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妖怪白記  作者: 風風風虱
9/12

その九 生霊

[お詫び]

前回予告は『橋姫』でしたが、予定を変更して『生霊』とさせていただきました


『橋姫』三部作の第1話であります


結構長いです




 ピチョン

  ピチョン


 繰り返される水の音が東尾(ひがしお)高之(たかゆき)を深い眠りの底から引き上げた。

 雨か、と微睡(まどろ)みの中で高之はぼんやりと思う。

 ピチョン

   ピチョ ピチャン

 雨音(あまおと)とは何かが違う。

 そういえば、夜に見たニュースでは明日も快晴だと言っていた。

 なら明日も楽しめるね、と夕食の時、美桜(みお)と二人で笑いあったの思い出した。妙な違和感が高之に覚醒の階段を無理矢理駆け上らせる。

 目を開いた。

 そこはベッドの中だった。

 一瞬、どこなのか混乱したが意識がはっきりしてくるにつれ、ホテルの一室であることを思い出した。横を見ると美桜が静かな寝息をたてていた。ほっとするがなぜか胸騒ぎは止まらない。心臓の鼓動が体の内側から鼓膜を不快に震わせた。

 ピチョン

 水の落ちる音に高ぶった高之の神経が過敏に反応する。音は部屋の中から聞こえてきた。

 やや大きめのワンルームにダブルベッドと小さなソファがあるだけでのホテルの一室。自分と美桜以外に誰もいない。

 上半身を起こせば、出入口のドアまでを一目で見渡せた。

 ドアの手前にトイレ兼バスルームへと繋がるドアがあった。淡い光で床を照らすナイトライトの中、そのドアが少し開いて見えた。

 ピチャン

 音はバスルームから聞こえてくるようだ。蛇口が緩く、水滴が垂れているのかと思い、高之は再び眠ろうとした。しかし、不規則に響く水の音はしつこく耳にまとわりつき眠りを妨げる。少し時間、眠ろうと頑張ってみたがつい起き上がるとバスルームへ向かった。

 薄暗闇の中、手探りで洗面所の蛇口レバーを締めてみた。が、レバーは少しも動かない。

 水漏れは蛇口ではなかった。

 ではどこから?と怪訝に思うも、またピチョリと音がした。

 高之は橫へ、ユニットバスへと目を向けた。

 ならばシャワーから漏れでているのかと思ったのだ。

 薄暗いバスルームでカーテンがナイトライトのオレンジ色の光をぼんやり反射して、出来の悪いホラー映画に出てくる幽霊のように浮き上がって見えた。

 カーテンはしっかり閉められ、先の視界を遮っている。

 再び違和感に襲われた。

 バスルームを最後に使ったのは自分だ。その時、カーテンは開けて出たはずだ、と。

 思い違いかと首をかしげながらカーテンへと伸ばした手が途中で固まる。

「う……ううう」

 うめき声が聞こえた。

 いや、泣き声か。

 ひどく微かであったが押し殺したような低い声が確かに聞こえた。女の声のようだった。

「うううう、うううぁあ」 

 カーテンの先から聞こえてくる。高之のこめかみがぞわりと波打った。

「誰かいるのか?」

 言った本人がすかさず、だれが?と突っ込みたくなるような馬鹿げた問いだった。

 俺は何を言っているんだ、と高之は思う。

 真夜中のホテルの一室に自分たち以外に誰がいると言うのだ。しかも、バスルームに。

 当然のように返事は返ってこなかった。

 だが、カーテンが風もないのにゆらゆらと揺れていた。まるで誰かが中でシャワーを浴びているかのようだ。開けるべきか開けずにおくべきか、高之は悩んだ。だが、結局迷いを絶ち切ると手を伸ばしカーテンを掴んだ。

 そして、一気にカーテンを開く。

 誰もいない。

 シャワーから水滴が一滴(ひとしずく)垂れ、底に溜まった水面に落ちた。ピチャと湿った音がバスルームに響いた。

 高之は大きく息を吐いた。

 緊張で息をするのも忘れていた。

「まったく……」

 高之は小さな舌打ちをする。

 バスの底には数センチほど水が溜まっていた。鎖を引っ張ると地鳴りのような音をたてながら水が排水口に逃げていった。

 大方、自分が寝た後に美桜が使用したのだろう。栓を抜き忘れ、シャワーも良く止めなかったのだ。明日、だらしがないと文句のひとつも言ってやろう。そう思った。

 急にぶり返してきた眠気に欠伸を噛み殺し、ベッドに戻ろうと振り返ると、そこに居た。

 うつ向いた黒髪の女が振り返ったすぐ目の前に立っていた。

 長い髪は雨にでも打たれていたようにぐっしょりと濡れ、ほつれていた。

 女は両の手を高之の胸に置き、しなだれかかってきた。その手は氷のように冷い。

「ウ、ラ……メシィ」

 女は絞り出すように呟き、顔をあげた。女の目はこぼれ出てきそうなほどに見開かれていた。それでいて焦点は定まっていない。高之を射すくめるような、どこも見ていないような、見るものを狂気へと(いざな)う不穏な気配を放っていた。

 高之は反射的に後ずさった。とたんに足がバスタブに引っ掛かりバランスを崩す。受け身もとれずに尻餅をつき、バスルームの壁に(したた)かに頭と背中をうちつけた。握ったままのカーテンがひっぱられ、体重を支えきれず、ブチブチと音をたててレールから脱落する。カーテンはばさりと高之に覆い被さり、視界を奪った。

「うわ、うわ、うわ」

 パニックに陥った高之は子供のように大声を上げ、手足をバタバタと動かした。バスタブに溜まっていた水がバシャバシャと跳ねる。

 と、カーテン越しに視界が明るくなった。

「どうしたの?」

 女の声がした。聞きなれた声。

 頭にかかったカーテンを取り除かれた。

 そこには電灯のスイッチに手をかけたまま、眠そうな目で高之を見下ろしている美桜が居た。

「えっ?」

 高之はバスルームを見回した。長い髪の女の姿はどこにもなかった。



 マンションの前で車を止めると、高之は助手席へと顔を向ける。助手席に座っていた山吹(やまぶき)美桜(みお)はシートベルトを外すと手で少しショートボブをなでつけた。そして、高之を見つめるとくいっと顎を上げた。

