事の発端は【前】
「お気をつけてお帰りくださいね、お父様」
「…………」
私と兄は、一人で邸へ戻っていく父を笑顔で見送った。
母には、私から文を書いて届けてもらうことにしよう。驚くと思うけれど、私が決めたことだからと許してくれるに違いない。
「本当にいいのか?」
兄は不安げだが、父の監督下から逃れられた私は、解放感と未来への希望でいっぱいだった。
「このお勤め、まっとういたします」
笑顔でそう答えると、兄はもう何も言わなかった。
二人して踵を返し、本殿の向こうにある官吏用の居住区へと向かう。
今日はまだ私のための部屋が整っていないため、一時的に身を置く部屋を借りるためだ。
高い青空は清々しく、晴れ晴れとした気持ちで私は歩く。
私たちが本殿の通用門までやってくると、そこにはさきほど会ったばかりの蒼蓮様がいた。
濃茶色の丸い柱に背を預け、腕組みをしてこちらを見ている。
「秀英、見たか?右丞相のあの顔。この世の終わりであったな」
楽しそうにそう話す蒼蓮様に対し、兄は小さくため息をつく。
「あれでも父です。私としては複雑ですよ」
その言葉に、蒼蓮様も思うところがあったらしい。
腕をほどくと兄の肩にポンと手を置き、苦笑いで謝罪した。
「すまぬ。今後はなるべく事前に知らせるようにしよう。だから許せ」
「本当ですか?期待しますからね?」
二人が親しげに言葉を交わすのを、私はきょとんとして眺めていた。
どうやら蒼蓮様はわりと気さくな方みたいだ。
視線に気づいた彼は、兄から手を離すと私に向き直って言った。
「そなたを巻き込んですまなかったな。気を悪くしたか?」
昨日とは随分違い、こちらを思いやるような言葉。
私は笑顔で首を振る。
「いえ、私も少し胸がスッといたしました」
つい本音が零れる。
蒼蓮様はあははと明るく笑った後、事の次第を説明してくれた。
「此度の皇后選びは、5大家の当主らが紫釉陛下を傀儡にして己が権力を振るおうとしたことがきっかけだった。許嫁を決めておくことは私も反対しないが、李家の当主が『陛下に友人を作ってはどうか』と進言してきたことを発端に、いつしか皇后選びを行うことになっていた。私が政務で身動きが取れないうちに、彼らが勝手に事を進めたのは非常に腹立たしくてな」
「まぁ、そんなことが」
私は目を丸くする。友人選びが、いつのまにか皇后選びに……なんて、まるでだまし討ちだ。
蒼蓮様が怒るのも無理はない。
「各家の当主には、明日にも『皇后選定は保留だ』と書簡を送る。ははっ、各々の弱みをちらつかせれば、一斉に黙るだろう」
怖い。笑顔なのに、ものすごく黒いオーラを感じる。
顔を引き攣らせていると、蒼蓮様は思い出したように私を見て言った。
「だが、皇后選びで集めた娘の中にそなたがいたのは僥倖だった。17だというから、どんな強欲な娘が来たのかと見に行ってみれば、子の扱いがうまくて驚いた」
どうやら私自身が皇后になりたがっていると、そんな風に思われていたらしい。
けれど、隣室から私の様子を見て、父が無理に推挙したのだとすぐにわかったと言う。
「昨日はわざと怒らせるような発言をした。理屈の通じぬ者を相手にしても取り乱さない冷静さや、自ら頼みごとができるかどうかを判断したかったのだ。良家の娘は偉そうな者が多いからな」
あぁ、なるほど。
私があそこで怒ってしまえば、世話係の話はなかったということか。
兄は今初めて昨日の話を聞き、驚きすぎて遠い目になっている。
そんな兄には構わず、蒼蓮様は笑顔で言った。
「紫釉陛下は、父を亡くし、母に去られ、乳母までが病で療養をすることになり気落ちしておられる。でも昨日、そなたの二胡を聴いたときは目を輝かせておられた。もとより、書物や絵が好きな物静かな方だから、そなたが二胡を弾き、そばに侍り慰めてやってくれたらと思う」
その言葉や瞳からは、叔父として心から幼い皇帝のことを想う気持ちが感じられた。
ご自分の宮に女人を連れ込む女好き、という噂とは違って優しそうな印象を受ける。
話に聞き入り、じっと見つめていると彼は「ん?」と小さく首を傾げる。
「何か気になるか?」
未だ意識を飛ばしている兄をちらりと見てから、私は口を開く。
「えーっと、何といいますか……お噂とは違いますね」
「噂?あぁ、手あたり次第、女人を囲う?」
彼は顔色一つ変えず、自身のよくない噂を笑い飛ばした。
そして次の瞬間、私との距離をずいっと詰めて顔を近づける。
「そなたもこっちの方がよいか?女人を弄ぶ男の方が」
妖艶な微笑みを浮かべる蒼蓮様にこんなことをされると、勘違いする女性がいるのもわかる。
でも私は、この美しい人に愛されたいとは思わないし、お近づきになりたいとも思わない。
両手をそっと顔の前に上げ、これ以上近づかれないように拒絶の意を示す。
「お戯れを。私はこのようなことは求めておりません」
すると、彼はあっさりと姿勢を戻し、口角を上げた。
「それはありがたい。女も男も、わが身を欲する者が多くてかなわぬからな」
女も男も、というところに妙に納得してしまう。
この人の美貌は、さぞ多くの者を惑わせるんだろう。執政室が人手不足なのは、もしかしてそれが原因ではないかと想像させられた。