落ち込んでいる暇がない
光燕国は、一年を通して涼しい時期が長い。
近隣国の中には、袖のない衣服を着る民族がいるほど温かい国もあるらしいけれど、この国の夏はわずか三十日ほどで、その間も長袖で過ごすのが普通だ。
近頃は陽が落ちるのが遅くなり、もうまもなく白夜が訪れるとその日を始まりに夏が訪れる。
紫釉様の寝所の窓から外を眺めると、まだ夕暮れのような明るさで、宮廷やそのほかの屋根まで目視できる。
このあと急激に暗くなるとわかっていても、この時期は時間の感覚が狂うので過ごしにくい。
「凜風」
そっと寝所に入ってきた静蕾様が、優しい声で名前を呼ぶ。
もう交代の時間らしい。
私は振り返ると、少しだけ微笑んでみせた。
そして、眠っている紫釉様の状態について報告する。
「今のところ、微熱程度です。嘔吐や湿疹はありません」
紫釉様が薄めた毒を飲んだのは、昨日の朝餉のとき。柑橘類の甘味に混ぜて召し上がったので、本人はまったく気づいていない。
食事への苦手意識を持たせないよう、毒が入っていることを知られてはいけないので、このことを認識しているのは直接世話を行う5人だけだ。
昨日も蒼蓮様は朝餉を共にしていて、当然そのことを知っている。
まったく顔に出さず、にこにこと笑顔で過ごしていた。
ただ、毒の影響で熱が出始めたと報告を受けたときには、すぐに寝所へ様子を見に来られたから、心の中では心配なんだと思う。
「凜風、それほどに見つめては紫釉様が安眠できませんよ」
「すみません……!」
慌てて目を逸らす私。静蕾様はそっと私の背を撫で、困ったように眉尻を下げる。
「大丈夫だって、わかってはいるんですけど」
病ではないので、ひたすら寝て耐えるほかはなく、その艶やかな頬が赤くなって苦しげなお姿を見ると、必要なことだとはわかっていても胸が痛む。
静蕾様は、今日一晩ここで陛下のそばにつく。
明日の朝になったら、私が再び戻ってきてお世話をすることになっている。
「紫釉様……」
離れがたい気持ちでその寝顔を見ていると、静蕾様が気丈に私を追い出す。
「はいはい、あなたが気に病んでもどうにもなりませんよ?これくらいの熱で、そのような顔をしてどうするのです。明日の朝、凜風の明るい顔を陛下に見せられるように、しっかり食べてゆっくり休みなさい」
ううっ、そう言われると返す言葉はない。
「わかりました。これにて、下がらせていただきます」
ほんの微熱だから、大丈夫だってわかっている。
けれど、漠然とした不安が消えない。
静蕾様は紫釉様が生まれたときからそばにいるから、これまでにも熱を出したり嘔吐したり、そんな状況を知っている。
私とは心構えが違うのだと感じ、早く一人前になりたいと思った。
格子扉をずらし、私はそっと寝所を出る。
この後は、後宮の厨房に夜食を用意してもらっていると聞いているので、その膳を取って部屋に帰るだけだ。
「はぁ……」
初めてのことで、私の気持ちも足取りも重い。
実弟の飛龍は、微熱があっても走り回っているくらい元気だから「風邪のときはどうしていたっけ?」と思い出そうとがんばっても、ただ走っている記憶しかない。
こういうときは二胡を弾きたくなるけれど、さすがに夜中にそんなことはできず、静蕾様の言ったようにしっかり食べてゆっくり休むしかないだろう。
でも、眠れるかどうかはまた別の話だ。
繊細な細工物の灯籠がぼんやりと揺らめく廊下を、一人静かに歩いていく。
夜の後宮はとても静かで、遠くからフクロウのような鳥の鳴き声がわかるくらい。
自分の歩く衣擦れの音も、やけに大きく聞こえた。
石造りの庭を抜け、厨房にやって来るとそこは煌々と灯りがついていて、すでに明日の仕込みを行っている料理人や掃除をしている使用人とすれ違う。
彼らがいそいそと働いているのを見ると、そういえばここは常に三交代制だと聞いたことを思い出した。
これまで私は、柳家の娘として何不自由なく規則正しい生活を送ってきて、寝起きする時間を意図的に変えることがこんなにつらいと知らなかった。
厨房付近にいた警備の者たちも、きっと昼夜交代して見張りについているんだろう。
「どうかなさいましたか?」
何度か顔を合わせたことがある警備の男性が、私に気づいて声をかけてくれる。
「すごいですね」
ついそんな言葉が漏れた。
彼は不思議そうな顔で私を見返す。
「いえ、なんでもないです。いつもありがとうございます」
そう言ってごまかすと、彼はうれしそうに笑った。そして、わざわざ厨房の扉を開けて私を中へ誘導する。
低い門構えをくぐり、私は夜食が置いてある場所へ向かう。
厨房といってもそれ専用の建物があり、とにかく広い。後宮に来て一ヶ月ほど経つが、まだ道を覚えきれていないのは不安要素だわ。
団子を蒸す香りや茶葉の匂いがする廊下を歩いて行くと、ようやくお目当ての場所が近づいてきた。
ところが曲がり角の手前までやってきたとき、途中にある一室から人の声が聞こえて何気なく扉の隙間に視線を向けてしまう。
部屋の中には、厨房の下働きの女性と背の高い男性の姿が見える。
向かい合った二人の間は一人分以上の距離が空いてるものの、その女性はうっとりとした表情で幸せそうに微笑んでいる。
「────った、これからもよろしく頼むぞ」
「はい……!」
つい足を止めてしまったのは、その背中が見覚えのある人のものだったから。
髪を一つに結び、武官の姿をした蒼蓮様だ。
あら、密会ですか?と一瞬そんなことを思うも、蒼蓮様の声音が事務的というか表向きの感じだったので、恋仲というわけではなさそう。
扉を最後まで閉めていないのは、そういう仲だと誤解されないためにそうしているのか、それとも女好きという噂を流し続けるためにわざと見られてもいいようにしているのか……?
