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わたつみの魔王  作者: 山谷 宗
第1章 初陣
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2.激浪

伊23の航海は時化に揉まれる以外は順調に進んでいた。


ただし大きく揺れる艦内の環境はとても快適とは言い難いものがあり、特に潜水学校を卒業して間もない乗組員にとっては厳しい試練となっていた。



壁と言わず天井と言わず張り巡らされた配管。そこから突き出すバルブや通路両脇の機械類。わずかな隙間にまで詰め込まれた食糧。これらに加えて窓もなく狭い艦内空間がもたらす圧迫感。


そして100人近い男たちの発する体臭、煙草と食い物の臭い。そこへ機械油と艦内にはびこるカビの臭いに湿度が100パーセント近い重い空気が加わり、さらに便所から微かに匂うアンモニア臭まで混ざって艦内は異様な空気と言うか臭気に包まれている。


「空気がメスで切れるんじゃないかと思った」とは軍医長の弁である。



初めて潜水艦に乗る者は大体この空気にやられて一週間は飯が喉を通らなくなる。古株の下士官ですら休暇を終えて帰艦した時には腹にぐっと力を入れてからハッチを潜るという。ベテランですらこうなってしまうほどの異様な空気なのだ。


だから潜水艦乗りにとって新鮮な空気は最高のご馳走なので、乗組員はあらゆる機会を通じて外の空気を吸おうとする。



また煙草を吸う者にとっても潜水艦は厳しい環境である。水上艦ならば「煙草盆開ケ」の号令と共に上甲板に置かれた煙草盆を囲んで煙草を吸うことができる。しかし航海中の潜水艦はこれも難しい。


運が良ければ非直の者が艦橋に上がって交代で一服つけることができる。しかしこれも必ずできるわけではなく、大体が艦橋に通じるハッチの下で煙をたてるしかない。そして潜航中であれば貴重な空気が汚れるから喫煙などできるわけがない。



船酔いしやすい者にとっても潜水艦は厳しい。水上艦なら外を遠くを眺めるなりして気を紛らわせることができるが、潜水艦ではそうはいかない。潜航すれば揺れは収まるが、永遠に潜っていられるわけではない。むしろ航海のほとんどが水上航行であるから、酔いやすい者には本当に厳しい環境だと言える。



一人当たりの居住空間は畳一枚分もない。一人一人にベッドは割当てられているが、蚕棚形式でベッドとベッドの間は50センチ程度しかない。そのため、ベッドに入るのにも出るのにも慣れが必要だ。



フネにとって真水は貴重品だが、潜水艦にとっては貴重品どころの話ではない。航海中の真水の使用は厳しく制限され、風呂などは夢のまた夢。水上艦のような海水風呂すらなく、乗組員は濡らした手拭いで体を拭くのが精一杯の有様である。


だから航海が終わりに近づくころになると、体を擦ればぼろぼろと垢の塊が剥がれるようになる。また艦内の異臭も身体中に染み込んでしまうため、上陸すればその臭いですぐに潜水艦乗りとわかってしまう。


潜水艦乗りは上陸が許されたらまずは風呂に入る。風呂で根気強く垢と汚れを落としたら、次に汚れきった作業服を洗濯する。作業服を洗えば桶の水はすぐに真っ黒になる。これを水を換えながら根気強く繰り返し、水が濁らなくなったらようやく人心地つくのだ。



こんな環境だから潜水艦乗りたちは士官も下士官も兵も独特の連帯感で結ばれている。駆逐艦等の小艦艇も上下の結び付きは強いが、潜水艦乗りのそれは遥かに上をゆく。


潜水艦の場合、誰もが等しく不自由に耐え、窮屈な艦内でひしめき合うようにしているため、乗組員同士の距離の近さは物理的にも精神的にも水上艦の比ではない。


そして何より、敵に沈められれば、ほぼ確実に艦長以下全員が艦を枕に死ぬことになる。この生きるも一緒、死ぬのも一緒という事実が乗組員同士を固い絆で結びつけるのだ。




艦は日付変更線を越えたが、時化はますます強くなり、それに伴って艦の揺れも激しくなっていった。気圧が急激に下がっていることから、強い低気圧が接近しているようだ。



「ちょっとこれは良くないな」


発令所で板垣は唸った。


艦の揺れは何かに掴まらないと体を持っていかれるほどになっていた。すでに物品の固定を命じてはいたが、もう一度徹底させる必要があると板垣は考えた。


「自分は魚雷の様子を確認してきます」


板垣の考えを悟ったのか、武田は発射菅室に向かった。



「低気圧が通過するまで潜航しますか」


航海長の原中尉が尋ねると板垣は目を閉じて


「そうだな。こればかりはどうにもならん」


と呻くように答えた。


「潜航前に上の様子を見てくる」


原にそう言い残すと、板垣はその肥えた体からは想像できない身軽さでラッタルを上っていった。



艦橋上の見張員たちは揺れに耐えるためにロープで体を固定しながら見張りを行っていた。


艦はひっきりなしにピッチングとローリングを繰り返しており、浮遊感と下降感が代わる代わる押し寄せてくる。


「ご苦労さん。潜航するから全員降りろ」


板垣が命じると見張員たちは素早くロープを解いて次々にハッチを降りていった。


最後の見張員がハッチを降りた時、何気なく艦首方向に目をやった板垣が見たものは突然立ち上がった三角波だった。




何の前触れもなく艦首が激しく下から突き上げられた。不意を衝かれた水雷科員達が一斉に艦尾方向に転がっていった。後方の兵員室や発令所からも悲鳴と共に固定が不十分だった物が吹き飛んで床に叩きつけられる音が聞こえる。


そして次の瞬間、今度はまるで急降下爆撃機のように艦首が急角度で下がって海面に叩きつけられた。


最初の衝撃には配管に掴まることでなんとか耐えた武田も、これには耐えられずに艦首方向に転がり落ちた。


幸い、咄嗟に頭を庇ったため怪我を負うことはなかった。


また魚雷はしっかりと固縛してあったので架台から転がり落ちるようなことはなかった。


水雷科員達も上手く受け身が取れたのか負傷も大したことはなさそうで武田はほっと胸を撫で下ろした。



しかし発令所で騒ぎが起こっているのに気づいたため、掌水雷長に後を任せて急いで戻ろうとした時のことだった。


「先任はいますか!」


砲術長の秋山少尉が血相を変えて発射管室に飛び込んできた。


「艦長が負傷されました!意識がありません!」

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