 キスの要求。

 それはいつもの別れの儀式(セレモニー)だったが、なぜか高之は驚いたようにぎょっと目を見開いた。だが、何事もなかったように唇を重ねてきた。

「ん……」

 体を離した高之を美桜は名残惜しそうに潤んだ瞳で見つめる。

「部屋に寄っていく?」

 美桜の誘いに高之は首を橫に振った。

「帰らないとまずい」

 そう言う高之の目が少し泳いでいるのが彼女の胸をざわつかせた。

 美桜は手を高之の後頭部へ回すと指でなぞる。

「奥さんが怖いの?」

「そんなことはないよ」

 高之の視線がまた泳いだ。美桜はクスクスと面白そうに笑いだした。

「何がおかしいんだ?」

「夜中のことを思い出したの。

お風呂場で滑って転んで……あれで入院でもしたら大変だったって。

それで、病院で私と奥さんが鉢合わせしたらすごい修羅場になるんだろうな、と想像しちゃった。でも、それならそれで話が早いかなとも思ったり――」

「やめてくれ。そんな話はしないでくれ」

 美桜の顔からすっと表情が消える。

「私たちのこといつ奥さんに話してくれるの?」

「……タイミングを測っている。近いうちにきっと――」

「そう。分かった。今日はそう言うことにしておくわ。

では、社長さん。本日はお疲れ様でした。今回の広告の草案は今週中に提出いたします」

「おい。あいつには俺からちゃんと話をする。だから早まったことをして事を拗らせないでくれよ」

 少し焦ったような高之に、美桜は軽く口許を歪ませ、答えた。

「分かっておりますわ。

信頼してください。私が優秀なのは社長が一番ご存知でしょう?」

「本当だろうな?」

「はい。他に何かありましたらメールか電話をください。それではお休みなさいませ」

 美桜は薄っぺらい笑みを口元に貼りつけたまま、車から降りた。

「あの、トランク。開けてもらえます?」

 助手席の窓から顔を覗かせ、美桜は言う。念を押そうと口を開きかけた高之は諦めると黙ってトランクオープナーを引いた。


 いつもより少し大きなエンジン音を夜空に響かせながら去るベンツを見送ると美桜はマンションへと入った。

 少しやり過ぎたか、と美桜はエレベーターを待ちながら思った。

 感情的になってしまった。彼にしてみたらとんだ八つ当たりだ。

 苦笑を噛み殺しているとエレベーターが到着して、扉が音もなく開いた。

 無人のエレベーターに乗り込むと6階の(ボタン)を押した。

 イライラの原因は自分にあるのだ。

 美桜はそっと自分の下腹部を触る。今度の旅行でこの話を切り出したかったのだが、結局できなかった。

 そうタイミングが合わなかったのだ。

 なんのことはない。自分も高之もやっていることは同じではないか。そう自嘲気味のため息を漏らした、その時

「……サナイ」

 背後から囁き声がした。

「えっ?」

 思わず声が出た。今このエレベーターには自分一人しか乗っていない。誰がそんな声を発すると言うのだ。空耳かと思った時、再び囁きが聞こえた。

「ユルサナイ」

 今度ははっきり聞こえた。

 エレベーターの空気が一気に低下する。まるで氷点下の雪原に放り出されたような感覚。それと同時に背後に人の気配を感じた。首の裏を微かに撫でるような人の息づかい。そしてなにより背中を抉るような強烈な視線と冷気を感じた。

 じわりと汗が滲む。

 美桜は振り向きたい衝動を懸命に抑えた。振り向いたら終わりだ、という奇妙な確信があった。

「ムケ……コッチ、ムケ」

 耳元で声がした。耳たぶに何かが触れた。思わず上げそうになった悲鳴を噛み殺す。

 振り向いてはダメ。

 声を出してはダメ。

 本能が打ち鳴らす警告音に従い、美桜は目を閉じ懸命に歯を食い縛った。

 耳鳴りがするような静けさと冷気に包まれる中、不意にローズの甘い匂いが美桜の鼻腔をくすぐった。

 香水の香り。

 ああ、女だ。

 後ろに居るのは女だ。と美桜は静かに思った。

 チン、とエレベーターが6階に着いたことを報せる音がした。静かに扉が開く。

 半分も開かない内に美桜はエレベーターを飛び出した。

 トランクがガタンカダンと上下に激しくバウンドしたが構わず力任せに引きずって駆ける。

 ポケットから鍵を取り出す。震える手で何度も失敗しながらもなんとか鍵穴に差し込む。ガチリというロックが外れる音がこれほど頼もしく聞こえたのは初めてだった。気が緩んだせいだろう。ついに恐怖に負け、美桜はエレベーターの方へと顔を向けた。今、この恐怖が単なる思い違いだと確認したかった。

 ぞっとなった。

 もうほとんど閉まりかけたエレベーターの扉の隙間に女が立っているのが見えた。

 静かに、しかし言い知れぬ怨念のこもった目で美桜を睨み付けている。それを見たとたん美桜はドアを開くと部屋に飛び込んだ。トランクが足に絡み付き思い切り転倒した。だが、そんなことに構っていられない。ノブにむしゃぶりつくとサムターンをひねり、ドアガードを叩きつけた。



 どのくらい時間が経過したのか。

 ひょっとしたら数秒しかたっていなかったかもしれない。気がつくと美桜はノブにしがみついたまま荒い息をしていた。

 あれは一体なんだったのだろう。

 考えがまとまらなかった。

 つい数分前の出来事なのにまるで夢かなにかのように思えた。本当に体験したことなのか、それとも夢を見ていたのか、定かではなかった。まるで実感が沸いてこない。美桜は真っ暗な部屋で身じろぎもせずに考えたが、何時間考えても結論は出そうになかった。

 


 家に着いたのは午後11時少し前だった。

 車から降りる前に高之は腕時計でそれを確認した。

「今帰った」

 玄関で声をかけたが反応はなかった。

靖子(やすこ)?」

 妻の名を呼んだがリビングは電灯が落とされ無人であった。次いでキッチンを覗いたが、やはり真っ暗だった。

 留守なのか、とも考えたがすぐに首を橫に振った。今日、自分が帰るのは伝えてある。それを知っていて留守にする女ではないのだ。少し胸騒ぎを感じながら高之は妻の姿を探し求めた。

「靖子、いないのか?」

 バスルームの扉の前で声をかける。中を直接確かめることを躊躇した。深夜のあの不気味な体験が思い出されたからだ。

 高之は扉に耳を当てて音を探る。ありがたいことになんの物音もしなかった。きっといないのだろう。自分に言い聞かせるようにバスルームを後にして、妻の姿を求めて二階へと上がった。

 寝室も真っ暗だった。

 ここにもいない。そう思った時だ。視線を感じて部屋の隅を見た。

 髪の長い女がじっと自分を見つめていた。

 例のバスルームの女?!

 思わず悲鳴を上げそうになったが、辛うじて押し止めた。

「や、靖子なのか?」

 高之は掠れた声で問いただす。その寝巻きには見覚えがあった。靖子のものだ。いつもはきちんと整えられている髪はまるで水死体に絡み付く海草のように乱れ(もつ)れている。落ち窪んだ目の下には大きく黒い隈がくっきりと出ていた。

 三日前。家を出た時からの変貌ぶりに高之は愕然とする。

「一体何があったんだ」

「眠れないの。眠れないのよ」 

 高之の問いに靖子はうわ言のように答えた。

「眠れない?不眠か。薬とか飲んでみたら――」

 高之の言葉に靖子はブルブルと首を橫に振った。

「駄目よ。寝れないのは怖いから。目を閉じるとあなたが出てくるの」

「お、俺が夢に出てくる?それがなにか怖いのか?」

「あなたが知らない女に笑いかけてるの。浜辺を歩いてたり」

 高之の表情が一瞬強ばった。

「なんだって?俺がどうしたって?」

「女の人と食事したり、同じ部屋でその、寝て、寝てたりして。目をつぶって寝ようとすると、そんな情景ばかり浮かんで来て……」

「そんなのただの夢だよ。俺が出張で寂しかったせいかな」

 高之は努めて明るく言うと靖子を抱き締めようとした。しかし、靖子は肩に触れた手を激しく払い除けた。

「触らないで!」

「お、おい。何をむきになっているんだ。ただの夢の話じゃないか。それともなにか、もしかして俺が本当に浮気しているって疑っているのか?」

 高之は妻の表情を探るように見つめた。靖子は洞穴のような黒い瞳でじっと見つめ返してきた。心拍数が急激に高くなったが、それを押し隠し、笑い顔を見せるという難事業を高之はなんとかやりきった。

