「庶民」について
以前、友人が「庶民」についての考察をブログでやっていた。それがとてもおもしろかったのだが、そこで「茶化す」というのは庶民にとっての打ち出の小槌だ、という事を言っていて、大変おもしろかった。
実際、今は「庶民」が支配している時代だ。この「庶民」というのはかなりな程度、侮蔑的に使っていると先に言っておく。もし侮蔑的に使わないのであれば、私は「庶民」に対して公平を欠いているという事になるだろう。
ちなみに庶民というのは、知性が欠けている人の事を言っているので、いくら金があろうが偉かろうが庶民は庶民である。今は庶民が支配した時代なので偉くて金のある庶民はたくさんいる。その逆にいくら落ちぶれていようが、知性のある人間は庶民とは呼ばない。
さて、この庶民とはどんな存在か。最近、外でテレビを見る機会が若干あるので、テレビを見るのだが、テレビというのは正に庶民的なものという気がする。
テレビ番組で見ていて気味が悪いのは、大抵、VTRが流れて、それをスタジオの芸能人がなんやかんや言うというスタイルである。ちなみに、最近よく出ているコメンテーターという人達もよくわからない。政治に詳しいのか、経済に詳しいのか、医療に詳しいのか、なんだかよくわからないがとにかく「芸能人」という人達が出てきてああだこうだと言う。
モニターの向こうではVTRが流れていて、そこでいろいろな何かが行われている。一方、それとは隔離された安全な場所で、なんだかよくわからないが「有名人」である人達が集まってああだこうだと言う。
この絶えずメタな視線に立って、グダグダと言うスタイルは完全に庶民的なものだと感じる。ニコニコ動画の「コメント」もまさにそういうものだろう。そこにあるのは常にメタな場所に立ち、自分は安全な場所にいて、自分達の絶対の安定と正当さは揺るがないという事情の上で、情緒的な共感を求めたり、愚痴を言ってみたりするというスタイルである。
庶民的な人と話して感じるのは「会話不能」という事である。彼らは同じ場に立って会話をする、対等に会話をするというのがそもそもできない。あるのは多数派としての自分達への信頼、常識の無条件的肯定、それに反するものに対してはレッテルを貼って、自分達の外側に送り出し、馬鹿にするという構造である。
庶民は人の話を聞いていない。相手の話を聞く、という事がそもそもない。これは驚くべき事だったが、多くの人がそうだったので、事実と認めざるを得ない。彼らは最初から答えを出しているので、相手の話を粘り強く聞く事ができない。これはネットに広まるデマや、ユーチューブのコメント欄などを見れば確認できる。彼らは理性的な会話を求めていない。求めているのは、ただ情緒的共感であり、自分達が多数者であり、正しいという絶対の確信の元、外部のものをあざ笑って互いに自分達の正当さを確認する事にある。
テレビの話に戻ると、スタジオにいる芸能人達は常に一歩引いた立場で「w」という感じでVTRを見ている。これと同じで、庶民は一歩引いた、半分馬鹿にしているか、ただ楽しみたいというニヤついた態度でテレビを見ている。彼らはテレビの悪口を言う。あるいはユーチューブの問題点をも口に出す。そうして彼らは(別に本気で見ているわけではないよ)という姿勢を打ち出す。だが、彼らは決してテレビを見ないようにしたり、ネットを見ないようにしたりはしない。
彼らはいわゆるアイロニカルな没入をしている。つまらないものをつまらないと知りつつ楽しんでいる、という態度を取って、自分はつまらなくないというポーズを取っているのだが、その実は当然つまらない人でしかないわけだ。彼らにはそれ以外はないのだから。
今、アイロニカルな没入と言ったが、庶民は何かに本気になった事は一度もない。ここにおいて庶民と全く話が合わなかった理由がようやく合点できた。
今でもそういう意見の方が強いが、要するに何に対しても真剣になれない彼らにとっては、芸術というものは存在しない。彼らには娯楽しか存在しない。教養も存在しない。
ある作品を巡って二人の人間が真摯に議論しているとする。その作品を認めるか否かは、その二人にとって自分の人生の方向や価値と連関する重大な問題と感じられている。だからこそ議論しているわけだが、庶民はこういう二人は「下品な争い」をしていると見る。つまり「どうしてそんな事で大の大人が争っているのか。みっともない」というわけである。すべてが娯楽であり、すべてに対してメタな立場に立ち、何に対しても真剣になれなかった彼らはこうして真剣に議論する人をあざ笑う。
ただ庶民は社会学で言う「他人志向」な存在なので、全体が従っている論理にはたやすく従う。しかしそれに対して「なぜ?」とか「それは何か?」とは考えない。知性のメスを入れない。考えない、というのもまた庶民の特徴だろう。そうしてこういう事について真剣に考える人がいればまたあざ笑う。
庶民というのは要するにこういう存在であって、またそういう人達が支配したのがこの時代・世界という事だろう。だからこそ「米津玄師かっこいい! 天才!」という人達が大勢いても、彼らは本当の天才とか、本当のかっこよさを掘り下げる事は決して無い。
彼らは掘り下げず、考えない。また、自己に対する対象化の視点が欠いている為に、全体から離れられない。それゆえ、一人の人間として感じるべき寂寥も孤独もなく、個がなく、ただぼんやりとしている。それが庶民であり、今はエリートとか、少数の優れているとされている人も庶民に媚びる存在になっている。
ここまでをまとめると、庶民というのは全体に溶けているが故に個ではない存在と特定できるだろう。そして彼らは個であるものが現れるとあざ笑う。自分達の辞書にないからだ。彼らは「意味がわからない」とよく言う。意味がわかるものは、情緒的共感で内側に包摂する。彼らにはそうした力しかない。異質なものと葛藤して何かを生み出す力がない。彼らは同一のものしか理解できない。
少しでも「変」に見えるものがあれば「笑」と馬鹿にする。彼らはそうして内側に閉じこもり続けるが、それは同一者達の多数決によって肯定されていると考える。(この多数者の賛同を、自分とは違う「他者」の同意だと誤認する。彼らに同意するのは同一者でしかないが)
私は想像してみるのだが、最初、海から陸に上がろうとした生物は非常な苦しみの中、波打ち際で長い時を過ごしただろう。その時、海の中にいた生物は、地上に出ようとした生物をあざ笑ったに違いない。「そんな事して何になる。地上に出てどうなる。そんなものは意味がない…」と。
彼らはそのまま海中に留まり続けた。彼らは今でもあざ笑い続けているのかも知れない。彼らの視界には地上に出た生物はもはや見えない。そこで人間という種が発生して、自らの中にもうひとつの自己ーー意識というものを発生させたという事も知らない。庶民とは、海の中に留まり続ける生物に似ている。我々はいずれは彼らをあざ笑う権利を正当に付与されるだろう。しかしその日が来るまで我々は彼らに嘲笑われる運命を甘受しなければならないだろう。