3.海軍技術開発局
海軍技術本部の前身である技術開発局の成立にはロンドン軍縮会議が多大な影響を与えたことが多くの先行研究から明らかにされている。
巡洋艦等補助艦の保有量と性能の制限を目的としたこの会議は、ワシントン条約で主力艦の保有量を英米の6割に制限された日本海軍にとって到底許容し得ないものであり、特に軍令部は激しく反対した。
結局会議は妥結し、補助艦の保有比率を対英米の6割9分7厘5毛(69.75%)という当初目標とした対英米7割を僅か2厘5毛下回る内容で条約が調印され、海軍省ではほぼ目標を達成したものと考えられていた。
しかし野党立憲政友会の鳩山一郎らが内閣攻撃のために「統帥権干犯問題」を提起したことで一気に風向きが変わった。元々条約に不満だった軍令部や民間右翼もこれに同調して濱口首相暗殺の原因にもなり、政党政治衰退の一因となった。
鳩山は後にこの件を後悔したというが、目先の政争のために国家の行く末を誤らせた彼の責任は重いと言わざるを得ない。
さてこのロンドン条約の結果、日本海軍は月月火水木金金と称される激しい訓練を行うようになった。このような激しい訓練は、練度の向上をもたらす一方で艦艇の衝突事故が多発する原因ともなった。
また艦艇保有量の制限は行き過ぎた個艦優越主義を生み出し、新造艦への過大な性能要求が友鶴事件、第4艦隊事件を引き起こすことになった。
しかしロンドン条約が日本海軍にもたらしたのは負の結果ばかりではない。
条約締結に強硬に反対した軍令部次長の末次信正は、「保有量が制限されたなら個艦の戦闘力を高めるしかない。そのためには、砲の威力や門数の増大に努めるだけではなく、それを下支えする技術の開発に重点を置くべきだ。技術は国の底力であり、今こそ国の底力を上げるべき時だ。新技術の開発は未来の巡洋艦1個戦隊にも勝る」と軍令部長や海軍大臣に上申し艦政本部の外局として技術開発局を設立させた。
この技術開発局の特異な点は、技術士官だけでなく官民問わず広く人材を集めたことにあった。大学や企業から気鋭の若手研究者を集めて互いに切磋琢磨させ、末次の政治力と影響力をもって用意した比較的潤沢な予算を元手に研究を行わせた。
また大学と共同研究を行って人的な交流を図ったり、優秀な学生のスカウトに努める等、現代的な感覚で運営されていたことも特徴である。
しかし設立後間もなく末次が海軍内部の権力闘争で失脚したため、技術開発局の予算は縮小され、集められた研究者たちは大半が元の職場に戻っていった。だがそれまで技術開発局で行われていた研究は、元の職場に戻った彼らの手で細々と続けられることになった。
東郷元帥の死は艦隊派の中の末次派と言うべき一派が盛り返す契機になった。これに危機感を抱いた東郷派ではもう1人の元帥である伏見宮博恭王を押し立ててこの動きを抑えようとした。
しかしルーツという点では末次派も東郷派と同じであり、技術か精神力かという言わば各論に目をつぶれば大方針にさほどの違いはなかった。そのため陸軍のような皇道派と統制派のような血で血を洗うような凄惨な抗争にはならなかった(尤も「ペンで殺され」て左遷されたり予備役編入になった者は何人もいたが)。
一方、飛行機に注目する者が多かった条約派ではあったが、末次派とは新技術の開発の面で共同歩調とることが多く、意外にも関係は悪くなかった。
このような複雑怪奇極まりない情勢の海軍内部を巧みに泳いだのが政治に疎いと思われてきた技術士官たちだった。彼らは派閥対立の隙をついて派閥間を渡り歩き、技術開発の重要性を売り込むことに成功した。
その結果、1939年(昭和14年)に技術開発局の復興を迎えることができたのだ。
もっとも復興までの数年間の空白は大きく、組織運営が完全に軌道に乗る前に技術開発局は海軍技術本部として発展的に解消されることになるのである。
三好義久(2016)「海軍技術本部―技術立国日本の原点」 東京図書出版.