「冗談だろ。で、今度はその夢の女を知ってるなんて言い出すんじゃないだろうな」

 混ぜ返すような物言いにも靖子はクスリともぜす、拗ねた子供のようにブルブルと(かぶり)をふる。

「明るい色のショートの女よ。見たこともない知らない女よ。でも若いわ。二十代後半ぐらい。左右に星と月のイヤリングした派手な嫌味な女」

 恐ろしいことに美桜の特徴に合致することが多かった。偶然か、それとも……

 高之は飛び出しそうになる心臓を懸命に飲み下した。

 偶然と片付けるのは早計だと高之は自らに警告を発する。妻は興信所でも雇って調べさせて、美桜のことを知っているのではないか。知っていて、鎌をかけているのではないのか、と疑って見た。

 だが、だとしたらなぜそんなまどろっこしいことをするのかが分からない。

 とにかく、落ち着くことだ、と自分に言い聞かせる。変なことを口走って妙なぼろを出さないようにしよう高之は自分に言い聞かせる。取り敢えず余計なことは言わずに黙って妻の出方を見ることにする。

 そんな高之の思いを知ってか知らずか靖子は独り言のように喋り続けた。

「あなたとその女が車に乗ってるのをじっと見ていたの」

「見てたって……どこで?」

「後部座席で」

 高之の首の後ろがざわりと粟毛立った。

 靖子は言葉を続ける。

「あなたとその女が乗っているのを後部座席からずっと見てたわ」

 聞き慣れているはずの妻の声が薄ら寒く聞こえる。

「そのうち車はどこかのマンションに着いて、

あなたと女がキスをして……

それから女は車を降りたの。

私、女についてエレベーターに乗ったわ。

エレベーターが6階について女が降りたから私も降りようとしたんだけどなぜか体が動かなくて。そのうちエレベーターがしまって、気がついたら家の中だった」

 高之はどう反応すれば良いか内心大いに悩んだ。今語られたことはほんの一時間前の高之たちの行動をなぞっていた。勿論、車の後部座席に()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 仮に誰かに自分達の行動を監視されていたとして、その報告を受けて妻が演技をしている可能性について検討してみた。

 結論的には、不可能ではないにしても、監視した者が手早く状況を報告して、それを下地(ベース)にほとんど即興で知らない振りを演じるのはかなり難しいと思えた。そして、やはりなんでそんな手間をかけるのかの理由が思いつかなかった。証拠が欲しいのであれば圧力(プレッシャー)をかけて証言を引き出すより、密会の写真を撮った方がよっぽど証拠としては強いし、手っ取り早い。

 ならば、やはり偶然の産物。高之はそう考えた。

「全部単なる夢だよ。気にせず、まずはゆっくり休もう」

 高之は靖子の両肩を掴むと半ば強引にベッドへとつれていった。少し落ち着いてきたのか、先程のように拒絶されることはなかった。横たえて布団をかけてやった。

「とにかく寝るんだ。寝れないようならブランデーでも温めて持ってこようか?」

 高之の言葉に靖子は無言で首を橫に振った。

「そう。俺は風呂にでも入ってくるよ。

じゃあ、お休み」

 高之は優しい笑みを浮かべながら言った。



 高之は、コップに(おお)ぶりな氷を一つ放り込むとリビングへと移動した。ソファーに腰を落とし、ウイスキーを注ぎ、一口飲み下す。喉から胃に熱いものが流れていくのを感じながら息を吐いた。同時に凝り固まった緊張が一気に吐き出される感じがした。

 高之はもう一度ウイスキーを口に含むと、先ほどの妻の言動を思い返した。

 あんな妻の姿を見たのは初めてだった。靖子は高之が学生時代に知り合い結婚した。色々あって、今は必ずしも良好な関係とは言えないが何をするにしても主導権は常に高之が握っている。昔も今も高之にとっても靖子は常に都合の良い女なのだ。それなのに、いつもと微妙にずれた妻の反応は、高之になんともいえない居心地の悪さを覚えさせた。

 テーブルに置いたスマホを手に取り、美桜にメールをしようかとして、その手を止めた。

 なんと言うのだ?と自問する。

 なにか変なことがなかったかと聞くつもりか?例えば夜中のバスルームで背後に見知らぬ女がたっていなかったか、とかか?

 高之はスマホを放り出した。

 そんなことをしたら、また笑われるのがオチだ。舌打ちをするとウイスキーを飲み干し、コップに今度はなみなみとウイスキーを注いだ。

 


 カチャカチャと食器の当たる微かな音がキッチンから聞こえてくる。

 高之は目の前に新聞を広げていた。出社前のいつもの朝の時間調整。

 端から見ればそう見えるかもしれないがその実、新聞など上の空だった。高之の神経はキッチンで働く靖子の後ろ姿に集中していた。

 昨日の深夜。リビングから寝室に戻ると靖子はすっかり寝入っていた。そして、朝。いつもとなにも変わらない一日が始まった。

 目を覚ますと、妻は何事もなかったように朝の支度を始めていた。昨日のことを聞くべきか悩んだが、言うのを止めた。話しを蒸し返して朝から面倒なことになるのは真っ平だ。

 自分を煩わさないならそれで良い。靖子の後ろ姿を一瞥すると冷ややかに思った。

 高之にとって靖子の価値は便利な女であることだった。飯を作り、掃除や洗濯をして、たまに部下を招待したら賑やかに笑い家庭円満をアピールしてくれればそれ以上はなにも望んでも期待もしてもいなかった。

 唐突に高之の頭に美桜の白い肌が浮かび上がる。照明を消した暗闇を背にじっとりと汗ばんだ張りのある柔肌。

 無意識にテーブルに置かれたスマホに目が行った。すぐにでも逢瀬の約束を取りつけたい欲望にとらわれる。スマホを取り上げパスワードを入力しようとした。ふと視線を感じ、顔をあげた高之はぞくりと背筋を凍らせた。洗い物をしているとばかり思っていた靖子がふりかえり自分を見つめていた。

「なに?」

 手に持ったスマホをそっと置くと言った。

「そろそろ時間よ」

 壁にかけられた時計に目をやる。確かに言う通りだ。

「あっ……ああ、そうだな。出掛けるとするか」

 高之はそう答えると腰を上げた。


 少し隈ができてる。と鏡に映る自分の顔を見ながら美桜は思った。

 やっぱり、昨日眠れなかったからかしら、と少しイライラしながら目の下にブラシを当てる。ペタペタとスポンジでファンデを馴染ませていると視界の片隅の小瓶に目が行った。首のところに蝶ネクタイをつけた風変わりな透明なボトルだ。

 ペンハリガン サボイスチーム

 高之からプレゼントされた香水だった。

 妻の愛用の香水。匂いでばれないように密会の時に香水をつけるならこれにしてくれと言われた。言われた時には正直信じられないと思ったものだ。高級品だが自分勝手なふざけたプレゼントだった。おまけにそのローズの甘い匂いが美桜は好きではなかった。だから、一度匂いを嗅いだだけで使ったことはない。

 美桜はそのボトルを呆けたように見つめた。

 ローズの匂い……

 ボトルの蓋を開けると美桜は匂いを嗅いでみた。ローズの香りが鼻腔を刺激する。それは昨夜、エレベーターで突然香っていた匂いと同じものだった。瞬間的に昨夜の恐怖が甦った。美桜はボトルを放り投げるように手放す。ボトルは他に化粧品の瓶を蹴散らしながらけたたましい音をたててテーブルの上を転がった。



