その八 塵塚怪王(ちりづかかいおう)
すこし長くなりました。
約3倍(当社比)となっております。
虐待などの不快な描写もございます。
苦手な方は、自己責任にてご覧ください。
早苗は、半泣きになりながら人気のなくなった校舎をあてもなくさ迷い歩いていた。廊下から差し込むオレンジの陽の光には薄紫色の光が混じり始めていた。
彼女の住む町は周囲を山に囲まれた小さな地方都市で、陽が暮れ始めるとすぐに夜の帳に包まれる。
焦る心を圧し殺し、目の前の立てつけの悪い教室の扉を苦労して開けた。
誰もいない教室に机と椅子が規則正しく並んでいた。毎日のように見慣れているなんともない風景が、人が誰もいないだけでどうしてこんなにも無機質で不気味なものに変じるのだろう、と早苗はごくりと喉鳴らした。
窓から差し込む光はどんどんと弱くなっていく。時間の猶予はあまりない。このままではすぐに真っ暗になる。そうなっては今より厄介な状況に追い込まれるだろう。
意を決すると教室の中に足を踏み込んだ。
中に入ると教室の後ろの棚や掃除道具入れ、次に並んだ机ひとつひとつの中を見て廻る。しかし、目的のものは見つからなかった。
途方に暮れて顔を上げると、涙が込み上げてきた。
校庭に向かう窓に目を向けるとオレンジ色の光はすっかり影をひそめ、薄紫色、さらには濃紺へと変わりつつあった。
探していない場所といえば残るは廊下の突き当たりの理科室だけだった。
あそこは……
骸骨や内臓むき出しの人体模型、ホルマリン浸けの標本を思い浮かべ、早苗はぶるりと身を震わせた。
理科室の扉をそっと開け、早苗は恐る恐る中を覗きこむ。大ぶりのテーブルが整然と並んでいた。
当然のように誰もいなかった。
壁に並んでいる模型をできるだけ見ないようにしながら、早苗はテーブルの下を見て廻った。
それでも探しているランドセル、いじめで隠されてしまったランドセルは見つからなかった。もう何時間も学校を駆けずり回って探していたが見つからないのだ。
もう夜になる。もう見つけるなんて無理だ。でも、見つからなければ帰れない。そう思うと、早苗はついに泣き始めた。声を殺し、ポロポロと涙をこぼす。
と、その時。
ガタリと音がした。
早苗はびくりと体を飛び上がらせる。キョロキョロと理科室を見回す。しかし、音を発するような物は見当たらなかった。
ペチャ
また、何か音がした。濡れたものがなにかに貼りつくような不快な音だった。早苗の視線が理科室の奥の扉へと向けられた。それは準備室と呼ばれる、実験の道具とか薬品を保管する小部屋だった。音はそこから聞こえた気がした。
そっと準備室の扉に耳をつける。ペチャペチャ、カチャカチャと正体不明な音や物が触れあう音が聞こえた。
誰かが居る!でもこんな時間に誰だろう。先生だろうか?
いや、とすぐにその考えを否定した。理科の天野先生ならさっき校舎を出ていくのを見た記憶があった。天野先生ばかりではない他の先生たちももうほとんど学校にいないはずだ。そう思うと、また恐さがぶり返してきた。このまま何もかも放り出して逃げたしたかった。だが、もしかしたら準備室に自分のランドセルがあるかも知れないとも思った。
なら、確かめないわけにはいかない。
早苗は歯を食い縛り準備室の扉を開けた。
異様な生臭ささが鼻をついた。魚の生臭さと汚泥のつまったどぶ川の混ざったような臭いに早苗はむせかえった。
そして、見た。
準備室の隅に誰かいた。
机に向かい、黙々と何かをしていた。後ろ向きなので顔は分からない。ただ、服装や体格、髪型で自分と同じでぐらいの女の子であると分かった。
女の子の右手が無造作に下に動き、何かを捨てた。何を捨てたのかは分からない。床に置かれたバケツの中に吸い込まれ、ペチャと音がした。左側にも同じようにバケツが置かれていた。女の子は体を傾け、左のバケツに手を突っ込み引き抜く。その女の子の手には大きな蛙が握られていた。
「ひっ?!」
早苗は思わず声にならない悲鳴を上げた。
女の子の動きがとまり、ゆっくりと振り返った。
広い額の割りに極端に狭い両の目。浅黒い肌に反っ歯。枯れ葉のように痩せて長い手足。
醜いと形容しても異論は出ない少女だった。
早苗はその醜悪な女の子を知っている。
山品美登里。
