、まったく思ってもいないだろう。
なぜ?どうしてあんなに普通にしていられるの?
皇族だから!?
頭が混乱し、紐を取り落としそうになりながらも必死で衣を身に着ける。
まだ髪をとかしてもいない。
あああ、もうなぜこんなことに……!
半泣きで着替えを済ませ、慌てて隣室へと向かう。
顔を洗おうにも、そちらにしか水がめがないのだ。
扉を開けると、蒼蓮様は腕組みをして窓の外の木蓮を眺めていた。
朝日が差し込む窓辺に佇む彼は、どきりとするほど美しい。
「凜風、支度が随分と早いな」
私に気づくと、彼は目を丸くしてそんなことを述べる。
誰のせいですか?と思った私は、困った顔で笑った。
「お、おはようございます」
いったん、挨拶をしてみた。今さらだけれど……。
「おはよう」
「すみません、先に身支度をいたします。しばしお待ちを」
私は水がめから桶に水を移し、手巾を濡らして顔を拭う。そして髪を結うために移動しようとすると、蒼蓮様がにこやかにこちらを見ていることに気が付いた。
「……何でしょう?」
見られるとやりにくい。
どうかこの気まずさが伝わって欲しい、そう思ったけれど無理だった。
「そなたは見ていて飽きぬな」
あぁ、そんな慈愛に満ちた目をしないで。
恥ずかしくなって、視線を逸らす。
鏡の前に座ると、蒼蓮様が当然のようにこちらへ近づいてきた。
「髪を梳かしてやろう」
「えっ!?」
驚きのあまり、声が裏返ってしまう。
蒼蓮様はご機嫌で櫛を手に取り、私の背後に立ち、長い髪を手に取って指をすべらせる。
「あの……自分でできますので……!」
「問題ない」
ありますー!
私の方には問題しかありません!
というよりも、なぜ朝から私の部屋へ来たんですか!?
ドキドキと心臓が強く打ち付け、真っ赤な顔で下を向いていると、蒼蓮様がくすりと笑った。
「今日はこの時間しか身体が空かなかったのだ。そなたに会いたかった」
「会えるではないですか……。もうすぐ紫釉様との朝餉の時間がきますので……」
私ったら、かわいげのないことを言ってしまった。
そういうことではない、とはわかっている。わかっていても、素直にうれしいですと言えないから困っている。
許嫁とは、決まった時間に決まった場所で会うものだと思っていた。
朝から突然やってくるなんて、こんなときどうすればいいかわからない。
父を前にした、突然の結婚宣言からまもなく半月。
蒼蓮様は隙あらば私に構ってくれるけれど、私はまだこの距離感に慣れずにいた。
「紫釉陛下の前では、そなたは世話係であろう?私は凜風を求めて来たのだ」
恐る恐る顔を上げ、鏡越しに蒼蓮様のお顔を見ると、息を呑むほど甘い雰囲気で幸せそうにしておられる。
どうしてこんなことになってしまったのかしら?
蒼蓮様は顔色一つ変えず、私の髪を櫛で梳かしている。
もしや、これまでもこんな風に誰かの髪を梳かしていたかと勘繰ってしまうほど、その仕草は手慣れていた。
じっと鏡越しに見つめていると、視線に気づいた蒼蓮様がふと私に向かって笑いかける。
その瞬間どきんと大きく心臓が跳ね、息が止まるかと思った。
「あ、あとは自分で結いますので」
「そうだな。さすがに私も人の髪はうまく結えぬ」
その大きな手から櫛を受け取ると、私は黙って髪結を始める。
蒼蓮様はそばの椅子に座り、机に頬杖をついてそれを楽しそうに眺めていた。




