事の発端は【後】
もういっそ、誰か決まった人を娶ればいいのに。
そんなことをふと思うと、ようやく正常に戻った兄が指で頬を掻きながら言った。
「蒼蓮様、わが妹は色事には興味がございません。そのお顔は通用しませんよ」
兄に苦言を呈され、美しいその人はさらに笑みを深める。
「だからこそ、陛下のそばにこの娘を置きたい。それに柳家が陛下の後ろ盾にならざるを得ないこの状況になれば、私を皇帝にしようと考える者も減るであろう?」
「それはそうですね」
兄も、なるほどと頷く。
「これまで私が女好きだと公言してきた甲斐もあり、近頃では紫釉陛下しかいないと大臣たちも態度を示し始めた。よいことだ」
光燕国は、信仰上の理由から随分と長く『一夫一妻』と決められている。
愛人を持つ者もいるが、それは決して公にされない。皇后をはじめ、複数の妻(皇妃)を持っていいのはこの国で唯一、皇帝陛下だけだ。
その皇帝陛下ですら、女好きが過ぎると国が亡ぶといわれ、やたらと皇妃を据えることは忌避される。
数代前の皇帝がたいそうな女好きで、国庫を圧迫し、執政が疎かになったから。
そのときのことを教訓に、女好きは皇帝にふさわしくないというのが共通認識だった。
「蒼蓮様が女好きであれば、紫釉陛下に代わって帝位に……という声も小さくなる。だからこのお方はあえて噂を流された」
このことは内密に、と兄が付け加える。
蒼蓮様はにこにこと柔和な笑みで「内密にな」と言った。
私は素直に頷く。
「わかりました。命は惜しいですので秘密は守ります」
「そなたは私のことを暴君だと思っていないか?」
蒼蓮様が、やや口元を引き攣らせてそう尋ねる。
暴君とは思っていないけれど、ただの優しい人ではないと思っている。
右丞相である生粋の腹黒、じゃなかった、私の父を追い詰めていたあのときの表情や態度からは、そこそこ性格は歪んでいるなと感じた。
「ふふっ、まさか、そんなことはございません」
執政宮の頂点に立つ方が、生ぬるいわけはない。しかも皇族で、少年皇帝を守る立場の方だ。非道なことの一つや二つ、三つや四つはしていてもおかしくない。
けれど蒼蓮様は、違った方向性に勘違いしたらしい。
「もしや、25歳まで世話係から解放しないと言ったことを怒っているのか?嫁にいけぬようになると」
「え?」
そんなことはまったく気にしていない。
私は意外な言葉にきょとんとしてしまう。
蒼蓮様は困ったように笑い、考えるそぶりを見せる。
「嫁入り云々に関しては、あれは右丞相への嫌がらせだ。そなたが嫁に行きたくなったら、いつでも許可しよう。さすがに2年は勤めてもらいたいが、無理強いはしない。そうだな、それでも身の振り先が心配だと言うのなら……」
「?」
2年はいくらなんでも短い。そう思っていると、蒼蓮様はまったく求めていない妥協案を出してきた。
「私の妃にでもなるか?」
その笑みは、到底信じられるものではなかった。
からかっている。
瞬時にそう判断した私は、間髪入れずにお断りした。
「ですから、そういうのはけっこうです。私は、意に添わぬ縁談から救っていただけただけで感謝しています」
「そうか?私はわりと人気があるぞ?」
さらりとそういう蒼蓮様。私は耐え兼ねて笑ってしまった。
「ふふっ、お飾りでもあなた様のお妃になるのは身に余ります。面倒事はイヤですわ」
嫉妬やしがらみも多そうだ。
断固として拒否する姿勢を示すと、彼はまた一段と笑みを深める。
そして、私の兄に向かってわざと嘆くように訴えかけた。
「秀英、そなたの妹ははっきりと物を言う。気に入った。定期的に罵られたい」
兄は嫌そうな顔をする。
「変態っぽいのでやめてください」
「まぁ、そう申すな。なかなかに興味深いのだ、己になびかぬ女というのは」
クックッと笑いを漏らす蒼蓮様は、白い目を向ける兄に「冗談だ」と告げる。
ここでふと本殿の扉の方へ目をやると、明らかに蒼蓮様を待っている上級官吏の姿があった。執務が立て込んでいるらしい。
蒼蓮様もそれに気づき、「時間だな」と呟いた。
そして私に向かって穏やかな笑みを向け、右手を上げる。
「では、またな。柳家の娘よ。後のことは、秀英に言づけておく」
「はい、ありがとうございました」
宮廷は広い。
それほど頻繁に会うこともないだろうな、と何となく思った。
私はお礼を言って、頭を下げる。
くるりと背を向けた蒼蓮様は、颯爽と本殿へ歩いていった。
それを見届けた私たちは、兄妹並んで歩き始める。
「はぁ……。何だか先が思いやられるよ」
嘆く兄。
今さらそんなことを言われても、どうしようもない。
「腹を括ってくださいませ、兄上」
まだ世話係の仕事は始まってもいない。
私は意気揚々と前を向いた。
5月17日発売!
「皇帝陛下のお世話係」ノベル2巻&コミックス1巻
ノベル版は半分くらい書き下ろしで、新しいエピソードが満載です♪
紫釉様の成長や凛風の仕事ぶり、蒼蓮の深まる愛情と不憫がより楽しめる内容になっております!
どうかお楽しみください!
漫画版では、吉村悠希先生の描く麗しい世界観が最高です。
お兄ちゃんと蒼蓮の不憫かっこいい姿よ……!( ノД`)煌びやかな中華の世界、詰まってます。
なお、小説版もマンガ版もずっと名前にふりがなついてます。読めない・覚えられないが解消されて、ストレスフリーな中華をお楽しみいただけます。
ありがとうございます、スクウェアエニックスさん…!
※アニメイトさんなどでの特典配布は、なくなり次第終了です。