どちらにしても、私は夜食を取りに行くだけだ。
ただ、何となく気まずい感じがしたので、息を殺してその部屋の前を通り過ぎる。
いつも以上に気を遣って足を運び、ようやく夜食がある部屋に到着するとホッとした。
「はぁぁぁぁ…………」
何だか疲労感が押し寄せる。
早く自分の部屋に戻ろう。
そう思った私は、竹でできた大籠の中にあった夜食を取ろうと手を伸ばす。
「これから食事か?」
「──っ!」
背後から突然声をかけられ、驚きで目を瞠った私は、あやうく夜食を落としそうになった。
慌てて両手でそれを掴むと、今度はすぐ近くから声がしてさらに驚く。
「すまぬ、そんなに驚くとは思わなかった」
「い、いえ」
さっきまで別室にいた蒼蓮様が、なぜここにいるのか。
私は振り返り、その顔を見上げて尋ねた。
「蒼蓮様は、その」
「ん?」
聞いてもいいものなのかしら?
ためらう私を見て、彼はすぐに察して明るく笑う。
「あぁ、さきほど通り過ぎていったのはやはり凜風だったか。気にするな、よくあることだ」
「はぁ」
その表情から、さきほどの逢瀬に見えたあれは”仕事”だったのだとわかる。
蒼蓮様は私を見下ろし、からかうように言った。
「女官たちに、大げさに話してくれてよいのだぞ?厨房で私を見かけたと」
私は反射的にそれを拒否する。
「言いません、そんなこと」
「なぜ」
「なぜって、人様の行いについてあれこれ言うのは好ましくないと、母から習いましたので」
噂話なんて、ほとんどが作り話だとも教わった。
それを伝えると、蒼蓮様は困ったように目を細める。
「確かにそれは正しい。が、勤め人にとっては噂話や秘め事を伝え聞くと言うのは、生き抜くために必要なことでもあるぞ」
「そう、ですね……!?」
「まぁ、皇帝付きであるからには口が軽いのは困るが」
「一体、どちらなのです!?」
混乱してつい口調を荒げると、蒼蓮様はなぜかご機嫌な様子で私の袖を掴んだ。
「今からそれを食すなら、ちょうどいい。茶ぐらい出してやるから、私の宮へ寄っていけ」
「ええっ!?」
宮って、蒼蓮様の私的な邸ってことよね!?
皇族の住んでいるところへ私が気軽に……、ってダメ、それだけじゃなくて未婚の娘が用事もないのに他家に出入りするのははしたないと叱られる。
しかも夜遅くになんて、父が知ったら……!
片腕で抱き込むようにして私の背を押す蒼蓮様に、私は慌てて告げる。
「いけません!宮へ行くなんて」
「なぜ」
「なぜって、こんなこと父に知れたらすぐにでも責任を取れとあなた様に迫るに違いありません!」
今、この現場を見られただけでそうなりそうなのに!
必死で抗う私に向かって、蒼蓮様は「あぁ」と冷静に声を発した。
「それなら、隠れていけばいい」
「は?」
「そこの籠に入れ」
「はぃ!?」
彼が指をさした場所には、穀類を運ぶための大きな籠がある。
私が入れない大きさではないが、もしかしてこれを蒼蓮様が背負っていくつもり!?
「籠って、籠!?で、ございますか!?」
「そうだ」
「行かないという選択肢はないんですか!?」
「ない」
「ないのです!?」
意味がわからない。
唖然とする私を見て、蒼蓮様は眉根を寄せた。
「紫釉陛下に差し上げる茶を味見してもらいたい。官吏たちが、幼子の好きそうな物を取り寄せてくれたのだが、意見が割れてな。そなたも陛下の口に入るものは知っておきたいだろう?」
「それは、そうですね……」
理由はわかった。
でも、このままじゃ籠に入れられる。
初めて会った日、この人は私を荷物みたいに片腕で抱えて二胡を取りに行ったのよ、絶対にやる。
あぁ、お父様。お母様。
申し訳ありません。
これも凜風の運命と思って、諦めてください。
がっくりと項垂れた私は、蒼蓮様に向かって言った。
「自分で歩いて行きます……」