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わたつみの魔王  作者: 山谷 宗
序章
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2.日本潜水艦の父 末次信正

末次信正は実に評価が難しい人物だとされている。


井上成美は末次を「四等大将」と酷評し、末次のワシントン軍縮会議時やその後の行動から井上の意見に同意する者は多い。その反面、高木惣吉のように末次を戦術家として高く評価する者もいて、棺を蓋いて事定まらず、の典型例であるともいえる。


国際協調に反発する頑迷な艦隊派の領袖としての顔と新技術の開発と導入に熱心に努めた日本潜水艦の父としての顔。この両極端にも見える末次の姿が彼の評価を難しいものにしている原因の一つであるといえよう。


しかし彼が日本海軍の主流たる砲術士官であることに着目すると 意外にもこの2つの顔が密接な関係にあることがわかる。



日本海海戦以来帝国海軍の主流となった砲術畑を歩いていた末次に転機が訪れたのは第1次世界大戦の勃発だった。彼は観戦武官として英国に赴任し、その頃海上で猛威を振るっていた潜水艦に出会ったのだ。


単艦で瞬く間に装甲巡洋艦3隻を沈め、商船を次々に海の藻屑にしていくドイツ潜水艦の姿に大きな衝撃を受けたと彼は率直に日記に記している。

この当時はまだ潜水艦への有効な対抗手段がなかったため、潜水艦は敵の手が届かない海中から一方的に攻撃をすることができた。

この情景に末次は敵の弾が届かない距離から一方的に敵を痛撃する砲術士官の夢を重ねたのかもしれない。


帰国後の彼は盛んに潜水艦整備の必要性を説いたが、周囲の反応は芳しいものではなかった。新しい物好きの変り者、欧州かぶれというのが当時の彼に対する評価だったようだ。

しかしドイツ潜水艦による損害が急上昇し、英国の困窮ぶりが知れわたると、島村速雄軍令部長は末次にドイツ潜水艦の戦術や対抗策について書簡で問い合わせている。


第1次世界大戦後のヴェルサイユ条約によりドイツは潜水艦の研究、建造、保有を禁じられ、技術者の多くが職を失った。世界最先端の潜水艦技術を獲得する好機と判断した海軍上層部は川崎造船所社長の松方幸次郎に依頼して、元ゲルマニア造船所技師のハンス・テッヘル他数名の潜水艦関係の技術者や元艦長の招聘に成功した。

末次がこの件に直接関わっていたか否かは判然としないが、彼が熱心に部内に潜水艦の有用性と可能性を説いたことと無縁ではあるまい。


彼らの指導の下に完成したのが伊号第1潜水艦であり、この艦が日本潜水艦のタイプシップとなったのである。



末次と潜水艦との関係をさらに深める契機になったのはワシントン海軍軍縮会議だった。


この会議の結果、日本は主力艦比率を英米の6割に抑えられることになった。会議の随員だった末次はこれに反対、全権の加藤友三郎と激しく衝突したが条約は締結された。


これに多くの海軍士官たちは悲憤慷慨したが、末次は欧州で小さな潜水艦がよく大艦を屠った姿を思い出し、そこに日本海軍の未来を見出した。

また技術革新により手持ちの戦力を強化することや日本の基礎技術力の底上げにも熱心であり、さらに多くの技術者をドイツから招こうとしていたようだ。


末次は大正12年(1923年)に第1潜水戦隊司令官に就任すると猛訓練を課して戦隊の練度の向上に努めた。その結果、演習で戦艦2隻の撃沈判定を得る程にまで練度が向上し、海軍内部での潜水艦の評価が高まった。また末次も自身が立案した対米漸減作戦の実現に自信を深めた。


太平洋を押し渡ってくる米主力艦隊に対して優秀な潜水艦が反復攻撃を加えて主力艦の減殺に努める。そして消耗した米艦隊を我が艦隊の全力をもって叩いて撃滅する。これが漸減作戦の骨子であり日本海海戦の再来を願う砲術屋の夢だった。


そんな末次だから補助艦艇の性能と保有量の制限を目的としたロンドン海軍軍縮条約に強硬に反対したのは当然のことであった。潜水艦の性能と保有量に制限が加えられれば、彼が血道を挙げて練り上げた対米戦略の根幹が揺らぐことになりかねなかったからである。


しかしそのために野党政治家と結んで政権攻撃を行わせたことは、艦隊派の中にすら眉をひそめる者が多く、彼の評価を下げる原因の一つとなった。


ワシントン会議以後の行動から末次は対米強硬派と目されていたが、この件で一気に艦隊派の領袖に祭り上げられることになった。

末次を含めた艦隊派は「軍備に制限はあっても訓練に制限はない」という「軍神元帥」の名言に活路を見出してひたすら猛訓練に努めた。


しかし末次はそれだけに留まらず、海軍大臣に上申して艦政本部の外局として技術開発局を設け、官民問わず広く人材を集めて新技術の開発に努めさせた。


このことだけを見ると頑迷な鉄砲屋という末次の印象にそぐわないが、潜水艦の強化や新技術の開発と導入が艦隊決戦を有利に行うための手段だと考えれば、彼の思考と行動は鉄砲屋として一貫していたことがわかる。


しかしこうした彼の姿勢は「武力を形而上に求めざるべからず」とする「軍神元帥」には精神力を軽視する軟弱な態度に見えたらしく、次第に彼は遠ざけられるようになってしまった。

また末次の考えに批判的な士官たちが「軍神元帥」の下に集ってこれを神輿にすることで艦隊派が2つに割れる事態に陥った。


結局末次はロンドン海軍軍縮会議時の「不穏当ナル言動」と軍内部の統制を乱したことを理由に連合艦隊司令長官をわずか1年で更迭されることになった。


彼の悲劇は、彼が最後まで自分を「軍神元帥」に連なる艦隊派の一員だと考えていたのに、他ならぬ「軍神元帥」が彼を裏切り者と見なしていたことである。


彼が更迭された後の海軍はあたかも先祖返りを起こしたかのように砲術偏重、技術軽視の風潮が蔓延していく。


技術開発局自体は存続を許されたもののその体制は大幅に縮小され、技術開発は一時停滞を強いられることになった。


これが打破されるには「軍神元帥」の死を待たなければならない。



泥亀会編(1977)「日本潜水艦興亡史」 東京図書出版.

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