叔父と甥
──蒼蓮、あなたは皇帝になるのよ。
後宮の片隅で暮らす皇子は、虚ろな目でそう繰り返す母が苦手だった。
(8つ上に異母兄がいて、しかもあちらは皇后の子だ。私が皇帝になるなど、無理に決まっている。なぜ母上はそんな簡単なことがわからないのだろう)
子を産んでから、一度も渡りのない皇帝を待ち続ける母は次第に病んでいった。
皇妃の立場は皇帝の寵がなければ不安定で、どれほど着飾り、贅沢な暮らしをしてもその心は慰められない。
亡き母を思い出すと、彼女はいつだって歪に笑っている。その赤い唇だけが、やけに目に焼き付いていた。
凜風から紫釉の不安について話を聞くと、もう何年も忘れていた母のことが蒼蓮の脳裏に浮かぶ。
最期のときまで、わが子こそ皇帝にふさわしいと妄言を繰り返していた母のことが──。
(母が存命でなくてよかった。まだ生きていたら、紫釉陛下を追い落とそうとするに違いない)
争いごとは悲劇しか生まない。よほどの愚王でない限り、血筋の正当性を以て跡継ぎを決めることがもっとも効率的だ。
(己の欲望を満たすためだけに笑みを向ける者ども……何とおぞましいことか)
華美なのは表向きだけで、愛憎渦巻く後宮などいっそ朽ちてしまえばいいとすら思っていた。
それなのに、今あそこには屈託のない笑みを浮かべる娘がいて、幼い皇帝のことを守るべく暮らしている。
蒼蓮は己がそうしたこととも忘れ、驚きと困惑を抱いていた。
「遅いですよ、蒼蓮様!どこで遊んでいたんですかー!」
執政宮へ戻ると、部下の柳 秀英がさっそく泣きついてくる。
影武者を頼んだ時間を大幅に過ぎていたので、大臣らにバレないかひやひやしていたのだろう。
「遊んできたわけではない。あぁ、帰りにそなたの妹に会ったぞ」
笑顔でそう告げると、彼は目を丸くする。
「凜風にですか?」
「そうだ。陛下への土産を預け、近況報告を受けた」
足早に廊下を進むと、一歩後ろから秀英もまたせかせかとついてくる。
ここは執政宮でも許可のある一部の者しか立ち入れない区域のため、こうして蒼蓮の衣装を着た秀英が歩いていても、皆は気にも留めない。
「柳家の娘は随分と紫釉様に気に入られたらしい。本人もいたく世話係を気に入っている。永続雇用を願い出てきたほどにな」
この発言に、秀英はあからさまに眉根を寄せて困惑の色を滲ませる。
それもそのはず、凜風が気にしていたように、父である柳家の当主が許すはずがないからだ。
ただ、困り顔のわりに、彼の口から出た言葉は妹の様子に安堵しているようでもあった。
「あの子は、笑ろうていましたか……」
兄として思うところがあるのだろう。蒼蓮は視線をちらりと彼に投げる。
「凜風は、ご存じの通り柳家のただ一人の娘です。父の野心に付き合わされて、昔から気苦労が絶えませんでした。本人の性格が気丈なゆえ、あのように元気にしておりますが、ロクに庇ってもやれぬ兄としてはあの子が今幸せならそれを守ってやりたいと思う気持ちはあるのです……」
すべては家のために。
己の存在価値はそのためにあると教わってきた兄は、父の主張することの必要性も感じていた。
ただし、兄として妹の幸せを願う気持ちは当然ある。
(秀英は優しすぎる。この執政宮でも、こやつが”最後の良心”といえるところがあるからな……)
「凜風は『父に反抗したところでどうにもならぬ』とわかっていながら、私と違い諦めが悪いところがありまして。皇后候補の選定前には、水をかぶって風邪を引こうとしていたんです。猪よりも丈夫な娘ゆえ、あの場に参加できてしまいました。結果としては、これでよかったのでしょうが……」
本人が宮仕えを希望していたとしても、やはり良家の娘の幸せとされる結婚もしてほしいと秀英は言外に滲ませる。
その様子を見た蒼蓮は、兄妹というのはむずかしいものだなと思った。
だが、柳家のことは柳家の者にしかどうすることもできない。5大家という皇族の権力が及びにくい名家だからこそ、それぞれに事情があるのだろうと内心で片付ける。
ただし、嘆く秀英の恨み言はこちらにも飛んできた。
