月季花の娘
「凜風?なぜ私を見ない」
蒼蓮様は私の手を握ったまま、二人きりになった今もその甘い態度を変えずにいた。
なぜと問われても、見たら心を奪われそうで恐ろしいからに決まっている。
目を伏せた状態で深呼吸を何度か繰り返し、気を落ち着かせてから顔を上げた。
「蒼蓮様。まずはお礼を……」
「礼?」
私は小さく頷く。
「世話係を続けられるよう、父を説得してくださってありがとうございました」
いったん、父は引いてくれた。
兄がこれからどう始末をつけるかはわからないけれど、紫釉様の前で争わずに済み、しかも話が収まったのは蒼蓮様が来てくれたからだ。
でも────
「いくらなんでも、さすがに無茶が過ぎます。世話係を続けるための口実とはいえ、私を妃にするなんて」
自分で言っていて、胸がずきりと痛んだ。
考えれば考えるほど、私はこの方に惹かれているのだと気づかされてしまう。
きっとこの気持ちは、淡い恋心のようなものなのだろう。
ふとした瞬間にどうしようもなく目を奪われ、近づくと胸がざわめいて切なくなる。
けれど、今ならまだ引き返せる。
なかったことにして、感情を押し込めて平静を装うことができる。
だからもうこれ以上、踏み込んでこないで欲しい。
誰のことも好きにならないくせに、こんな風に手を握ったり、嘘でも甘い言葉を囁いたりしないで欲しい。
私は、紫釉様のために世話係の仕事に専念したいのだ。
戯れを真に受けて、心を乱すなんてとんでもない。
「こんな風にされると、いくら私でも誤解してしまいます」
どうか、私がこうして笑っていられるうちに、この手を離してもらえないだろうか。
けれど蒼蓮様は、理解できぬといった顔つきで私を見下ろす。
「何を言っておるのだ……?」
「何って、こんな風に触れられるのは困りますし、私が蒼蓮様の妃になるなどおかしいではないですか」
さすがに戯れが過ぎますと言外に伝えれば、彼は眉根を寄せ、さらに力を込めて私の手を握った。
「私は思うたことを告げたまでだが?まさか、そなたは私の妃になりたくないのか?」
あぁ、そんな傷ついたみたいな顔をしないで。
ワケがわからない。
蒼蓮様の妃になるということは、それはお飾りの妃になるということでしょう?
「私は…………」
二胡の曲に、悲恋の歌がある。
許嫁の男性が別の人を好きで、愛する人のそばに在れるのにいつも哀しい、という歌だ。
私は蒼蓮様に好意を抱きはじめているから、こんな想いを抱えたまま妃になってしまえば、この恋心は侘しさに変わるだろう。
あの歌のように、淋しさや侘しさを持て余すような暮らしはしたくない。
この方がほかの女人を好きになることはないかもしれないけれど、誰よりそばにいるのに己のことを見てくれないなんてそんな思いはしたくないのだ。
夫婦なのに片想いだなんて、考えただけでぞっとするわ。
第一、そんな悩みを抱えていたら仕事に集中できるかどうかもわからない。
恋に狂った愚かな姿は、紫釉様にも静蕾様にも、蒼蓮様にも晒したくない。
恋をするのがこれほど怖いことだとは、思いもしなかった。
「そなたの心が聞きたい」
「…………」
私の返事を待つ蒼蓮様。
いつもみたいに、ふざけてくれたらいいのに。
私は精一杯の強がりで、必死で笑みを作ってから言った。
「私は、お飾りの妃にはなりたくないのです」
だからこの話はなかったことにして欲しい。
冗談だったと、父のことはまた別の説得を考えようと言ってもらいたかった。
ところが、頭上から降ってきたのは想像もしていない言葉で────
「それは好都合だ」
私は驚きで顔を上げる。
好都合とは一体?
でもその瞬間、ふっと前に影が差したと思ったら唇に柔らかなものが触れていた。
「っ!?」
一瞬の隙に口づけられ、私は呆然としてしまう。
こういうことは、将来の伴侶となる相手とだけするものでは!?
頭の中が真っ白になり、息をするのも忘れていた。
ゆっくりと顔を上げた蒼蓮様は、力強い声できっぱりと告げる。
「私はそなたを好いている。お飾りの妃になどするつもりはない」
「…………は?」
不敬にも、そんな反応しかできなかった。
蒼蓮様が私を好き?
