願い事
すっかり寝入った紫釉様のお顔を見届け、戻ってきた静蕾様と入れ替わりで寝所を出る。
内扉の前には、護衛の麗孝様が立っていた。
「休憩か?」
「はい。午睡が終わるまでは」
短い言葉を交わし、私は陛下の居住区を出て長い廊下を歩いて行く。
突き当りの角を曲がると、石壁の向こうに執政宮の朱色の屋根が見えた。
私の仕事は後宮内だけですべてが片付くので、執政宮へ行くことはないし、通行許可証もない。
紫釉様には、私がずっとここにいられるように蒼蓮様に頼んでみると言ったものの、兄が今度ここへ顔を出すときに文を言づけるくらいしかやれることはなさそうだ。
今すぐ走って行って、蒼蓮様に話ができないのが悔しい。
とにかく文を書いてみるか、そう思って自室に向かっていると、突然庭先から声がかかる。
「柳家の娘ではないか。元気にしておるか?」
「──っ!」
ビクッと肩を揺らして庭を見れば、そこには出会ったときと同じ武官の装束を着た蒼蓮様がいた。一つに結んだ黒髪がさらりと揺れ、気を抜けばぼんやり眺めてしまいそうになる美しさだ。
「なぜ庭から!?まさか壁を乗り越えてきたのですか!?」
驚いて問い詰めるように尋ねると、彼はあははと軽く笑いながらこちらに近づく。
「さすがに壁を越えてはいない。通路があるのだ、専用の」
「そうでございますか……」
「そなたにも教えてやろうか?」
そんな気軽に言われても。
私は右手を前に出し、きっぱりと断りを入れる。
「いえ、不要です。よけいな秘密は持たぬ方がいいと思いますので」
それを聞いた蒼蓮様は、一瞬だけ目を瞬いた後、なぜかぷはっと噴き出した。
「ははっ、相変わらずだなそなたは。元気そうで何よりだ」
それはそうと、なぜここに蒼蓮様がいるのか。しかも武官のふりをして。
考えていることが顔に出ていたらしく、蒼蓮様は私が聞かずともその理由を語り出した。
「気晴らしと、調査を兼ねてこうしている。宮廷の中だけでなく、街へ行くこともあってな」
「そうでございますか」
「今日は、静蕾にこれを預けようと思うておったが、そなたに会えたのはちょうどよかった」
彼はそういうと、懐から折りたたんだ四角い布を取り出した。
厚手の黒い布でできた袋だった。
それを私に押し付けるように渡すと、口の紐を抜き、その中身を見せる。
「蜜菓子だ。飴のように見えるが、口に入れると──」
花びらの形の小さな菓子を、蒼蓮様は指でつまんで私に見せた。
何があるのか、とじっとそれを見つめると、突然それが唇に押し当てられる。
「んっ!?」
「どうだ?一瞬で柔らかくなるだろう?」
口内に甘くねっとりしたものが広がり、私は物珍しさからそれを舐め続ける。
餅や団子ほど弾力がなく、柔らかな触感はハチミツを食べているかのようだ。
「おいしい……です」
「そうだろう?これを紫釉陛下にも食べさせて差し上げたいと思ってな。街に出たついでにもらってきたのだ」
紫釉様が食べる菓子を、私が先に口に入れてもいいのかしら?
