兄と私と猪と
「どれがいいと思う?」
蒼蓮様の宮で、八角形の黒いテーブルに並んでついた私たちは、めいっぱい広げられた茶葉や湯瓶の前で真剣に悩んでいた。
目の前には、色が薄い茶色のものから赤茶色のものまで15種類の茶葉が並ぶ。
「もち米の菓子に合うのはコレですね……。食事と一緒にいただくならコレ。このびわの茶葉は、紫釉様にはちょっと香りがキツイかと」
一通り飲んだ感想を述べると、蒼蓮様は眉間にシワを寄せて考え込む。
何もお茶でそこまで悩まずとも……と思う気がしないでもないが、紫釉様に好かれたいこの方は、蜜菓子の一件以降、贈り物を頻繁に持って後宮へ足を運ぶようになった。
午睡中にやってきて、寝顔だけ見て帰ることもあるくらい。
その甲斐もあり、最初は戸惑っていた紫釉様も少しずつ心を開き始めている。
朝餉の席へやってきたとき、蒼蓮様の顔を見た紫釉様の反応が明らかによくなった。「おはよう」というときの笑顔がとても愛くるしく、それを見た蒼蓮様はうれしそうに微笑む。
あまりの麗しさに、給仕の使用人たちが眩暈を起こすこともしばしば…………。静蕾様が、その点に関しては困っているのが見てとれる。
この茶葉も、最初は50種類ほどあったらしい。
紫釉様に菓子を差し入れるのと同時に、健康によいとされるおいしい茶も取り寄せようという考えだ。
悩む蒼蓮様を横目に、私は夜食を次々と平らげていく。
あとはご本人がどれを選ぶかだと思うので、私にできるのはここまでだろう。
すでに窓の外は真っ暗闇で、随分と長居してしまった。
パクパクと野菜や魚の煮つけを口に運んでいると、ふと蒼蓮様がこちらを見て言った。
「よく食べるな。その細い身体に収まるのが不思議なくらいだ」
男性と同じ量の夜食は、間違いなく女性には多い。
世話係になってから、食べる量は増えていると自覚はある。
だって、食べないと身体がもたないから。
私はさも当然のように返事をした。
「食べねばやっていけぬと、静蕾様に教わりました。事実、食べねば痩せていきます。邸にいた頃とは違って、動いていますので」
柳家にいた頃は、体型がふくよかになると「縁談に障りが出る」「本家の娘としての体裁がよくない」などあれこれ言われ、食事も甘味もすべて管理されていた。
後宮に来てからは自由に食べているが、働いているとそれだけ使っているのか太ることはない。
「紫釉様って、意外に活動的なのですね!先日は池の周りを走って、麗孝様とおいかけっこして楽しそうに笑っておられて……」
あのときの笑顔のかわいさったら、もうときめきすぎて倒れそうだったわ。
うっとりしながらそう言うと、蒼蓮様が自嘲ぎみに笑う。
「ふっ……、おとなしい方だとばかり思っていたら、それは私に遠慮してのことだったとはな」
あ、この話題はまずかったのかしら。
もぐもぐと食べ進めるふりをして、私は沈黙する。
こんなとき何て言えばいいの!?
