定期的に話題になる小説お作法なるもの
物書きなる生き物は、書き方にポリシーがあるもので。
これこそが正しい書き方!
というものを持っている生き物です。
人称に始まり頭の中で思い浮かべた言葉をどう書き表すのかセリフに句点を付けるのか、etc……
いろいろあるのねーという感じです(;・∀・)
この顔文字も、最近だとセリフとかにつくようにもなりました。
時代は変わりますね。
さてこのお作法というもの。
そもそもお作法というものに正解はないのだと思っている蛮族です、わたし。
徒手空拳サイコー、やっておしまいあらほらさっさー、な蛮族です。
石ヤリ標準装備ですよ、わたし。
それぞれが主張するお作法というのは、たぶんですが、その人が今まで読んできた著作に影響されている面が強いのだと思ってます。
そのうえで、その人なりの解釈が入った末に導き出されたものなんだろうな、と思うわけです。
まぁ、蛮族であるわたしにも、これぞという書き方があります。
これこれはこう書いた方がいーんじゃね?
という程度ではありますが。
そんなんで、物書きの数だけお作法があるんだと思ってます。
定期的に繰り返されるお作法議論とは、自らが構築してきたお作法をかざすことなんだろうな、と、対岸でおせんべいをかじりながら、わたしは思うのです。
せんべいとあうのはお茶なわけで、そろそろ新茶の季節なんですが、今年はコロナのせいで手摘みができずに機械で、という風になってるようです。もしくは極少人数での摘み取りとか。
人手不足とかもあるでしょうし、今後は、機械オンリーになるところもあるかも、しれませんね。
それにつけても新茶美味しい。
おっと話題がズレました。
お前は正義をかざさないのか?
ですか?
いやー、かざすほどの正義なんて持っておりませんで(;・∀・)ムーリー
答えの出ない議論というのは、主張するだけで解決もしない割にお互いに嫌な思いをするだけじゃないですかー。
しかも、時代が変わるのと同じく、書き方にも流行り廃りがあって、昔は良かったけど今は……なものだってあるのが物書きの世界なのでー。
今日導き出した答えが、明日も通用するかなんて、誰もわからないんですよー。
ぶっちゃけ、どうでもよくね?
と。
ツイッターでも、本当に定期的に見かけて、それで悩んでる物書きさんがいたりするので、まー、主張したいという謎の正義感がむくむくと鎌首を上げてくるのでしょうけども、自分の正義をおしつけるのは、双方にとってめっちゃ不毛だと思うんですよ。
その作法を直したとして、読者は増えるの?
空前絶後に面白くなるの?
書籍化できるの?
という問いに答えてくれるものなのでしょうか?
海底を漂う野良作家として、正義を振りかざす方々に聞いてみたいのですよ。
あなたのその正義に、いかほどの価値があるのか。