 会社まで後少しというところで高之は車を止めるとスマホを取り出した。

 メールで仕事の打ち合わせをしたいと打ち込む。

 宛先は山吹美桜。

 時間は今日の夜、午後の7時以降が都合が良い。時間が遅いので夕食をとりながらゆっくりと話ができたら嬉しい、と付け加えた。

 無論仕事のメールではない。そう見せかけたその実、密会の打診だ。

 送信ボタンを押す直前、その指を止めた。


 後部座席から見ていたの


 靖子の言葉が耳元に再現される。

 高之は反射的にバックミラーへと目を向けた。しかし、ミラーには無人の座席が映っているだけだった。当たり前のことに何故かほっと安堵のため息をつく。

 そして、高之は苦笑した。

 誰もいやしない。あれは靖子の戯言だ。なにを気にすることがある。

 そう自分に言い聞かせると送信ボタンを押した。

 今の時刻だと美桜は丁度家を出たぐらいだからすぐ返信が来るかもしれないと期待して少し待ってみた。だが、返事は来なかった。

 期待が外れたのに少しがっかりしつつ、携帯をしまい、車を発進させようとハンドルを握った。

 後方確認のために確認したバックミラーにじっと自分を睨み付ける女が写っていた。

「うわっ!」

 文字通り飛び上がった。シートベルトがガチンと音をたてた。

 振り向くが、後部座席には誰もいなかった。

 後部座席とバックミラーを何度も見返したが何も写っていなかった。

「えっ?なんだ、なんだったんだ?」

 高之はたった一人、車の中で混乱し頭を抱えた。戸惑っているとスマホがブルブルと震え始めた。

 画面には『高崎広告事務所担当Yさん』と出ていた。美桜のことだ。メールに対して直接返事が来るとは珍しいと思いつつスマホをとる。

『私よ! “ガタ“ “ガタン“ “カッ“  “カッ“』

 大声とノイズの不意打ちにスマホから耳を離すと顔をしかめた。

「クソッ。おい、なにしてんの?」

『…… …………』

 苦情を言ったが返事はなかった。

「もしもし、どうした。もしもし?」

『……たすけて “ブチッ“』

 切羽詰まった声が聞こえてきた、と思うとスマホが切れた。

「えっ?なに、なに、どうした?

もしもし、もしもし……」

 高之はスマホに向かって何度も何度も叫びつ続けた。


 

 ささやかな音を立てながら扉が開く。

 エレベーターには誰も乗っておらず、空っぽだった。別に珍しいことではない。いつもこの時刻は無人のエレベーターに乗っている。むしろいつもと変わらぬ朝の日常の風景だ。それなのに、美桜はエレベーターに乗るのに躊躇した。昨夜の恐怖が頭の片隅に引っ掛かりどうしても一歩を踏み出す気になれなかったのだ。そうこうするうちにエレベーターの扉が静かに閉まった。

 美桜はふっと息を吐くと階段へと足を向けた。

 階段で降りるのも悪くない。

 我ながら言い訳じみていると感じながらも美桜は自分にそう言い聞かせた。

 4階の踊り場に着くのと同時にスマホがぶるりと震えた。メールの着信だ。見ると高之からだった。今夜会いたいという内容にどうするか悩んだ。三日の出張からの最初の出社なのでおそらくメールもうんざりするほど開かなくてはならないだろう。高之の会社の広告プランも練る必要がある。正直今日は残業を覚悟しているのだ。いつもの調子なら断るところなのだが美桜としても昨夜のことを誰かに話したくてしょうがなかった。どうせ話しても小馬鹿にされるのが落ちとは承知していても誰かに話せば気が楽になる。

 了解、と返信文を打ち込む。

 そうして場所はどうしようと考える。

 そういえば一度行ってみたいと思っていたレストランがあるのを思い出した。

 そのレストランの名前をメールに打ち込んでいると足音が聞こえてきた。

 カッ カッ   カッ

 こんな時間に自分以外で階段を使う人がいるのか、と美桜は少し興味を持った。

 カッ   カッ カッン

 音は上から聞こえてきた。音は微かで今にも消え入りそうだっだ。リズムもなにかたどたどしい。よろめいているような感じだった。

 手すりのところに手が現れた。

 白く細い指に赤いマニキュア。

 女の手だった。

 現れた手は不思議なことに手すりを持ったまま、なかなか降りてこなかった。

 おかしいな、と思うとばさりと黒い塊がその手を覆った。それが髪の毛であることに気づくのに少し時間がかかった。

 さらに見ていると黒髪が手すりに沿ってずりずりと降りてきた。

 つまり、女は手すりにうつ伏せになって頭から滑り台よろしく滑り降りて来ているということだ。

 あり得ない光景だ。

 常軌を逸したものを見せられると人はそれを理解をしようと動きが止まるものだ。美桜もその光景に見入った。しかし、あまりに異様な光景に理解が追い付かない。美桜は呆けたように立ちすくみ、ゆっくりと滑り降りてくるものを踊り場で見つめていた。

 不意に女の顔が現れた。

 いや、ただ単にうつ伏せから顔を上げただけなのだが、身体は黒髪に覆われていて、さながら人面の黒い蛇のように見えた。

 全身に悪寒が走った。

 異形の姿にではない。自分を睨み付ける女の憎悪の目に美桜の身体が本能的な恐怖を感じたのだ。

「ユ ル  サナイ」

 絞り出すよう声が階段の閉鎖空間で不気味に木霊した。と、ずりずりずりと女の身体が美桜に向かって滑り降りてきた。

 ぶつかる!

 美桜はとっさに踊り場から階下に逃げて、女を()ける。

 ドサッという鈍い音がした。

 見上げると踊り場に女が踞っている。どうしようかと迷う間も無く、女はゆらりと立ち上がった。

「カエシテ……

カエセ カエセ カエセ」

 うわ言のように呟きながら女は階段を降りてきた。身に危険を感じた美桜は咄嗟に叫んだ。

「嫌!なんなの、あんた。こっちに来ないで!!」

 しかし、怒声は何の効力も発揮しなかった。女はよろよろと美桜に手を伸ばす。長い爪が尋常ではない。獣のように鋭く曲がりくねっていた。人でないもの、人ではあり得ないものの爪。

 頭に昨夜のエレベーターの女が思い出された。

 逃げろ 

  逃げろ 

   逃げろ

 頭の中でけたたましく警告が鳴り響いた。

 美桜は階下に向かって走り出した。

 つんのめりそうになるのを懸命にこらえながら美桜は階段を駆け降りた。

 踊り場を三つ越え、さらに四つ目の踊り場が目の前に現れた。さすがに息が上がってきたが、なんとかペースを維持して通りすぎる。

 と、五つ目が見えた。

 おかしい

 もう1階に着いて良いはずなのに、と思いながら美桜は五つ目の踊り場を通り越し階段を降りる。

 また、踊り場があった。

「嘘っ!なんで着かないのよ」

 一向に1階に到達しないことに焦った美桜は途中のフロアへ逃げ場を求めた。だが、階段から他のフロアへの入り口は防火扉が閉められていた。扉を開けようとしたが鍵が掛かっているのかびくともしない。

 なんでこんな?!

 いつもは鍵どころか閉まってさえいないのに

「ちょっと!誰か、誰かいませんか?