早苗と同学の小学六年生。クラスは違う。しかし、名前も顔も良く知っていた。何故なら山品美登里は学校で知らぬ者がいない程の有名人だからだ。
一言で言えば狂暴。
学校の備品は壊す、先生に反抗する、生徒には暴力をふるう。なんでそんなことをして許されるのか早苗には理解できなかったが、流される性質の彼女は良く考えることもなく、その事実をまるっと飲み込んでいた。
山品美登里とは、そういう存在。
近づかない、無視すべき相手と認知していた。
視界の端に美登里の捉えたり、気配や時に臭い、美登里からはいつも変な臭いが漂ってくる、を感じるとネズミが慌てて壁の穴に逃げ込むように身を潜めていた。
そんな相手が今、目の前にいて、睨み付けてきていた。しかも、準備室のいるのは早苗と美登里の二人だけだった。
「あっ……えっと……」
早苗は何か言おうとしたが声が出なかった。何を言えば良いか分からない。
美登里はただ、早苗を睨み付けているだけだった。その狭い両目と鼻の間には不機嫌そうな深い縦皺が浮き出ていた。
「私のランドセル!」
早苗はほとんど反射的に叫んでいた。叫んだとたん、何を血迷っているのだと後悔した。そのまま、うつむき、口を閉ざした。
「なに?」
嗄れた声だった。意外にも美登里が早苗に次の言葉を促した。それでも早苗は貝のように押し黙ったままだった。
「私のランドセルが、なに?」
美登里が再び問う。首を45度近く傾け、じっと早苗を見つめていた。まるで初めて見る動物を観察するようだ。
「私のランドセルを探しているの。や、山品さん、知らない?」
半分自棄になって一気にまくし立てた。肺の中の空気が全部吐き出され、早苗は一瞬目眩に襲われた。
「ランドセル……?もしかして、あれのこと?」
美登里の視線を追うと、準備室のゴミ箱から何か赤いものが見えていた。早苗は慌ててゴミ箱の中を調べた。
「あった」
ゴミ箱の中から早苗はランドセルを取り上げると懐かしい友達に再会したように頬をつけて抱きしめた。
「ガラスの破片とかついているかもしれないから気をつけた方が良いよ」
その声に早苗はびくりと体を震わせた。
ゴミ箱を見ると、割れたビーカーやら試験管の残骸が転がっていた。確かに良く見るとランドセルにもその細かなガラスの破片が付着していた。ハンカチで破片を払い落としながら、早苗は美登里をちらちらと盗み見た。
美登里の方はもう、すっかり早苗に対する興味が失せたのか、机に向かい作業の続きを始めていた。
机には蛙が白い腹を見せて横たわっていた。美登里の右手にはナイフが握られていた。なんのためらいなく美登里はナイフで蛙の腹を縦に裂いた。指を突っ込み、腹をかき混ぜる。やがて引き抜かれた指の先には赤黒い丸い珠のようなものがつままれていた。
美登里はそれを机に放り投げる。ペチャリと音がした。
良く見ると机の一角にこんもりと赤黒い山ができていた。なんだろうも見ていると、その視線に気づいたのか、再び美登里が顔を向けた。
「なに?」
なにと問われ、早苗は答えに窮した。目的のランドセルは既に見つかっている。とっと帰れば良い。なのに早苗は美登里から目が放せなくなっていた。理由は早苗本人にも分からなかった。
「えっと、さっきからなにをしてるのかな、と思って……」
「知りたいの?」
美登里は口元を歪めた。笑ったつもりなのかもしれないが、不気味なだけだった。
早苗は、ふるふると首を横に振る。興味が無いわけではないが、多分聞いてはいけない類いな予感がした。
美登里の目が値踏みをするように鋭く細くなる。
その視線がむず痒い。まるで全身を虫が這いずっているようで、早苗は落ち着かさな気に体を震わせる。走って逃げ出したいのに根が生えたように足が動かない。
美登里がふんと鼻で笑うような息を吐いた。
「蛙の心臓を集めてる」
蛙の心臓を集めている、その異様な行為よりも、聞きたくないと言ったつもりなのにそれを無視をするように話を続ける美登里に早苗は少し悲しい気持ちになった。
美登里は机から赤いぷよぷよしたものをつまみ上げた。蛙の心臓など見たことがない早苗にはピンとこなかった。遠目からは何か餅を小さく丸めたものにも見えた。黙ってみていると美登里はそれを手のひらで転がし遊び始めた。不意に美登里はニィっと笑った。そのおぞましさは夜の闇が走り込んでくる準備室を背景に凄惨で、異様で……綺麗だった。
綺麗?
