1.オリンピックの日
”さあ、冬のオリンピックもこの女子フィギュアスケートが最後の競技。”
”最終滑走を終えた日本の高梨マリがキス&クライで得点を待っています。”
渾身の演技を見せた彼女の得点に期待して、会場では自然と観客たちの手拍子が起こっていた。
”高梨はショートプログラムで6位と出遅れましたが、シーズンベストを更新すればメダル圏内に割って入ることが出来ます。”
”そうですね!何と言ってもトリプルアクセルを決めたのは彼女だけですから、信じていいと思います!”
テレビの実況と解説も会場の熱気に負けじと興奮気味にまくしたてた。
― スコアズ、プリーズ。
得点発表を知らせるアナウンスに、静寂がリンクを一瞬にして支配した。
”出ました148.25! 五輪で自己ベスト更新です! 小島香奈枝は銀メダル獲得!”
”やったー!! かなえちゃーん、おめでとー!!”
解説者は仕事であることを忘れて放送席から身を乗り出し、結んだ長い黒髪に顔を隠しながら涙を流す選手に向かって叫び声をあげていた。
「すごいわねぇ。男子は金銀独占で、女子もメダルを取ったわよ。」
リビングルームでは、夫妻と1人の娘がテレビ画面を見つめながら言葉を交わしている。
「お母さんはそう言うけど、高梨さんは金メダル取るはずだったんだから。」
ほくほく顔の両親とは対照的に、娘は少し不満そうだ。
「あら、銀だって立派じゃないの。昨日は転んじゃったのによく気持ちを立て直したわ。」
「それは、そうだけど……。」
― ピロリン。
テレビからチャイムのような音が鳴った。
「おお、ニュース速報だぞ。」
母娘のやりとりに若干の居心地の悪さを感じていた父親は、大げさに反応した。
”五輪女子フィギュア 小島香奈枝 銀メダル獲得”
「がはは、今見てるのになあ。みんな知ってるよ。」
おどける父親の姿に2人もクスっと笑う。
「あっ、高梨さんも笑ってる。」
これまであふれる涙が止まらなかった高梨香奈枝も、彼女以上に号泣する名物インタビュアーのおかしさに笑顔がこぼれていた。
「玲央奈は本当にマリちゃんが好きなのね。ずっとミーチューブでマリちゃんの動画を見てるでしょう。」
「えー、なんでお母さんが知ってるの!?」
「ふふふ。お母さんは何でも知ってるのよ。」
「ちょっと怖いんですけど!それにしても綺麗だったなあ、今日の小島さん。小島さんのスケートはなんか見ていて気持ちいいの。ひと蹴りでスーっと滑って、一人だけ風みたい。ほら、テレビ見て。片足だけでリンクの端から端まで滑ってる。途中でスピードが落ちないの。それにね・・・」
「お、もう8時になるぞ。玲央奈もこれ以上は後にして学校へ行きなさい。」
どんどん熱を帯びる玲央奈をさえぎって、父親が言った。
「え、ウソ! もうこんな時間!? やばい、遅刻遅刻!」
玲央奈は画面の中の高梨マリをもう一度確認してから、家を飛び出した。
七沢玲央奈は14歳の高校1年生である。
耳が隠れる程度のショートヘアを明るく染めて、見る人に一見して活発な印象を与える。
スポーツは好きだが、部活には入らなかった。
父親は七沢仁志。会社員として働きながら、毎日の野球中継を楽しみにしている。
母親は七沢裕子。元陸上競技の選手で、しっかり者で優しい心の持ち主だ。
3人暮らしの幸せな家庭。ぜい沢はできないけれど、何不自由ない生活―。
玲央奈が教室に駆け込むと、授業開始時刻直前にもかかわらず、クラスメイト達はてんでばらばらにたわいもない話をしていた。
「あ、玲央奈キタ。おはよー。」
いつも快活で人懐っこい夏樹は、バレーボール部で日々汗を流している。
「フィギュア見てたんでしょ。今日は来ないかと思った。」
黒く長い髪が印象的な真紀は、玲央奈と同じいわゆる帰宅部で幼馴染だ。
「氷山透マジかっこいい!完全に映画に出てくる王子様。ヤバイ。」
夏樹が高揚して言い立てた。
「私は荒野一馬派。銀メダルだけど芸術性は一番だと思う。」
淡々と真紀も続く。
「玲央奈はどっち?」
夏美が興味深げにイスに腰かけた玲央奈の顔を覗き込む。
「えー。私は・・・どっちも好きだよ。」
「なにそれつまんなーい。」
「玲央奈は高梨マリにしか興味ないのよ。」
「先生来たぞ!」
誰かが叫び、生徒たちはバタバタと自分の席に戻っていった。