ここを開けて!」

 美桜は扉を叩いて叫ぶ。

 が、なんの反応もない。

「……ナイ ユルサナイ カエセ カエセ カエセ」

 足音と共に囁き声が近づいてくる。恐る恐る見上げると踊り場にゆらりと女が姿を現した。

「ひっ」

 美桜は小さな悲鳴をあげると、再び階下へと走り出した。

 踊り場を通りすぎるとまた防火扉に出くわした。6階はとうに過ぎているはずだ。一体、今、何階にいるのか分からなくなっていた。周囲の壁を見ても現在階を示す表示は見当たらなかった。

 誰かに助けを求めようと逃げながらスマホを取り出した。

 だが、誰にかければ良いのか?

 会社の同僚、上司?仲の良い友人……

 美桜は、呼んですぐに急行してもらえそうな友好関係を持つ人物が皆無である事実に少し愕然とした。

『東尾リサーチャー社長さん』

 アドレス帳の一つに視線が集中した。それは高之の番号だ。美桜はその番号へ電話をかけた。思ったより早く出た。

「私よ! あっ」

 叫ぶのと階段を一段踏み外すのがほとんど同時だった。手すりにかじりつきなんとか転ぶのを免れた。代わりにスマホがカツン、カツンと階段を転がり落ちた。

「いや、止めて」

 美桜は悲鳴をあげて踊り場に転がるスマホを拾い上げた。画面には斜めに大きなひび割れが走っていた。

『……した。もしもし?」

 耳を当てると高之の声が聞こえてきた。

 良かった。壊れていない

 美桜はほっと胸を撫で下ろした。助けて、そう叫んだ時、スマホを持つ手をガシリと掴まれた。まるで氷の塊を当てられたような冷たさがたちまち手首を痺れさせる。冷たさを通り越して痛い。物凄い力で後ろに引っ張られた。否応なしにスマホが口許から引き剥がされた。

 振り向くと女の顔が目の前にあった。まん丸見開かれた瞳は今にもこぼれ落ちそうほど飛び出ていた。赤く濁った白目に焦点の合わない洞穴のような黒目が浮かんでいた。

 サボイスチームのローズの香りが美桜の鼻をくすぐった。突然美桜は、自分がこの目の前の女を知っていることを思い出した。

「ユルサナイ」

 女が誰なのか自分は知っている。

「カエセ」

 女が何を返して欲しいのか分かった。

 ぐっと女の顔が近づいてきた。女の吐息が自分の頬を撫でるのを感じたが美桜は頭の芯がじんと痺れて身動きが取れなくなっていた。いわゆる金縛りだ。

「ユルサナイ ゼッタイニ ユルサナイ

コロ……コロ……」

 突然、スマホがけたたましく鳴った。とたんに呪縛が解ける。気がつくと目の前にいたはずの女の姿はどこにもなかった。

 美桜はキョロキョロと辺りを見回す。しかし、どこにも見当たらない。文字通りかき消えていた。

「美桜、私だ。一体なにがあったんだ。大丈夫か?」

 スマホから心配そうな高之の声が聞こえてきた。



 給仕がメニューを持って静かに下がるのを見送る。夕方の6時少し前のレストランはまだ客も多くなく、空席のテーブルが目立っていた。夕食には少し早い時間帯だからこんなものかな、と高之は思いながら正面に座る美桜へと視線を転じた。

 美桜の表情は浮かなかった。

「少しは落ち着いた?」

 美桜は顔を少し上げただけだった。

 朝方に『助けて』と電話を掛けてきたと思ったら直ぐに切れてしまい、慌ててかけ直してみたら、階段を降りていたら気味の悪い女に追いかけられて、手を掴まれたが気がついたら女はいなくなっていた、といきなり半泣きでまくしたてられた。あの時に比べれば落ち着いたというところかと高之は思った。

 直ぐに会いに来てくれと言われたが、そうもいかず、なんとか時間を作って今に至るわけだ。

「結局、今日は会社を休んだのかい?」

「そうよ。あなたが冷たいから」

「おいおい。そんなに苛めないでくれよ。これでも重要な打ち合わせをキャンセルして駆けつけたんだよ」

「どうせ夢でも見ていたと思っているのでしょう」

 美桜は乱暴にテーブルの上に右手をのせた。

 思いの外大きな音がして、白いテーブルクロスの上に置かれたクリスタルグラスが細かく揺れた。グラスの水面に立った波紋が美桜の苛立ちの大きさを物語っているようだった。

「これでも、私の言っていることを信じてもらえない?」

 袖を捲ると、手首に四本の筋が現れた。

「酷いね。どうしたの?」

「だから、女に掴まれた跡よ」

 手首を返すと親指の跡が一際濃い紫色の痣になっていた。

「これでも信じない?」

「いや、信じていないわけではないよ」

「嘘よ」

 美桜は少し拗ねたように口を尖らせて目をそらせた。

「いや。実は俺もその女に会っているかもしれない」

「えっ?!なんですって、それ、本当なの?」

 驚く美桜に高之は、バスルームと後部座席の女の話をした。

「その女の顔を見た?」

「いや、どちらも一瞬だったからはっきりは見ていないな」

「私は目の前ではっきり見たわ」

 美桜は言葉を一度切るとぶるりと体を震わせた。

「あなたの奥様だった」

「なんだって!」

 思わず大声を上げた高之は慌てて周囲を見回した。丁度スープを持ってきた給仕が驚いて目をぱちくりさせた。

「靖子だった、というのは確かなのか?」

 去って行く給仕の後ろ姿を確認すると高之は小声で確認した。

「君は靖子に会ったことないだろう」

「会ったことはないわ。でも写真は見せてもらったことがあるわ。それに香水の香り……」

「なんだって?」

「香水の香りよ。あの女からあなたの奥様のお気に入りの香水の香りがしたわ」

「いや、そんなことはあり得ない。

あいつは俺と君のことをなにも知らないのだから――」

 高之はそこまで言ってから黙りこんだ。

 本当になにも知らないのか?

 昨夜の靖子の意味深な発言が思い出された。あれはやはりすべてを知っているのを鎌をかけてきていたのかのと疑念が沸々と沸いてきた。

 俺を見送った後に急いで美桜のマンションに出掛けて待ち伏せていた?

 しかし、突然目の前から消えたというのはどうやったらできる。バスルームや車の後部座席からはどうやって消える?

「幽霊でもあるまいし、急に現れたり消えたりなんて出来ないだろ」

 あえておどけた風に答えると高之は気分を変えようとスプーンを取った。

「ここのスープは上手いらしいね。ネットで絶賛だったよ」

 スープを飲もうとした高之の手が止まった。

 ふしぎそうなものを見るようにスプーンの先を凝視する。先になにか黒いものがついていた。摘まんでみると髪の毛と分かった。それも長さからいって女の髪の毛のようだった。

「なんだこれは」

 もう一度すくい直してみて、高之はぎよっとなった。スプーンの首のところにベッタリと黒い髪の毛が束になって絡みついていた。

 店の者を呼ぼうと立ち上がった時

「ちょっと、ちょっと!」

「うん?なんだ、こんな酷いものを出す店には文句を言ってやらないと」

「違う、違う。ちょ、そ、それ、それ……」

 美桜は口をパクパクさせながらテーブルを指差していた。高之は怪訝そうに指差す方向をみた。真っ白なテーブルクロスの敷かれたテーブルの中心に洒落た燭台が置かれていた。燭台にはアロマキャンドルが立ち、柔らかな焔を揺らめかせていた。それがどうかしたか、と言いかけて言葉を飲み込む。台座の辺りに髪の毛が何本も散らばっていた。しかも、見ていると髪の毛がどんどん増えていく。パラパラと上から落ちてきているのだ。

