父に抗いたい娘
食事を終え、静蕾様と共に廊下を歩いていると、ちょうど学習時間を終えた陛下が護衛武官を従えてこちらにやってくるのが見えた。
薄紫色の衣に黒い帯、5歳といえど腰には刀をつけて皇帝らしいお姿だ。
「静蕾!凜風!」
私たちを見つけると、陛下の顔がぱぁっと明るく輝く。
さきほどまでの凛々しさはどこへやら、駆け寄ろうとするそのお姿に、護衛武官たちも目を細める。
「紫釉様、おかえりなさいませ」
最初に声をかけたのは、静蕾様だ。私も続いて、軽く頭を下げる。
「今日はもう書閣へ行ってもよいと、栄殿が言っておった!」
さきほどまで陛下に歴史を教えていた栄先生は、仙人みたいな長い髭のおじいちゃん。永らく文官として勤め上げた方で、希少な書物を集めた書閣の管理者でもある。
陛下はまだすべての文字が読めるわけではないけれど、子ども向けの絵巻を読むのを楽しみにしている。
「紫釉様、まずは茶と菓子をいただいてからです。時間はたっぷりありますので」
護衛武官の麗孝様が、すぐにでも書閣へ行こうとする小さな主にそう言った。
彼は武官にしては朗らかな笑みを浮かべる人で、陛下のそばにずっとついている。
静蕾様からの信頼も厚く、「何かあれば彼に報告を」と初日に言われた人物だ。
柳家とは親しくできない李家の縁者だそうだが、彼自身は派閥のことは気にしないと公言している。
蒼蓮様が彼を護衛につけているのは、その腕前だけでなく敵を作らない性格や考え方を評価してのことだろう。
部屋に向かって歩き出した静蕾様と陛下の後に続く私に、彼は屈託のない笑顔で尋ねた。
「凜風、その後オヤジ殿から連絡はきたか?」
彼が丁寧な話し方をするのは、陛下と蒼蓮様に対してだけ。
私には、かなり気さくに話しかける。
「きましたよ。長い長い文が」
後宮で世話係として暮らすことになった私に対し、父はすぐに文を送ってきた。
色々なことが書いてあったが、要約するととても簡単な内容で──
それを思い出すと、遠い目になり自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「陛下を大切にすること、そして、蒼蓮様に振り向いてもらえと」
「おぉっ、懲りないね。右丞相らしい」
らしい、と言われても。少しは諦めるということを覚えてもらいたい。
「あまりに腹立たしかったので、文は炭窯に入れて燃やしてやりました。さぞいい火種になることでしょう」
「ははは、良家の娘も大変だなぁ」
仲良く歩く陛下と静蕾様の後ろ姿を見ながら、私はついため息が漏れそうになる。
「私にとって、陛下の世話係は十分に光栄なお役目です。ここなら柳家の娘としてではなく、陛下に仕えるただ一人の女人としていられますから」
思えば、幼少期から自分の好きにできたのは二胡を弾くことだけだった。
柳家の娘である以上、家のためになる行動をせよと常に言いつけられ、どこへ行こうとも私の存在はあくまで柳家の娘でしかない。
恵まれていることはわかっているが、それでも家の力ではなく己のことを必要とされたいと思う気持ちはずっと胸の奥底にあった。
私に何ができるかはわからないけれど、幼い陛下が健やかに成長していけるよう少しでも支えになれたなら、これほど幸福なことはないと思う。
「ようやく自由になれたのです。しかも仕えるのは、聡明で愛らしい皇帝陛下ですよ?たとえどこへも嫁げなくても、私は幸せです」
麗孝様はまるで幼子に諭すように、私に告げた。
「ま、そんなに肩肘張って生きていかずとも、道は次第に開けるさ。まだ若いんだから、そのうち好いた男ができるかもしれないしな。どうなろうと、広い目で自分のことを見て、許してやれ」
「許す、とは?」
「むずかしく考えるなってことだよ。何事も天の思し召しだ。笑って生きてりゃいいことがあるさ」
「はぁ」
そんなに軽い感じでいいのかしら?
腑に落ちないという心情を顔に表す私を見て、麗孝様はまた笑った。