父娘喧嘩の末【後】
「右丞相よ。凜風の今後については、私からも話がしたい」
扉の前には、凛々しく堂々としたお姿の蒼蓮様がいた。少し髪が乱れているのは、もしかして急いで来てくれたからなのか。
兄はいつも通り、彼の後ろに控えている。
突然現れた蒼蓮様を見て、紫釉様がうれしそうに声を上げた。
「蒼蓮!」
紫釉様は私から離れると、蒼蓮様の方へ駆け寄る。
私は慌てて椅子から立ち上がり、姿勢を正して頭を下げた。
一気に空気が変わった客間。
蒼蓮様は少し屈み、紫釉様に対して優しい声音で話しかける。
「紫釉陛下。ここは私に任せて、どうかお部屋でお休みください。静蕾が困っておりましたよ」
「でも……」
紫釉様はちらりと私を見る。
心配してくれているのだ、とわかった。
蒼蓮様は紫釉様の手を取り、その手を麗孝様にそっと引き渡す。
「大丈夫です。右丞相には私が話をつけ、凜風がここにおれるようにいたします。蒼蓮を信じてください、紫釉陛下」
その言葉を受けて、紫釉様は「わかった」と呟くように言った。
そして麗孝様に連れられ、長い廊下を歩いてご自身の宮へと戻っていく。
蒼蓮様は紫釉様のお姿が見えなくなったことを確認すると、客間の中へと入ってきた。
その美しさ然り、皇族独特の威厳あるお姿や威圧感は見る者を圧倒する。
「凜風、遅くなってすまぬ」
彼は私の方へと歩み寄ると、なぜか謝罪の言葉を口にした。
兄が詫びるならまだ理解できるけれど、蒼蓮様が謝る理由は一体何?
私はきょとんとしてしまう。
でもすぐに「ぼんやりしている場合じゃない」と気づき、己の至らなさを詫びる。
「柳家のために、お手を煩わせてすみません」
忙しい蒼蓮様に、わざわざ足を運ばせてしまうとは……!
このことが原因で、せっかくの紫釉様との会食がなくなったらどうしよう。
ところが彼は狼狽える私の肩にそっと手を置き、軽やかに笑った。
「かまわぬ。大事なそなたのことだ、私で役に立てるならいくらでも手を貸そう」
その声はとても穏やかで。慈しみすら感じられ、私は驚いて顔を上げる。
「こうして顔を合わせるのは久しぶりだな。──ずっと会いたいと思うておった」
「……?」
今、目の前にいるお方は誰なの?
姿形は間違いなく蒼蓮様なんだけれど、どう見てもその雰囲気が柔らかく、そしてなんと言うか…………甘い。
私の気のせい?
父との諍いで心が荒んで、蒼蓮様が優しく見える?
違和感に首を傾げると、蒼蓮様はにこりと笑って私の右手を持ち上げた。
「あの……?」
まるで大事なものを扱うかのように手を取られ、緊張感と胸のざわめきが襲ってくる。
一体何が起こっているのか、と蒼蓮様の顔を見上げるも彼の視線はすでにこちらになく、その目は父にまっすぐ向かっていた。
「右丞相。私は柳凜風を妃にしたいと思うておる」
「「!?」」
えええええええ!?
私は心の中で盛大に叫んでいた。
今、妃って言った?妃って、私の知ってる「妃」で合ってる!?
どういうことですか!?
──私は柳凜風を妃にしたいと思うておる。
頭の中でその言葉の意味を真剣に考えるけれど、聞き間違えや誤解しようもないほど簡潔な言葉で……。
蒼蓮様に手を握られている感覚があるからこれが現実だとわかるけれど、急に体がふわふわとし始めて失神寸前だった。
私を妃にしたい?冗談でしょう!?
縋るような目で兄を見る。
蒼蓮様の肩越しに見える兄は、特に動揺もせず官吏らしく黙ってそこに直立していた。
なぜ驚かないの?おかしいと思わないの?
わけがわからない。
今度は父を見ると、呆気に取られて口を開けていた。
こんな姿は初めて見る。
しんと静まり返った部屋で、蒼蓮様は続けて言った。
「私が相手では不満か?李睿よりも柳家にとって利をもたらす存在だという自信はあるぞ。右丞相よ、どう思う?」
「ははははは……ははっ……ご冗談を申されませ」
顔を引き攣らせた父は、蒼蓮様がその場しのぎの嘘をついていると思ったようだ。
私もそう思う。
と、いうよりもなぜここで李睿様の名前が出てくるの?
あの話は、私が世話係になったときに立ち消えたのでは……。もしかして、また父は私を李睿様に嫁がせようとしている?
なぜ今なのかしら……?
あぁ、でもそれよりも今は蒼蓮様のことだわ。
確かに助けては欲しいけれど、自分の妃にするだなんて嘘をついてこの場を凌いでほしいわけではない。
そこまで迷惑をかけるのは不本意だ。
ここで私は恐る恐る問いかける。
「もしや、兄が頼んだのですか?」
しかし蒼蓮様は、これを即座に否定する。
「そうではない。私が、そなたを妃にしたいと思うたのだ」
ますます意味がわからない。
この方は、女人を好きになるような方ではなかったはず。
世話係に任命したときだって私に「妃になるか?」って冗談でおっしゃられたけれど、それも「お飾りだがな」ってしっかりと付け加えていた。
え、もしかしてお飾りの妃にして、それで世話係を続けさせようっていうこと?