その感覚に一番戸惑ったのは思い浮かべた早苗本人だった。
「蛙の心臓をほじくりだしてたの」
美登里は手のひら口を寄せると、チュルリと心臓を吸い込んだ。
「食べるためにね」
とたんに全身に悪寒が走った。ガタガタと体が震え始め、吐き気が込み上げてきた。無意識に後退っていたのか、早苗は何かにつまずいて尻餅をついた。
「わっ、わっ、わわっ……」
意味を為さない声を上げ、早苗はそのまま準備室を飛び出した。
家に着いた時にはすっかり夜になっていた。早苗は黙って玄関を通り抜け、自分の部屋に行こうとした。
「遅かったな」
その声に早苗の体はピタリと止まる。
廊下の暗がりから男がぬぅっと姿を現した。
「こんな時間までどこに行っていたんだ」
「えっと、その、学校で勉強……」
早苗は消え入りそうに答えた。
「学校だと」
男は目を剥くと早苗の方へ歩み寄る。右足を踏み込むと、体がつんのめるように大きく傾いだ。その都度、右手に持つ杖が床を叩く。杖が床につく度にガツ、ガツと耳障りな音を立てた。早苗はこの音が嫌い、いや、怖かった。
「今の今まで学校で勉強していた、だと?
嘘をついても、父さんにはすぐわかるんだぞ」
顔をすり付けるように近づけると、充血した目で早苗を頭から爪先までねめつける。酒と汗、タバコの混ざった臭いが鼻をつく。早苗は吐きそうになった。
「本当。本当だから」
頬に父親の酒臭い鼻息をかかるのに、怖気を震う。
「うん。なんだぁ、その目は」
早苗の気持ちを敏感に察したのか、父親は声を荒げると、早苗の髪の毛を引っ張り、平手でペチペチと軽く叩いた。
恐怖に身をすくませながら、早苗は懸命に声を圧し殺す。悲鳴を上げたり、不平や抗議の声を出せば、今度は本気で殴られるからだ。じっとして、無駄な抵抗をしないのが学校でもここでも一番被害が少なくなることを早苗は嫌というほど知っていた。
「ふん。馬鹿にしやがって。あいつにそっくりだ」
完全無抵抗を貫く早苗に興が削がれたのか、父親は捨て台詞を残し、自分の部屋へと去っていった。
父親の姿が完全に見えなくなると早苗は力なく廊下にしゃがみこんだ。
昔はあんな風ではなかったのに、と早苗は悲しくなる。
早苗の父親は、事故で足を悪くしてから職を失い、それから酒ばかり飲むようになった。その内、早苗や母親に暴力をふるうようになった。
早苗は肉食獣の棲みかで暮らすネズミのようなものだ。家では父親に怯え、学校ではいじめっ子たちから逃げて暮らしている。どこにも心休まる場所がなかった。
『ガラスの破片とかついているかもしれないから気をつけた方が良いよ』
ふと、美登里の言葉が甦る。なぜ、美登里のことを思い出したのか分からないが、無性に悲しくなった。早苗は冷たい廊下にうずくまったまま、小刻みに体を震わせた。
次の日。早苗が教室に向かっていると、突然後ろから羽交い締めにされた。不意討ちに反応できず、なすがままにふりまわされ、突き飛ばされた。早苗は不様に廊下に転がった。痛みに顔をしかめながら振り向くと、三人の少年が早苗を見下ろしていた。いつも早苗をいじめている面子だ。真ん中に立つ一際大柄な少年の腕に早苗のランドセルがあった。突き飛ばされた時に奪われたのだ。
「返して……」
早苗は消え入りそうな声で訴える。
「お前にはこんなの贅沢だっつーたろ。
なんでまたしょって学校にきてんだよ」
少年には早苗の言葉など聞こえていないようにランドセルを逆さにした。
ランドセルが開き、中に入っていた教科書やノートが廊下に散らばった。
「やめて、やめて、やめて」
早苗はあわてて散乱した教科書やノートをかき集める。その必死さが少年たちの嗜虐心と優越感を充足させる。
「そうだ。ランドセル燃やしちゃおうぜ」
「あー、いいね。燃やしちゃおう」
「焼却炉。校舎の裏の焼却炉に放り込めば、良く燃えると思うよ」
ゲラゲラと笑いながら少年の一人が恐ろしい提案をした。他の二人もたちまち同調する。早苗は全身が恐怖に震えた。
「ダメ。やめて。返して。返して!」
早苗は真っ青になってランドセルを取り返そうと少年にむしゃぶりつくが、あっさりと突き飛ばされる。床に頭をぶつけて意識が飛びそうになる。少年たちの笑い声が遠くで聞こえる。歩く振動が床から微かに伝わってくる。笑い声も振動もどんどん遠ざかっていく。
「ダメ……」
しかし、早苗の口から漏れた吐息のようか声を聞く者は誰もいない。それが一番悲しいことだった。
ドン!
