皇帝の憂鬱
午後になり、書閣で絵巻を読んでいた皇帝陛下は午睡の時刻を迎えた。
まだ幼いとはいえ、陽が落ちた後に行われる大臣たちの報告会に出席するので、少しの間だけでも眠っていなければ集中力がもたない。
静蕾様は執政室へ向かうと言って陛下のおそばを離れ、私は小さな主と共に寝所にいた。
白い衣に着替えて寝台に横になった陛下のそばで、私は椅子に座って二胡を手にする。
ゆるやかな曲を奏でることで、陛下は眠りにつきやすくなるそうだ。
私はここ数日と同じように、心が穏やかになる曲を選んで演奏する。
心を穏やかにしてしばらく弾いていると、ふいに陛下の声が耳に届いた。
「なぁ、凜風」
「何でしょう?」
二胡を弾きながら、陛下の呼びかけに応じる。
寝台の方へ目をやると、大きな目がこちらを見ていた。
「凜風はいつまでここにおる?」
突然にそんなことを聞かれ、私はしばし目を瞬かせる。
「いつまで、とは?」
勤め始めたばかりなのに、期限を聞かれるとは思わなかった。
陛下は、少しぼんやりした表情で言った。
「静蕾は……ずっと我のそばにおると申した。我が大きくなっても、ここにおってくれると」
「そうでございますか」
静蕾様は、生まれたときからそばにおられる方。これからもずっと、陛下に寄り添っていく方なのだろう。
彼女は、陛下の心のよりどころなんだとわかる。
この広すぎる後宮は少し淋しげな雰囲気がするので、陛下にとって真に味方である静蕾様の存在は大きい。
「凜風はどうなのだ?いつか、いなくなるのか?」
窺うようなその瞳は、不安で揺れている。
父も母もいなくなり、体調不良とはいえ乳母までも療養に入ったことで幼い陛下の心は不安定になっているのだと思うと、あまりにお可哀そうで胸が痛んで息が詰まった。
「ずっとおそばにいられるよう、蒼蓮様に頼んできますね」
何が何でも離れません、と即答できないのが悔しい。
悲しいかな、私の処遇は蒼蓮様次第であり、それがなくても父に委ねられている。
私は今答えられる限りのことを口にした。
ところが陛下は、蒼蓮様の名前を出すと少し寂しげな顔つきに変わる。
「蒼蓮は、いいと言ってくれるだろうか?」
自信なさげにそんなことを呟く。
「ふふっ、いいと申すまでわたくしが頼みましょう」
泣き落としが通じるような方ではなさそうだけれど、ほかの誰でもない陛下が望んでいると言えば許してくれるのではないか。
だって、あの方は陛下のことを大切に想っているってわかるから。
けれど、陛下の表情は冴えない。
「蒼蓮は、我をどう思っておると思う?」
「どう、とは?」
普通の甥と叔父ではないのかもしれないけれど、皇族だって肉親の情はあると思った。
きょとんとする私に向かって、陛下は窺うように尋ねる。
「蒼蓮は、我を嫌ってはおらぬか?」
まさかの問いかけに、指が止まりそうになる。
驚いて、ちょっと間違えてしまった……。
私は気を取り直して続きを弾きながら、陛下の目を見てきっぱりと告げる。
「それはあり得ません。蒼蓮様は陛下を嫌ってなどいません」
「なぜそう思う?」
「先日お話したときに、陛下のことを大切に想っておられるのだと感じました」
嫌いなら、陛下が二胡を気に入ったからと私を世話係にしないだろう。適当な理由をつけて、後宮の隅に追いやるかあるいは────
いやいやいや、最悪の事態は物語の中だけと思いたい。
「我は知っておる。紫釉がいなければ蒼蓮が皇帝になれたのに、と爺たちが申していた」
「爺?」
「李の左丞相やその長史、官吏たちだ」
陛下は、李家の当主とその部下たちをひとまとめに爺と呼んでいるらしい。
確かに、李の左丞相は私の父よりいくつか年上で、総白髪なので見た目は随分と老年のように見える。
それにしても、陛下に聞こえるところでそんな話をするなんて……!
私は苛立ちを覚えた。
「蒼蓮が皇帝になりたいのなら、我は邪魔であろう?」
薄青色の掛け布を、小さな手がきゅっと握り締めているのが痛ましい。
私は二胡を弾く手を止め、そっとその小さな手に自分のそれを重ねる。
「大丈夫です。蒼蓮様は、陛下のことが大好きですよ。忙しくてなかなかお顔を出せずにいますが、陛下のことを守ろうとしておいでです」
もしも彼が本気で帝位を欲したのなら、すでにそうなっているだろう。
父もなく、母もいない、陛下の寄る辺は蒼蓮様だけなのだから。
私は何を知っているわけではないけれど、逆にいえばそれほど親しくなくとも想いが伝わるほどに愛情深いと信じたい。
陛下は目を丸くして、少し前のめりで私に言い募る。
「真か?蒼蓮は我を好きか?」
「はい。真にございます」
「そうか」
「ええ」
私がにこりと微笑むと、陛下も少し恥ずかしそうに微笑み返す。
「さぁ、陛下。そろそろお休みにならなければ」
そう言って手を離すと、陛下は小さな声で「うん」と頷いた。
そして、掛け布をあごのあたりまでしっかりと被ると、ちらりと私を見る。
「我のことは紫釉と呼べ。凜風」
「え?よろしいのですか?」
お許しが出た。
私は驚き、確認する。
「なぜ凜風は我を陛下と呼ぶのかと麗孝に問うたら、『許しがなければそう呼ぶことはできません』と言われた」
「あぁ、なるほど」
許しが必要だと、紫釉様は気づいていなかったのね。
私はつい笑みを零す。
「それでは、今このときより紫釉様と呼ばせていただきます」
「あぁ、そのように頼むぞ」
満足げに口角を上げた紫釉様を見ると、皇帝らしくあろうとする姿がまたかわいらしく、私は目を細める。
「おやすみなさいませ、紫釉様」
穏やかに、優しく二胡を奏でる。
それからしばらくして、ふと寝台に目をやった私は紫釉様の健やかな寝顔を愛でることができた。