見つめ合ったまま、私たちは身動きを止めていた。
「守ってやると言うたであろう?そなたをずっと、こうしてそばに置きたい。無論、紫釉陛下の世話係を辞めろとは言わぬが、右丞相に言うた通り凜風を生涯大切にしたいと思うておる」
真剣な眼差しで想いを告げられ、全身がぶわっと粟立つ。
胸の奥底から大きな感情の波がせり上がり、うれしいやら恥ずかしいやらで何の言葉も出てこない。
さっきからずっと心臓が激しく鳴り続けていて、悲しくないのに泣きそうになった。
「凜風?ここまで言うても信じられぬか?」
その手が私の頬をそろりと撫で、その瞳は少しだけ不安げに揺れている。
「あの、いえ……お気持ちは伝わっております」
顔を赤くした私がそう述べると、蒼蓮様は満足げに頷いた。
「そなたは私と共に在れ。私がそなたを望んだ以上、李家の嫡子はおろかほかの誰にもくれてやるつもりはない。邪魔だてする者は許さぬ」
「蒼蓮様、お顔が怖いですが」
目の前で妖艶に笑う蒼蓮様は、ぞくりと身震いするほど美しい。が、同時にどこか恐ろしかった。
私の恋心は予想外に成就したのだが、蒼蓮様のそれとは温度差を感じずにはいられない。
「今日より凜風は私の許嫁だ。情勢が落ち着くまでは大々的に公表できぬが、そのつもりでいるがよい」
「…………はい」
ふと頭に浮かんだのは、紫釉様と読んだ龍のお話。
人々に恩恵を与える龍の話には続きがあった。
龍は、美しい鱗を欲した者に「欲しいならくれてやる」と言った。しかし、鱗を手にした者たちはその神気に当てられ、もれなく気が触れてしまう。
あの話はそう、身の丈に合わぬ物を欲してはならぬという教訓だった。
上機嫌で微笑む蒼蓮様を見ていると、私はもしや身の丈に合わぬ恋を望んでしまったのでは……?と思わずにはいられない。
「どうした?愛しい月季花の娘よ」
黙っていると、伴侶を示す幸福の花にたとえられ、突然持ち上げられた。
「ひゃっ……!」
慌てて目を白黒させる私を見て、蒼蓮様はさらに笑みを深める。
少し子どもじみているようにも思えるけれど、それほどまでに私とのことを喜んでくれているってこと……?
ぷらんと浮いた足元が心もとないのに、こんなに楽しそうにされると仕方がない人だなと思ってしまった。
「執政官ともあろうお方が、このようなことを……」
胸の内とは裏腹に苦言を呈す私に対し、蒼蓮様は悪びれもなくさらりと答える。
「そなたにだけだ、許せ」
堂々と言いきったその言葉に、私はつい笑ってしまった。
好きな人とこうして笑い合えることがこんなに幸せなことだと、私は知らなかった。
父の決めた人と一緒になる、幼い頃からそう言い聞かせられてきて、世話係になったことで結婚の可能性は潰えたのだと思っていたのに……。
まさかこんなことになろうとは。
未だに信じられない気持ちでいっぱいだけれど、喜びを露にする蒼蓮様を見ているとだんだんと実感が湧いてくる。
公にできぬこととはいえ、巡り合わせに感謝した。
「蒼蓮様」
私は愛しい人に呼びかける。
「ん?なんだ?」
その瞳の奥を見つめ、切実な思いをぶつけた。
「そろそろ下ろしてください」
もうずっと抱き上げられておりますが!?
浮かれておられるのでしょうが、そろそろ羞恥心が限界です!
けれど彼はきっぱりと拒絶した。
「断る」
「下ろしてくださいませ」
「断る」
「えええ……」
押し問答はしばらく続き、一筋縄ではいかぬ人だと改めて認識させられるのだった。
5月17日発売!
「皇帝陛下のお世話係」ノベル2巻&コミックス1巻
ノベル版は半分くらい書き下ろしで、新しいエピソードが満載です♪
紫釉様の成長や凛風の仕事ぶり、蒼蓮の深まる愛情と不憫がより楽しめる内容になっております!
どうかお楽しみください!
漫画版では、吉村悠希先生の描く麗しい世界観が最高です。
お兄ちゃんと蒼蓮の不憫かっこいい姿よ……!( ノД`)煌びやかな中華の世界、詰まってます。
なお、小説版もマンガ版もずっと名前にふりがなついてます。読めない・覚えられないが解消されて、ストレスフリーな中華をお楽しみいただけます。
ありがとうございます、スクウェアエニックスさん…!
※アニメイトさんなどでの特典配布は、なくなり次第終了です。