落ち込む蒼蓮様は、白い陶器の茶器を手にしてごくりとそれを一口飲んだ。
「紫釉陛下は、そなたによく懐いたものだな。それにそなたも生き生きとしておる」
その優しい顔つきを見ると、ちょっとだけ胸がざわざわする。
何となく直視しにくくて、私は食べ終わった籠に視線を落とし、蓋をして気を紛らわせた。
「今日、そなたの父に会うた。『そろそろ娘が音を上げる頃だと思う』と申しておったぞ」
「え!父がそのようなことを?」
残念ながら、その予想は外れだ。
私は家に戻る気はまったくない。
よく食べ、よく動き、新しいことを見聞きできる今の暮らしはとても楽しい。
良家に嫁ぐことこそが女人の幸せ、幼い頃からそう言い聞かせられてきたけれど、ずっと紫釉様のおそばで仕えたいくらいだ。
そろそろ音を上げるだなんて、失礼だわ。
不服そうな顔になる私を見て、蒼蓮様は目を細めてクックッと笑った。
「明日、このことを右丞相に報告してやろう。そなたに悔しがる顔を見せてやれないことが残念だ」
ここまで言われるなんて、父はきっと蒼蓮様の機嫌を損ねることを色々してきたんだろうな。
兄が間に挟まれて右往左往する様子が思い浮かぶ。
あぁ、でも確かに楽しいことばかりではない。
つらくはないけれど、大変なことは多々あった。自分がいかに恵まれているかを、後宮にきて痛感させられている。
少ししんみりしていると、蒼蓮様が目ざとくそれを察知して「どうした?」と尋ねる。
私は視線を茶器に向けたまま、曖昧に笑って言った。
「父の予想は、的外れというわけでもありませぬ。そう、思いました」
「何かあるのか?」
ちらりと横を見れば、真剣な顔をした蒼蓮様と目が合う。
「私はこれまで、己のことを健康でとても丈夫な娘だと思っていました。なれど、それは母をはじめ、家の者が暮らしのすべてを整えてくれてのことだったと気づいたのです。ここに来たら、身支度はもちろん体調管理は己でやらねばなりませんので、夜の当番もあり、ここでやっていけるのかと不安はございます」
「そうか」
「はい。このような時間まで出歩いていたことなどありませんよ?私はここへ来て、誰かのために力を尽くす苦労を初めて知りました」
楽しいとはいえ、慣れない後宮勤めは疲労もある。
自分はこんなにも多くの人に支えられていたのだと、気づくまで時間はかからなかった。
「己が苦労して初めて、これまで大きな病にもならず、17歳まで生きてこられてありがたいなと思いました」
市井では、若くても命を落とす者が少なくない。自分が恵まれていることはわかっていたつもりだったが、それはやはり「つもり」で。実のところ、まったくわかっていなかったのだと思い知った。
私の話を聞き、蒼蓮様はしばらく考えてから穏やかな声で言った。
「そなたは、よき世話役だ。ようやっておる。右丞相は私にとって面倒な相手ではあるが、よい娘を育てたと思うぞ」
父のことを認めたくはない、その気持ちが伝わってきて私は苦笑いになるけれど、よき世話役だと言ってもらえたことは素直にうれしかった。
「ありがたきお言葉です。私はこれから、紫釉様のためにできることをすべてして差し上げたいと思います」
にこりと笑うと、彼もまた柔らかな笑みを浮かべた。
「凜風」
低い声が、心地いい。
じっと見つめられると心臓がどきどきと強く打ち始めるから、居心地が悪くなって目を逸らすと、蒼蓮様がふと思い出したように口を開く。
「そなた、選定の宴に出とうなくて水浴びまでしたのに、風邪を引けなかったのではないか?」
「は?」
「そなたが規格外に頑丈であることも否定できないと、私は思うぞ」
それ、今言う必要ありますか……?
私は再び彼の方を見て、目を瞬かせる。
蒼蓮様はいたってまじめに、力強く言った。
「案ずるな。猪よりも丈夫な娘だと秀英が申しておった。自信を持て、そなたは強い」
「…………」
この高貴なお方は、どうやら私を励ましてくれているらしい。けれど、猪と比べられて喜ぶ娘はいない。
本人がそれをわかっていないのが、ひどく残念だわ。
それにしても、おのれ兄上。私のいないところで一体何を話しているのです!?
ぎっと歯を食いしばる私の前で、蒼蓮様は上機嫌で茶葉を纏め始める。
「蒼蓮様、そのびわの茶葉は兄に飲ませてくださいませんか?濃く、濃~~く淹れるようにと、使用人に!!」
苦みとえぐみは増すけれど、疲労回復にいいので毒ではない。
私が熱望すると、蒼蓮様は「わかった」と笑顔で答えた。
今度後宮に来たら、無視してやるんだから。
今頃すでに眠りについているであろう兄に対し、私は渾身の恨みつらみを心の中から念じておいた。