ちょっとどきりとしたけれど、すぐに納得した。
「毒見は私がしたということでよろしいです?手間が省けますね」
さすが、合理的な蒼蓮様だ。
そう感心して満足げに微笑むと、彼はじとりとした目で私を睨む。
「すでに毒見など済ませたわ。そなたにそんな酷なことはさせん」
「まぁ、意外にお優しいのですね」
私は蒼蓮様の手から紐を受け取り、再び袋の口を縛る。
「これは静蕾様と紫釉様にお渡しいたします。ありがとうございます」
「あぁ、そうしてくれ」
受け取った菓子は、蒼蓮様が紫釉様のためにわざわざ差し入れてくれた物。このことを知れば、きっと喜ばれるだろうな。
ご自身で手渡せばいいのに、と思うけれど、おそらく紫釉様が起きる時間までは余裕がないのだと予想はつく。
お二人がゆっくり過ごす時間がないことを残念に感じた私は、せめて紫釉様のお気持ちや希望を伝えておかねばと思った。
「あの実は蒼蓮様にお話ししたいことが」
私が真剣な声でそう告げると、蒼蓮様も纏う空気を変える。
「何か問題でもあったか?申してみよ」
その顔つきは、さきほどまでとは違って頼もしい執政官のそれだった。
「紫釉様に『いつか、いなくなるのか?』と問われまして……」
窺うような目を向ける私に対し、蒼蓮様はすべてを悟って「あぁ」と呟く。
「静蕾様と同じように『凜風もずっとおそばにおります』と伝えたいのですが、どうにも私にはその権限がなくて困りました」
「そうであろうな。陛下が子どもとはいえ、そのあたりをごまかすと後々の信頼関係に響く」
「ですよね。なので、皇帝陛下の世話係として永続雇用をしていただきたく存じます」
「おぉ、永続雇用ときたか」
私はじっと蒼蓮様を見つめる。
彼は少し困ったような顔になり、腕組みをして頭を悩ませた。
「平民出身の下働きの者はともかくとして、女官やそば仕えの者たちは嫁げば退職というのが慣例だ。もしくは静蕾のように、完全に生家とは関係を絶ち、後宮にその籍を移すか……。現状、そなたの籍はまだ柳家にあるから永続雇用をするなら柳家との話し合いが必要になるな」
「後宮に、籍を移す?」
そうか。皇后や後宮妃に付き従う女官は、家から離れてそれぞれの仕える主人の持ち物として登録される。静蕾様は前皇后様の女官になったときに、生家から離れたのだとか。
その後、前皇后様が国元へ戻られることになり、さすがに連れてはいけないということで後宮に籍が残ったという。
一度家を離れると、二度と戻ることはできない。
紫釉様が彼女を手放すと言わない限り、永続的に皇帝陛下付きの女官長として勤めることができる。
できることなら、私もそうしたいところだけれど────
「さすがに父がそれを許すとは思えません……」
「そうだな。右丞相はいずれそなたを家に戻し、他家に嫁がせるつもりであろう」
たとえば柳家にほかの娘がいたのなら、私一人くらい諦めてくれたかもしれない。だが、現実として娘は私一人なのだ。他家とのつながりを広げる、権力をより拡大するためには、よき駒となる私を手放せないことは予想がつく。
落ち込む私を見て、蒼蓮様は苦笑いで言った。
「数年の後、そなたの兄が家督を継げばまた変わるかもしれん。世話係として永続雇用する件については、私も心に留めておく」
「ありがとうございます……!」
パァッと表情を輝かせる私。
父をやり込めたこの人なら、何とかしてくれるかもしれない。期待に満ちた目を向けると、蒼蓮様はまた声を上げて笑った。
「そなたは感情がすぐに顔に出るな」
「はっ、これは失礼を」
子どもじみていると思われただろうか。
居心地が悪くなり、私は視線を落とす。
「気にするな。ここはかつて騙し合い、化かし合いが大いに行われていた後宮だ。そなたのような者が健やかに働けるということは、悪しき時代が終わったのだと安心できる」
「ありがとうございます。そうおっしゃっていただけると救われます」
苦い記憶があるんだろう。蒼蓮様の憂いを帯びたその目からは、多く語らずとも胸のうちが感じ取れた。
その様子を見て、私は紫釉様の不安げなお顔が脳裏をよぎる。
「あっ」
「なんだ?」
「もう一つお願いが、いえ、あの相談がございます」
「ふむ……?」
紫釉様にとって、きっと蒼蓮様はかけがえのない人だから、少しでも二人が近づけたら。
私は蜜菓子の袋を握り締め、蒼蓮様に寝所でのことを話し始めた。