少年皇帝のお世話係になりました
少年皇帝のお世話係。
その仕事は、後宮内で皇帝陛下の暮らしを支える特別なお役目だ。
「おはようございます、陛下」
早朝、まずは5歳の紫釉陛下を起こすところから仕事は始まる。
私はまだ後宮に来たばかりのため、皇帝付きの女官長である静蕾様と共に行動することが多い。
静蕾様は、前皇后様の女官でもあった方で、27歳の凛とした女性。
5大家の中でも、柳派でも李派でもない、中立の立場を取っている高家の出身らしい。
前皇后様が国元へ戻られた後も、紫釉陛下の乳母と静蕾様が中心となり、幼い陛下を守ってきた。
紫釉陛下は、大きな目が愛らしい少年で、朝はちょっと弱い。
「陛下、朝餉の準備ができておりますよ」
寝台の帳の外から声をかけるが、しばらくは小さなうめき声を上げるだけでお目覚めになるまでには少々時間がかかる。
「うん……」
声をかけること数回。
静蕾様が帳の中へと入って行き、その細い肩に優しく手を添えて再び声をかける。
「紫釉様。起きてくださいませ」
「うん……、わかった」
ようやく寝台の上で身を起こしたものの、まだぼぉっとしている。この状態の陛下は、普通の幼児にしか見えない。
一国の皇帝陛下とはいえ、やはり子どもは子どもなんだなと何となくホッとする。
紫釉陛下は、先帝が亡くなったためわずか3歳で即位した。
皇帝になり2年、当然のことながら執政はすべて蒼蓮様が担っている。
通常、皇子や皇女は後宮で母と一緒に暮らし、即位するなり身の振り方が決まる8歳頃には後宮から出て生活するそうだ。
本来であれば、皇帝になった時点で紫釉様は本殿の奥で住まうはずなのだが、まだ幼く、すぐに居を移すのは心労があるだろうということで、後宮で今まで通り暮らしている。
「おはよう、静蕾。凜風」
「「おはようございます」」
陛下は私の弟・飛龍と同じ年だけれど、その背格好は一回り小さく、線が細い。
一見すると女児と思うような、柔らかな雰囲気の顔立ちが愛らしい。
「髪を結いますね」
寝台から降りた紫釉陛下は、桶に入れて運ばれた湯で顔を洗い、椅子に座って髪を結われる。
静蕾様が食事の確認をしている間、私は陛下の髪を櫛で梳かし、赤い玉のついた髪留めをつけた。
そこから着替えを手伝うと、食事のお手伝いをして、朝の散歩へ出かける。
後宮の至るところに護衛の姿が見えて最初は驚いたけれど、紫釉陛下は慣れっこのようで特に気に留める様子もなく、私もすぐに慣れてしまった。
「凜風、見よ!鳥がおるぞ」
「あら、かわいらしいですね。メジロでしょうか」
たわいもない言葉を交わしながら、広い後宮の半分ほどを歩くと、学習時間がやってくる。
部屋に戻れば読み書きの講師がすでに待っていて、陛下が勉強しているうちに私は食事をとった。
ここにきてから、朝夕2回の食事はどちらも静蕾様と一緒にとっている。
彼女は仕事には厳しい人だけれど、いきなりやってきた私にあれこれ事細かに教えてくれて、頼もしい存在だ。
ちなみに、兄がよくここへ顔を出すのは、妹の様子を見に来ているのではなく、静蕾様に会いたいから。
兄の中で、静蕾様は「天女のような美しい人」なんだそうだ。
まったく相手にはされていないけれど、兄はとても幸せそうに静蕾様と挨拶を交わして帰っていく。
こうして並んで食事を取れることを、とてもうらやましがられた。
黙々と箸を進めていると、ふと静蕾様が青菜の炒め物を見て口を開く。
「紫釉様は、今朝これをきちんと召し上がられましたか?」
私は「はい」とすぐに返事をする。
魚や煮物は違うけれど、この青菜の炒め物は陛下の膳にあったものと同じだった。朝は野菜を多めにとるというのは、後宮でも5大家でも同じらしい。