 高之と美桜の視線が絡みつく。二人はこくりと頷きあうとゆっくりと上を見上げた。

 女が天井からだらり垂れ下がっていた。逆さまな状態でじっと二人を睨み付けていた。

「ユ ル サ ナ イ 」

 しゃがれた声と共に女が落下した。

「うわぁ!」

「きゃ!」

 高之と美桜は同時に大声を上げてのけ反った。イスが大きな音を立てて床に転がった。

「どうされましたか?」

 給仕が大慌ててやって来て、声をかけた。

「どうって!あれだよ、あれ」

「あれ……あれとはなんでしょうか」

「おっ、女だ。女が、天井にぶら下がっていて……」

「天井に……女が、ですか?」

 困惑しながら給仕は顔を上げる。

「女などおりませんよ」

 給仕の声に顔を上げると、言った通り女の姿などなかった。壮麗なシャンゼリゼが燈色に輝いているばかりだった。

 テーブルの方も見たが、女の影も形もない。テーブルの上にあれほど散乱していた髪の毛も一本も見当たらなかった。

「えっ……なんなんだ一体」

 高之は呆然と呟き、美桜の方を見た。美桜もまたなにがなんだか分からない、という表情を返してきた。



「どう思う?」

「どう思うってなにが?」

 助手席の美桜の言葉に高之は前を見たまま曖昧な答えを返す。

「ねぇ、あれを見たよね。見えてたよね」

 美桜は苛立たし気に高之の肩を叩いた。

「止めてくれ。運転中だ。危ない」

 美桜はふんと鼻をならすと正面に向き直る。少し黙ったが直ぐにまた口を開いた。

「あの女、あなたの奥様、だったわよね」

 高之は答えに窮した。天井にぶら下がっていた女。思い出したくもないが、確かに美桜のいう通りだった。だが、それを認めることはなにか憚られた

「似てなくはないが……

靖子だったかどうかは分からないな。一瞬のことだったから単なる気の迷いかもしれない」

「気の迷いですって?!

呆れた。まだあれが幻覚か何かなんて思っているの?」

「いやいや、待ってくれよ。(まぼろし)じゃなかったら逆になんだというんだ。

幽霊とでも?

あいにく、靖子は死んじゃいない。生きているよ。 

君が靖子を殺したい気持ちは分かるけどね」

「私が奥さんを殺したいと思っているって?

冗談でしょ。むしろ、殺したいと思っているのは奥さんの方だと思うわ」

「靖子が?

それこそ悪い冗談だ。あいつにはそんなことは考えられないさ。

気の弱い。何時だって俺の言いなりの女なんだ。まあ、何を考えているか分からないところもあるがね。それにしても、消えたり現れたりしやしない。ましてや天井からぶら下がるなんてやりっこないさ」

生霊(いきりょう)よ」

「なんだって?」

「い、き、りょ、う!

奥さんをきっと凄く恨んでいるのよ。

それで無意識に生霊を飛ばしたんじゃないのかしら」

「お前、本気でそんなことをいってるのか?

生霊なんてあるわけないだろ」

「じゃあ、さっきのがなんなのか説明してよ」 

「そりゃ……例えば集団幻覚、みたいなものとか……」

 高之はもごもごと口の中で呟くとそのまま、黙りこんでしまった。黙って車のハンドル握るだけの高之を横目に美桜は腹立たしそうにふん、と鼻をならした。こちらも腕組みをして前をじっと見つめる。

 気まずい沈黙がしばらく続いた後に美桜がぼそりと言った。

「ねえ、どこへいくつもりなの」

「君のマンションだよ。さすがに食欲も失せた」

「泊まっていってくれるんでしょうね」

 美桜の問いに高之は大きなため息をついた。

「いや、君を送り届けたら、戻るよ。あいつの様子を見て、探りをいれてみたい」

「冗談でしょ!

私はあのマンションのエレベーターでも階段でもあの女に会っているのよ。

そんなところに一人で置いておくつもり?

絶対に嫌よ!」

「じゃあ、どうしろっていうんだ?」

「知らないわよ。とにかくあのマンションに戻るのは絶対に嫌ですからね!」

 美桜はヒステリックに叫んだ。

「参ったなぁ」

 赤信号で車を止めると高之は苛立たしく舌打ちをした。



 バスルームのドアを開け高之は中を覗き込んだ。当たり前のように誰もいなかった。馬鹿らしいとも思ったが律儀に報告する。

「誰もいないよ」

「クローゼットの中も確認して!」

 ベッドに腰かけた美桜がすかさず言った。

 高之は肩をすくめるが素直に入口近くにあるクローゼットも確認した。

「異常ないよ」

 その報告にも美桜は腕組みをして顔を強張らせたせたままだった。

「大丈夫だよ」

 緊張を解こうとわざと笑顔を見せたが効果は見られず、高之はやれやれと息をはいた。

 マンションに戻る、戻らないですったもんだしたあげく結局適当なホテルを借りることで一応決着をつけたつもりなのだが美桜は納得をしていないようだった。

 窓際におかれたダブルベッドに腰掛けて、すぐさま部屋の点検を要求してきたのだ。点検と言っても部屋は半分近くをベッドに占拠されていた。床に直に備え付けるタイプのためベッドの下には1センチも隙間はなかった。なので部屋で死角になりそうなのはバスルームとクローゼットぐらいだが、そこは今確認したばかりだった。

 念のためにカーテンを曳き、窓の外も確認してみる。窓は街の路地裏に面していた。部屋は四階だったが同じぐらいの高さの雑居ビルが直近に立っているため視線は遮られていた。下へ目をやると細い路地が一本右から左へ一文字に通っていた。右手にコンビニが一軒あり、丁度男が一人で外へ出ていく姿が見てとれた。

 高之は視線を部屋に戻した。壁に沿って書き物机と椅子がワンセット置かれている。その向かえの壁には大型のテレビがあった。

 書き物机の上のリモコンを手に取るとテレビを入れる。テレビからどっと笑い声が聞こえてきた。クイズ番組でアイドルの珍回答にスタジオが湧いたところのようだ。

「とにかく少し落ち着こう」

 備え付けの小型冷蔵庫から高之は赤ワインのスモールボトルを取り出した。グラスに注ぎ、美桜の前に差し出す。

「飲めよ。落ち着くから」

「あなたは飲まないの?」

 美桜は疑り深い目で高之を睨み付けた。

 まだ中身の残っているボトルを置くと高之はわざとらしく眉間に皺を寄せて唸った。

「う~ん、まだ運転する予定だからね」

「どうしても奥様のところへ帰る。というわけけ?」

「帰って様子を見てくるだけだよ。靖子が俺たちのことに感づいているかどうか、探りを入れるだけだ」

「どうやって探りを入れるつもりなの?」

「それは……」

 正直なんの計画もない(ノープラン)だったのでたちまち言葉に詰まった。

「様子を見ていて時間ばかりが過ぎて、結局戻れない、なんてメールしてくるのじゃないの?」

「いや、そんな……つもりは……ないよ」

 慌てて答えたが自分でも半分そうなるのではないかと考えていたのでなんとも歯切れが悪くなった。

「帰ってきてね」

 美桜の目がスッーと細められた。獲物をロックオンした猛禽類の目だ。

「奥様はカエセって頻りにいっていたけど私は譲る気はないですから」

 両手をお腹に当てると美桜は言った。

「私ね、妊娠したの。あなたの子供です。

奥さんと別れて結婚してください。そう言う約束だったよね?