結婚さえしてしまえば、父から辞職を促されることはなくなるから──
ぐるぐると思考を巡らせていると、蒼蓮様は父に向かって凛とした態度で言い放った。
「私は冗談を言う相手は選ぶ。それに、右丞相に冗談が通じるとは思うておらぬ」
「と、申されますと……?」
父は、私と同様で理解が追い付かないらしい。
厳格な右丞相らしからぬ、中身のない返答をしているのがその証拠だ。
でも蒼蓮様はそれに怒りもせず、力強く宣言した。
「凜風を私にくれ。唯一の伴侶として、生涯大切にすると約束しよう」
あぁ、ずるい。
父をやり過ごすための方便だとわかっていても、蒼蓮様にそんなことを言われたら不覚にもときめいてしまう。
一瞬でも、うれしいと思ってしまった。
父は蒼蓮様の言葉を信じたらしく、はぁと大きな息を吐き出した。
その雰囲気が意外にも穏やかで、私は思わず疑いの目でじっと父を見てしまう。
諦めたのか、納得したのか。父の心情はわからないけれど、蒼蓮様が私を妃にすることに反対はしないみたい。
二人は淡々と話を進めた。
「世話係のことは、どうなさるおつもりで?」
「凜風には、紫釉陛下が成人なさる10歳まで世話係を続けてもらいたい。それまでは私たちの関係は公表しない」
「ほぉ」
父は蒼蓮様の考えを見定めるように相槌を打つ。
「李睿に凜風を嫁がせることは諦めてくれ。李家を手中に収めたいとする右丞相の考えはわかるが、足掛かりとなる代案は用意するからしばし待て」
え?李家を?
父は私を李睿様に嫁がせて、落ち目のあの家を乗っ取るつもり?
抜け目がないというかなんと言うか、とことん野心の強い父に私は呆れかえる。
「あと5年ですか……。その間に、貴方様に縁談が来たら凜風はどうなります?国内ならまだしも、近隣諸国からの申し出があればそう易々と断れませぬぞ」
「断る」
「は?」
蒼蓮様の即答に、父は眉根を寄せて困惑を露にする。
私も「は?」と同じ反応をしてしまい、父と揃ってしまったことが何となく気まずくなった。
「紫釉陛下が成人なさるまでは、誰のことも娶らない。対外的にはそう宣言する。それだけでも十分だと思うが──」
訝しげな父を前に、蒼蓮様はにやりといじわるく笑った。
「柳家の方がそのあたりは得意であろう?李家が筆頭とは呼べぬところまで落ちた今、娘を私の妃に押し込むために他家を抑え、情報操作を行うなど容易いと思うが?」
つまりは、父の力を利用すると。
したたかというか、強欲というか、為政者としては正しい強さだと思った。
父はそんな蒼蓮様に対し、不敬にもあざ笑うかのような態度を見せる。
「よろしい。柳家が貴方様のご期待に応えるとしましょう。とはいえ、何事にも絶対はございませぬ。万が一にでも、凜風を妃に迎えるという約束を違えた場合にはそれ相応の報復をさせていただきますが、よろしいか?」
「父上!なんということを……!」
皇族に対し、報復するなどと宣言するなんて!
私と兄はぎょっと目を見開いて狼狽える。
ただし蒼蓮様は優雅な笑みを口元に浮かべ、それを受け入れた。
「わかった。どんな要求も、私個人で責めを負えるのならば受け入れよう」
「蒼蓮様……!」
何を約束してるんですか!?
悲壮感の滲む声で名を呼ぶと、彼はようやく私を見る。
「それほどまでに、そなたを手放しとうないということだ」
手を繋ぎ、見つめ合っているとまるで本当に恋仲であるかのよう。
さすがは女好きと噂を撒いた人物だけある。
情熱的で、どうしようもないくらいに恋焦がれているという風な目で、じっとまっすぐに私を見つめている。
いけない。
これはいけない。
気を抜くと全部持っていかれる(?)気がする。
「凜風?何か心配事でも?」
「っ!」
思わず目を逸らすと、父と兄がじとりとした目でこちらを見ていた。
「…………蒼蓮様。随分と娘をお気に召したようで何よりです。ただし、節度ある行動を頼みますぞ」
「!?」
父はそう苦言を呈すと、兄と共に部屋を出て行った。これから、柳家としての話し合いがあるんだと思う。
廊下にいた麗孝様も、二人と一緒に去っていった。扉を閉めるとき、にやっと笑って手を振っていたのが気にかかる。
楽しんでいる……?
麗孝様も、蒼蓮様が本気だと信じているのかしら?
後で訂正しなくては。
しかし今は蒼蓮様と話をつけるのが先である。
ずっと私の手を握っている彼は、父が去った後も演技を続けている。
「あの……、父はもうおりません。この手をお離しください」
そう告げると、その美しい顔が不満げに歪められた。
「5日も会えなかったのに、そなたは淋しくなかったのか?」
「はぃ?」
おかしい。
一体何を言っているのだろう。
私はしばらくの間、言葉が見つからずに沈黙していた。