「ちょっと嫌そうにしておられましたけれど、粥と混ぜて召し上がられました」
「そうですか」
紫釉陛下は、まだ私のことを少しだけ警戒しているのか、態度を測りかねているのか、遠慮がちな仕草が見て取れる。
静蕾様だけなら青菜を残そうとするらしいが、今日は彼女が他用で席を外し、代わりに私がいたので仕方なく青菜を食べていた。
ちらちらと私の顔色を見るところがほほえましくて、つい口角が上がる。
「嫌いなものでも食べなければいけないって、皇帝陛下でも同じなんですね」
私がそう言うと、静蕾様は笑った。
「いくら皇帝陛下でも、好き嫌いは直していただかなくては。幼少期から好き勝手にできると思い込んでしまったら、先々ご自身が苦労なさいます」
世話係って、もっと何でも言うことを聞くものだと思っていた。
きちんと生活できるかどうか、皇帝陛下を支え、ときに厳しくすることも仕事のうちらしい。
「紫釉様はもう5歳ですから、そろそろ食業に入られます。青菜ごときで敬遠していては、先が思いやられますわ」
静蕾様が心配そうにそう言った。
私はここに来るまで知らなかったが、皇族は5歳から食業と呼ばれる訓練が始まるらしい。
この国で食業というと、食事の中に毒性のあるものを少しだけ混ぜ込み、身体に耐性をつけることを指す。
もちろん、陛下本人には告げられない。
食事に対して苦手意識が芽生えるといけないから。
「あの、陛下は大丈夫なのでしょうか?私が口出しするようなことではないと、わかってはいるのですが……」
どう見ても、陛下は普通の5歳より小さくて儚げに見える。
後宮医が分量を判断して取り計らうとは聞いていても、あの小さな身体に毒を入れることは不安だ。
新参者がよけいなことを、と思われるだろうかと躊躇いがちに言った私に向かい、静蕾様は優しい笑みで答えてくれる。
「凜風の気持ちはわたくしも理解できます。陛下のことが心配なのでしょう?その気持ちは、世話係にとても大切です。気になったことは、その都度尋ねてくれて構いません」
「静蕾様……!」
皇帝陛下の女官長は、心が広いらしい。
私みたいな突然やってきた娘にも、真摯に話をしてくれた。
「あなたが案じているように、紫釉様はまだ幼く体力もありません。まずは症状の軽いものから始めます。すぐに体外に排出される、人が本来持っている力で抵抗できる毒から始めますので大丈夫ですよ。食後数時間で、微熱や発疹が出る程度のものだと聞いています」
「そうですか……」
「かといって、油断は禁物です。微熱が続くうちは、わたくしと凜風、それに数人の女官で夜番も交代で行い、陛下の無事を見守ります。気苦労の多い時期となるでしょうが、よろしく頼みますね」
「はい。しっかりと務めさせていただきます!」
あの愛らしい陛下のためなら、一生懸命に働きます!
私は力強く返事をする。
静蕾様はにこりと笑うと、私に食事を勧めた。
「ここでの暮らしは、せわしないでしょう?すべてが陛下のために、陛下の時間に合わせて物事が進みますから。良家の娘には酷なことと思います。せめて食事くらいは、十分な量を食べておきなさい」
たしかに、好きな時間に二胡を弾き、花や景色を愛でる時間はない。
けれど、私よりも静蕾様の方がよほど忙しく働いている。それなのに私を気遣ってくれるのがうれしかった。
この人のためにも、しっかりとお役目を果たしたい。
そう思う気持ちが自然に湧きおこる。
「ありがとうございます。静蕾様のためにも、がんばります……!」
「ふふっ、でも無理は禁物ですよ」
その笑顔を見ていると、心が安らぐ。
兄が「天女」と表現したのは、間違いではないと心の中で深く同意した。