だから、今日は必ず戻って来てくださいね」


 

「子供か……」

 自宅へ車を走らせながら高之は一人で呟いた。複雑な心境だった。子供が欲しくなかった訳ではない。むしろ跡継ぎは欲しかった。しかし、高之と妻の靖子の間に子供はない。

 一度もできなかった訳ではなかった。

 大学を卒業したと同時に高之は起業した。そして、大学の事務員をしていた靖子と結婚した。その二年後に子供ができたと言われた。

 俺が悪いんじゃない。タイミングが悪かったんだ。

 あの時、事務所を立ち上げたのは良いが利益はほとんど上がらなかった。家計を支えていたのは靖子だった。経済的子供を作る余裕などなかった。そう、選択の余地などなかったのだ。

 だが……

 『私、もう、子供産めないって』と病院のベッドの中で青白い顔でそう告げる靖子の悲しげな顔が高之の頭の中に浮かんだ。

「俺が悪いんじゃない」

 誰に聞かせるでもなく高之は心の内を吐露した。

 では靖子が悪かったのか?

 それとも担当した医者の腕が悪かったせい?

「いや、運が悪かったんだ。そして、タイミング」

 舌打ちをして、吐き捨てた。

 少なくとも高之はそう思うことにしていた。だが、靖子はどうだろう。自分と同じように思っているだろうか?と考える。

 分からない

 それが本心だった。あの時以来、高之は妻の顔をまともに見ることができなくなっていた。だから、靖子の気持ちが分からない。

 靖子がこの件について自分を非難した記憶はない。そもそも二人にとってこれは話題にあげてはならない禁忌(タブー)だった。だが、だからなのか靖子が心の内で自分のことを恨んでいたのではないかと思っていた。

 邪推かもしれない。靖子はそんなことを微塵にも思っていないかもしれない。ようは信頼関係なのだ。だが、二人の間にあった決定的な何かがあの時に壊れてしまったのだ。そして、それは二十年以上たった今でも壊れたままだ。高之はその間、長い年月をかけて靖子を『便利な女』という場所へ追いやったとも言えた。

 高之はベンツを止める。自宅に着いたのだ。

 オートシャッターがゆっくりと開くのを眺めながら考える。

 自分は靖子をどう思っているのだろう?更に言うなら、美桜と靖子とどちらを取るつもりなのだろう?

 いや、そんなのに答えなんか出せないだろう、車庫に入れたベンツから降りながら高之は自分に向かって抗議した。

 だが……

 嘘だろ、と自分の中の誰かが耳元で囁いた。答えなんて当の昔に出ている、と。

「靖子」

 高之は靖子の姿を求めて家の中を探し回った。リビングやキッチンを覗き、妻の名前を呼ぶ。

 いない。

「靖子いないのか?」

 当てもなく声を投げる。

 その名前はなんと空々しく響くのだろう、と高之は思った。

 空っぽのバスルームのドアを閉めると2階へと向かった。昨夜の既視感(デジャヴ)に捕らわれながら寝室のノブに手をかけて引いた。



 ガチャリ

 美桜は冷蔵庫を開けて中を覗き込んだ。ボトルたちが小刻みにぶつかりカチカチと微かな音を立てた。白ワインのスモールボトルを一本取り出すとグラスに注ぐ。

 一口含んでは落ち着かなさげに部屋のあちこちを見回した。高之はそろそろ家に着いた頃だろうか?

 ベッドに転がしていたスマホを手に取ると真っ黒な画面をじっと睨んだ。やがて、ほうとため息をついた。

 電話をかけて様子を知りたかったが、取り込み中の可能性もあったので我慢することにした。

 ぐびぐびと白ワインを半分ほど飲み干すと、頭の奥がじんと痺れて熱を帯び始めた。いい感じに頭の底にべったりとこびりついている恐怖が薄らいできた。このまま何も感じることなく眠りに落ちてしまえばどんなに良いだろうと思った。

 つけっぱなしだったテレビではいつのまにかクイズバラエティーが終了していた。

 ドラマだろうか?画面には一人称視点でどこかの街角を歩いているのが映し出されていた。

 美桜は首をかしげた。奇妙な番組だった。テレビからはセリフもBGMも流れてこない。画面も妙に上下にぶれる。じっと見ているとカメラ酔いしそうだった。

 画面が建物の入口を映した。

「あれ?」

 見覚えのある風景に思わず声が出た。

「これ、ここじゃないの」

 画面にはさっき手続きをしたホテルの受付が映っていた。強面俳優に良く似てるな、と思ったホテルマンも映っているので間違いない。

 何かの生放送なのかと思うが、なんの説明も出ていないのでさっぱり状況がつかめない。

 美桜はリモコンを掴むとチャンネル変えた。

 画面が切り替わり、再びホテルの受付が映し出された。

「はっ?」

 美桜はチャンネルボタンを押した。画面が切り替わったが画面には再びホテルが映った。確かにチャンネルは切り替わっているのに画面は変わらない。いや、正確に表現するのならば、画面は少しずつ動いていた。人がゆっくりと歩くようなペースで少しずつ、少しずつ動いている。今は受付の前を通りすぎようとしていた。

「どうなってるのよ」

 混乱しながら美桜はリモコンのボタンを連打する。その都度テレビはキチンと反応して画面が切り替わる。だが、金太郎飴のようにどのチャンネルにしても映し出される画面は変わらなかった。

 同じ番組をやっている?

 一瞬そんな考えが頭をよぎったが、ブルブルと首を振って否定する。年末の特番ならいざ知らず、今この時期に全ての局が同じ番組を流すなんてあり得ない。

 テレビの画面はロビーの奥にある階段へと向かっていた。

 ほの暗い電灯に照らされた細い階段が上へと延びていた。その光景に美桜は妙な胸騒ぎを覚えた。

 何かがおかしい。何か異常なことが起きている。それは間違いなかった。

「……ッ…………」

 無音と思われたテレビから微かに音が出ていた。美桜はボリュームを最大にする。

「ユ、ル、サ、ナ、イ」

 パチパチというノイズに混じり、はっきりとそう聞こえた。

 ああ、そうか。と美桜は理解した。理解したとたん、下腹部の奥底からぶわりと恐怖が浮かび上がり腰から背筋を伝い首裏(くびうら)の産毛を逆立たせた。

 あの女が来ているんだ。今、このホテルの階段を上って来ているんだ。

 何のために?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 美桜は素早く部屋を見回した。隠れられそうなところはどこにもない。籠城を考えたが、レストランのことを思うと鍵の掛かった扉というものがどの程度役に立つのか皆目見当もつかなかった。もしもドアを突破されたなら文字通り逃げ場がなかった。

 ならば、4階まで上がって来る前に逃げるのが一番見込みがありそうだ。

 決断をすると美桜は部屋を飛び出した。

 廊下を出るとすぐさまエレベーターのボタンを押した。相手は階段を上ってくるのだから階段を使うわけにはいかない。ホテルから逃げるにはエレベーターしか残されていなかった。だが、エレベーターはちっとも上がってくる様子を見せなかった。

「どうなってるのよ。早く上がってきて」

 美桜はイライラしながらエレベーターのボタンを何度も押したが、エレベーターの表示は1Fに貼り付いたままだった。

 美桜は廊下から階段下を伺ってみた。耳を済ましてみてもなんの物音もしなかった。さっきのテレビ画面が自分の妄想なのではないかと思った次の瞬間、踊り場に黒い影がふわりと現れた。美桜は漏れそうになった悲鳴を口を押さえてこらえながら、廊下の壁に身を隠した。視界の隅でエレベーターの表示が未だに1階に留まっているのに落胆する。

 やはり、籠城か?