衝撃音に目を開くと、尻餅をついた少年の姿が目に飛び込んできた。なにが起きたのか分からないままに、早苗は半身を起こした。
「なにすんだよ」
尻餅をついたまま少年は大声を上げた。見ると山品美登里が少年たちの前に立ち塞がっていた。その手には早苗のランドセルがあった。
「返せよ!」
少年の一人が取り返そうとランドセルに手をかけて引っ張った。美登里も負けずに引っ張り返す。ぐっと少年の体が傾く。美登里のほうがずっと体が小さいのに力は少年よりも強いようだ。形勢悪しと見て、仲間たちが加勢に加わる。尻餅をついたリーダー格の少年も立ち上がると美登里に猛然とつかみかかる。
「ぎゃっ」
「あっ、痛ッ!」
「うわぁ」
一瞬の出来事だった。美登里に飛びかかった三人が悲鳴を上げて離れた。一人の少年の頬に三筋の赤い線がくっきりと浮かんでいた。
「引っ掛かれた。うわっ、血がでてる」
「乱暴者!」
少年たちは手や顔を押さえて、口々に美登里を罵倒するが、美登里は動じるそぶりも見せず、すごい形相で睨み付けてきた。その気迫に押され少年たちはじりじり後退する。
「先生に言いつけてやる」
捨てぜりふを残すと少年たちは逃げ出した。後には美登里と早苗だけが残った。
廊下に尻餅をついたまま呆然としている早苗の目の前にランドセルが突きつけられた。
「これ」
「えっ?あ、ありが、とう」
早苗は戸惑いながらランドセルを受けとった。美登里は黙って廊下に散らばっている教科書やノートを拾い集めると再び早苗の鼻先に突きつける。
「な、なんで、助けてくれたの」
美登里は首を少し傾げると「なんとなく」と答えた。
「なんとなく、おんなじ匂いがしたから」
匂いと言われ、美登里のような変な臭いがしているのかと早苗は無意識に服を嗅いで、はっとなる。次の瞬間、それはとても失礼な態度だと気づく。
「ご、ごめんなさい」
「私が言ったのはそういうの意味じゃないけれどね。
あんたら、あっちの住人は大抵そんな反応しかしない。自分がいつも正しいと思っている」
『あっちの住人』とはどういう意味なのか、と考えていると背後から足音が近づいてきた。振り向くと生活指導の先生が血相を変えて走ってくるのが見えた。
「山品!」
生活指導の先生、水瀬と言う、が美登里の姿を認めると大声で叫んだ。
「お前、また悪さをしたそうだな!