「蒼蓮様が妹をもらってくだされば、万事収まるのですが?」
「……」
「そもそも凜風は、あなた様の妃にと父が教育を施してきたのですよ?これまで許嫁がまったくいなかったわけではありませんが、この国で最も高貴な方がいつまでも独り身だから、父がなかなか諦めないのです。紫釉陛下の周りが落ち着いたら、いよいよ蒼蓮様が誰かと結婚してくれればうちの心配事も一つ減るのにな~、どうでしょうかね~?」
「…………」
蒼蓮は、聞かなかったことにした。
突き刺さる視線を無視し、歩みをさらに早める。
「右丞相のことは、しばらく放っておけ。柳家の娘が紫釉様のそばにいることが国のためになるなら、私が動く。それにまだ後宮へ来たばかりだ、妹の好きにさせてやれ」
長い廊下を進んでいくと、菖蒲の模様が彫られた大きな扉が見える。
蒼蓮が近づくと、何も言わずとも官吏がそれを開き、二人は室内へと入っていく。
秀英は薄青色の衣を脱ぎ始め、衝立の奥にある籠に入れてあった自分の服に着替え始めた。
蒼蓮は続き間へ行き、武官の衣装の紐を解き、皇族として大臣らを迎えるために黒の衣装に着替える。
その途中、ふと指先から甘い蜜の香りがすることに気づき、凜風から受けた報告のことを思い出した。
(紫釉陛下が、まさかあのようなことを思っているとは)
2年前、兄である先代皇帝が亡くなり、まだ3歳の甥をどうにか順当に即位させようと蒼蓮は手を尽くしてきた。
寝る間も惜しんで政務に明け暮れ、混乱を機に内乱を起こそうとする勢力についても厳しく罰して取り締まった。
紫釉陛下こそがこの国の皇帝なのだと、まずは蒼蓮が臣下としての態度を見せることで他の者に示した。
公の場では常に陛下を立て、さらには幼い紫釉にも皇帝らしく振舞うことを厳しく求めた。
だが、その結果、紫釉陛下に「蒼蓮に嫌われている」と思わせるとは。
しかも、李派の動きもそれを助長していた。
――ガンッ!
左手を壁に叩きつける蒼蓮。
その音に驚いた秀英が、慌てて扉の隙間から顔を出す。
「い、いかがなさいました!?」
「…………クソ爺どもめ、どうやら死にたいらしい」
「は?」
振り返った蒼蓮は、ギラギラとした目で薄ら笑いを浮かべている。
秀英は顔を引き攣らせ、ただごとではないと生唾を飲み込んだ。
羽織りを乱暴に纏った蒼蓮は、執務机のある部屋へと向かう。
「紫釉陛下の信頼を回復する必要ができた。李派がいらぬことを吹き込み、『我がいなければ蒼蓮が皇帝になれたのに』と、しかも『蒼蓮に嫌われているのではないか』とも柳家の娘に話したそうだ」
「それはまた……」
子どもといえど人の心は複雑で、拗れると修復はむずかしい。
しかもそこに付け入る者が現れたら……、蒼蓮はすぐに予定変更を告げる。
「明日の朝より、陛下と食事を取る。食業が始まってからも、しばらくは毎日様子を見に行くつもりだ」
「はっ、報告会と官吏上申の場は時間を調整いたします」
「よろしく頼む。……これまで忙しさを理由に後宮から足が遠のいていたが、顔を合わせるのが報告会だけでは、陛下との関係性を深めることはできない。臣下としてでなく、叔父として過ごす時間が必要だ」
席に着き、すでに明日のための調整に入る蒼蓮はその手に握る筆を動かしている。
秀英も扉の向こうに待機していた伝令係に用事を告げ、各所への根回しを始めた。
再び部屋に戻ってきた秀英。
書き物をしている主の手がぴたりと止まったことに気づき、不思議そうに尋ねる。
「どうかなされましたか?」
「…………いや」
少しだけ顔を上げ、ちらりと秀英を見る蒼蓮。
しばしの沈黙の後、やけに真剣な顔つきで言った。
「紫釉陛下と何を話せばいい?」
「は?」
「叔父として向き合う時間が必要だ、とは思うのだが、5歳と一体何を話すというのだ?」
「…………」
執務室に静寂が広がる。
書物や文を整理していた官吏見習いたちも、一斉にその動きを止めて息を殺していた。
学問や交渉に長ける彼らの中に、蒼蓮の問いかけに答えられる者はいない。
一瞬にして凍り付いた空気を感じ、秀英は思った。
これは早急に、妹に連絡を取らねばならない、と────