 美桜はすぐに(かぶり)をふる。それこそ袋小路に自ら入り込むようなものだ。どこかに逃げ道はないかと周囲を見回す。と、廊下の端に非常口の表示がぼんやりと光っているのを見つけた。

 美桜は転がるように非常口のところへ駆けるとドアノブに手をかけた。鍵がかかっていれば万事休すだ。美桜は祈る気持ちでノブを引いた。

 開いた!

 美桜は小躍りしたくなるのを気持ちを抑え外にでた。そこは鉄製の螺旋階段だった。冷えた夜風が美桜の頬を撫でた。降りようとして愕然となる。下への通路が何重もの鎖が張られ塞がれていたのだ。

「なんなのよこれ。非常口の意味がないじゃない」

 仕方なしに戻ろうとして、美桜はピタリと動きを止めた。階段から廊下に女が姿を現したところだった。美桜は息を止め、女に気づかれないようにそっとドアを閉める。だが、完全には閉めなかった。指ひとつほど開けた状態でそっと廊下の様子、女の動きを見つめる。

 女はよたよたと廊下を歩いていく。やがて、美桜たちの部屋の前で歩みを止めた。

 女は両手をドアにつくと暫く中を伺うようにじっとしていた。美桜はその様子を見つめる。心臓がばくばくと打ち鳴らされた。

 ずるりと女の両手が肘のところまでドアにめり込んだ。

 やはり、あの女にとってドアはドアとして機能しないのだ。籠城をしなくて本当に良かったと我ながら自分の判断を誉めてやりたくなった。そして、これはチャンスだとも思った。女が部屋に入った隙にエレベーターでも階段でも使って逃げることができる。

 美桜は黙って女を観察する。

 女の両腕は眼前にドアの奥に消えて、今は頭の先がめり込み始めていた。

 もう少し、もう少し、もう少し

 美桜は心の中で呪文を唱えるようにいい続けた。



「靖子……?」

 寝室の暗がりに向け高之は声を発するが、返事はなかった。

 明かりをつける。

 ベッドの上に靖子が大の字になって寝ていた。普段そんな格好で寝ていることなどない。一目で異常であることがわかった。

「靖子!」

 慌てて駆け寄る。

 靖子は眉間にシワを寄せてぐっと目を閉じていた。口元も一直線に引き結べられている。

 安らかな眠りとは程遠い。まるで悪夢にうなされているようだった。

「靖子……靖子。おい、起きろ」

 高之は靖子の体を揺すり声をかけた。しかし、靖子は一向に目を覚ます気配を見せなかった。ふぅ、ふぅと息を吐き、額に脂汗を浮かび上がらせている。嫌な予感に囚われた高之は、靖子の肩を強く掴むと耳元で大声で名前を何度も呼んだ。



 非常口のドアの隙間から息を潜めて廊下を伺う。女のおでこの辺りがドアに呑み込まれていた。

 早く、もう少し

 美桜は心の中で叫ぶ。

 ぐるん

 突然、女の顔が横を向いた。

 まともに視線が繋がった。

「ヒッ」

 喉の奥で悲鳴を上げると慌てて非常口を閉める。

 やばいやばいやばいやばい気づかれたやばいどうしょうやばいやばい逃げない気づかれた気づかれたやばい逃げないと逃げないとやばい!やばい!!やばい!!!

 美桜はドアを背中で押しながらパニックになる。どんなにドアを開かないように押さえても相手はすり抜けてくるだろう。頭の中に廊下をよたよたと非常口に向かって歩いてくる女の姿がありありと浮かんだ。一刻も早く逃げないといけない。だが、一体どこへ逃げればいいのか?

 宛てもなく泳ぐ視線が、目の前の螺旋階段の上り口でとまった。下には降りられないが上には上がれる。美桜の頭に稲妻が走る。

 一旦上に上がって、そこから下に降りれば!

 美桜は5階に向かって走り出した。

 カコン、カコン、カコン、カコン

 鉄のタラップを踏む度に乾いた音が夜の街に吸い込まれて行く。5階の非常口のノブに手をかけ、引っ張る。が、ノブはびくともしなかった。

「また鍵?!」

 頭を抱えたくなったがそんなことをしている暇はない。5階が駄目ならもっと上に行けば良い。美桜は再び上に向かった階段をかけ上った。6階も鍵がかかっていた。ならば7階と息を切らしながらもかけ上る。

 7階はなかった。

 螺旋階段は鉄の柵で終わっていた。鉄柵の先は屋上だった。

 血の気が下がるのを実感できた。呆然としながら美桜は鉄柵に触れる。皮肉なことに鉄柵には鍵がかかっておらず、難なく開いた。

 屋上にはなにもなかった。転落防止の柵が周囲を覆っている以外は給水塔があるだけだった。柵に沿って新たに逃げ道を探したが、周囲のビルまでどこも10メートル以上は離れていた。とてもではないが飛び移ることは不可能だった。

 鉄柵から一番離れたところまで歩いていき、そこで途方にくれる。もう本当にどこにも逃げ場はなかった。万策尽きた美桜はスマホを取り出す。鉄柵から視線が離さずに電話をかけた。かける先は高之だ。女が高之の妻の生霊ならば本体をどうにかすれば助かるかもしれない。

 どうにかするって、どうするつもり?

 女が現れないことを祈りつつ鉄柵に視線を集中させ、耳はスマホに聞き耳をたてる。

『はい』

 高之の声が聞こえた。

「私よ、美桜よ」

「今、取り込み中なんだ。後にしてくれ」

 息急き切る美桜の言葉を高之は苛立たしそうに遮った。美桜の怒りが一気に沸点に達する。

「取り込み中なのはこっちのほうよ!」

 美桜はスマホに向かって大声で叫んだ。

「話を聞いて、あのね――」

「カ  エ  セ」

 耳元で囁き声がして、美桜は一瞬で凍りついた。

「……えっ……?」

 今、自分は柵を背にしている。柵の先には何もない。ただの中空だ。だから、誰も後ろにいるはずがない。いや、居ては駄目なのだ。だが、声は確かに後ろから聞こえてきた。

 美桜は恐る恐る後ろを振り返った。

 女がいた。柵から上半身を乗り出して、美桜を睨み付けていた。

 取り落としたスマホが屋上のコンクリート床で鈍い音を立てた。それを合図に女が美桜に飛び掛かってきた。

「コ ロ シ テ ヤ ル」

 のし掛かかられて、押し倒された。

「た、助けて」

「コロス、コロス、コロス、ユルサナイ、コロス」

 美桜の渾身の悲鳴は女の怨念にかき消される。首筋に氷をあてがわれたような感触に全身に悪寒が走り、息が詰まった。女の死ね死ね死ね、という呪詛の言葉とスマホから自分の名前を呼ぶ高之の声が混濁する意識の中でぐにゃぐにゃと混じりあい、ついにふっつりと何も分からなくなった。

 


2020/04/11 初稿

2020/10/03 一部文章変更


次話は

『橋姫』三部作 第二話『死霊』の予定です

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