今日という今日は許さんからな。
こってりと絞ってやるから覚悟しろ」
水瀬先生は美登里の腕をねじり上げると大声で叫んだ。怒鳴り声か早苗の頭にガンガンと響く。父親の顔がフラッシュバックした。全身に脂汗がにじみ、視界が一瞬、ブラックアウトしそうになった。
「こい!さっさと来るんだ」
水瀬先生の声に早苗は現実に引き戻された。見ると美登里がずるずると引きずられいく。
「ま、待ってくだ……」
呼び止めようとした早苗は言葉を飲み込む。
美登里は笑っていた。
水瀬先生に引っ張られ行く美登里は早苗に向かいほぼ真後ろに首をねじ曲げて、なにも言うな、と言うように口元に指を一本立てて笑っていた。
その日の昼休み。
早苗は先生に言われプリントを職員室へと運んだ。
「とにかくあいつときたらこっちの言うことを全く聞く耳をもたない」
職員室に入ったとたん水瀬先生の大声が聞こえてきた。
「私も山品さんには手を焼いているのです」
答えたのは大原先生という年配の女の先生だった。山品という単語に早苗はピクリと体を震わせた。さりげなく水瀬先生と大原先生の方を盗み見る。水瀬先生は顔を真っ赤にして怒っていて、それを受ける大原先生は本当に困った表情をしていた。
「大原先生は山品の親御さんと話をしたことありますか?」
水瀬先生の問いに大原先生は首を横にふった。
「山品さんのこ両親は亡くなっていて、今はおばあさんと二人暮らしなのです」
早苗は机に置いたプリントを整頓するふりをしながら生徒たちの会話に耳をそばだてていた。
「私も何度か山品さんの素行について相談したくて電話をしたことがあるのですが、なんだか話が通じなくて……」
「話が通じない?」
「山品さんが他の生徒に暴力をふるって困っていると話しても、だからなんだ、とか、やられるほうが悪いとか」
「あの孫にしてそのばあさんあり、いや、その逆か。だったら、直談判でそのばあさんともども性根を叩き直すしかないですね」
「そうなんでしょうけど……」
息巻く水瀬先生に対して大原先生はあまりに乗る気ではなさそうだった。
「じゃあ良いです。俺が行って話をつけてきます。山品の家の住所を教えてください」
「高木、どうした?」
静かに聞き耳をたてていた早苗は名前を呼ばれて我にかえった。顔を上げると担任の上畑先生が怪訝そうに見ていた。
「いえ、なんでもありません」
早苗は慌てて職員室を後にした。
夕暮れが迫る学校の正門に早苗はいた。背負った夕日が道に影を落とす。舗装されていない剥き出しの路面に貼り付く影法師は細長く、時にギザギザと歪んでいた。とても自分の影とは思えない。まるで巨大な鬼のように見えた。
早苗は美登里を待っていた。
美登里は生活指導室に缶詰になったまま、未だに解放されていなかった。
元はといえば自分のせいでこんなことになっている。そう思うとどうしても美登里に謝りたかったのだ。
校舎から人が出てきた。
美登里だった。
勇んで近づこうとして早苗は立ち止まる。隣に水瀬先生の姿があったからだ。早苗は慌てて物陰に隠れた。
早苗は昼間の家庭訪問の話を思い出した。水瀬先生は今日、美登里のおばあさんに話をするつもりなのだ。早苗の頭に水瀬先生とおばあさんに叱られている美登里の姿が思い浮かんだ。
飛び出して行って、今日のことを洗いざらい話したい衝動に駆られた。
美登里は悪くない。悪いのはいじめをしていた奴等のほうだと大声で叫びたかった。
でも出来なかった。そんなことをしても取り合ってくれないのは何度も経験していた。いじめを訴えても、単なる悪ふざけだろう、とか早苗の考えすぎだとか、よくて双方に不幸な誤解があったのだろう、で片づけられた。
自分や美登里のようなものがどんなに必死に訴えても決して相手にしてもらえないのだ。その理由はいくら考えても分からない。
躊躇している間に、水瀬先生と美登里は角を曲がり見えなくなった。
早苗はまたいつものように一人取り残された。
「あいつ、どこへいきやがった」
水瀬は舌打ちして、辺りをキョロキョロと見回した。探しているのは美登里だ。ちょっと目を離した隙に逃げられた。
水瀬は美登里のような素行の悪い生徒を知らない。
授業をさぼる。教師の言うことは聞かない。備品は壊す。挙げ句に他の生徒に暴力をふるった。今日も朝から男子生徒を三人を引っ掻いたり、噛んだりした。引っ掻く、と表現すると子供のじゃれあいに聞こえるが実態は顔や腕に数十センチもの深い筋がつき、流血騒ぎになるほどのひどいものだった。更に三人の少年たちは昼ぐらいから気分が悪くなり救急車が呼ばれる騒ぎにまでなっていた。すでに子供の喧嘩のレベルを越えていた。
今日という今日は、生活指導を任されている立場上、美登里の保護者に事情の説明と今後について話をしなくてはならなかった。
水瀬はため息をつくと、ポケットのメモを取り出した。
そこには、美登里の家の住所が書かれていた。余り馴染みのない地名だ。今いるところは町の外れ、最外周に位置していた。町を囲む山が目の前に迫っていた。
細い道が山に向かって延びているだけでとてもこの先に人家があるようには思えなかった。
この分では通りかかる人も期待はできない。
「まいったなぁ。いい歳して迷子かよ」
最終的には美登里に案内をさせるつもりだったので余りしっかり調べてなかったのだ。その美登里は姿をくらました。さらに携帯は圏外になっていた。最後の頼みの綱であった携帯のナビ機能も使えないとなると途方に暮れるしかなかった。
「うん?」
日の暮れかかる中、立ちすくむ水瀬は木々の間から漏れる光に気づいた。夕日をなにかが反射しているようだった。
水瀬はそこを目指すことにした。違ったら、今日は諦める。そのくらいの気持ちになっていた。
山に繋がる林を縫うようにくねくねと曲がる道を進むと、突然人家が姿を現した。その平屋の木造は山を背景にひっそりと立っていた。半ば朽ち果てている、と言っても言い過ぎではなかった。
表札を確認すると、山品と書かれていた。
「ごめんくださーい。
山品さーん、いらっしゃいますかー」
大声を張り上げたが、なんの反応もなかった。水瀬は少し遠慮勝ちに玄関の戸に手をかけた。戸は横に動いた。鍵は掛かっていない。
「ごめんくださーい。水瀬と申します」
戸を開けて、再び声をかける。家の中を覗きこむと、暗く細長い廊下が続いているのが分かった。妙に暗闇が濃く、先が見通せない。むあっとしたカビ臭い空気が顔にかかり、水瀬は思わず咳き込んだ。
「学校から来ました。お孫さんのことでお話がしたく、訪問しました。
山品さーん。山品のおばあさーん。いらっしゃりませんか?」
水瀬は声をあげながら、家の中へと足を踏み入れた。
耳を澄ます。
何も聞こえない。いや、微かに廊下の先でなにかが軋む音がした。
「山品さん?おられるんですか?」
水瀬は靴を脱いで家に上がり込んだ。ずんずんと廊下を進む。やがて古い障子が行く手を阻んだ。
開けるとやや広い部屋があった。
部屋の真ん中にちゃぶ台、壁際には古めかしい家具か置かれていた。床の至るところにゴミや食べかけの残飯、ぬぎすてられた服が散乱していた。なにかが腐ったような嫌な臭いに水瀬は思わず手で鼻と口をふさいだ。
こんな劣悪な環境で美登里は暮らしているのか、と水瀬は驚いた。学校ではなく児童相談所の出番かも知れない、とも思った。
対面に障子が見えた。
障子の奥にも部屋があるのだろう。そこに美登里のおばあさんがいるかもしれない、そう考え、水瀬は部屋に足を踏み入れた。
「うわっ!」
一歩足を踏み入れたとたん、ガサゴソと何かが床を這いずり逃げていった。
床のゴミに隠されてよく分からなかったが、逃げていく音の大きさはゴキブリではなくネズミかなにかのようだった。どちらであってもいい気分はしない。
反射的に上げた足を恐る恐る下ろしたその時だ。
「誰だ」
しわがれた声がした。見ると対面の障子に人の影が映っていた。
「山品美登里さんのおばあさんですか?
私は水瀬と申します。お孫さんの学校で教師をしているものです」
地雷原のような部屋をよこぎらなくて済みそうなことに内心安堵しながら、水瀬は障子に映る影に声をかけた。
「その先生様が、何のようだ?」
影は微動だにしない。
障子を開ける気は微塵もないようだった。水瀬は少し苛立ちながらも言葉を続けた。
「今日はお孫さんの美登里さんのことでまいりました。
実は本日、美登里さんが他の生徒にひどい怪我をさせたのです。今日ばかりではなく、美登里さんの素行には目に余るものがあります。
我々教師の指導も聞かず、物を壊したり、暴れて他の生徒に怪我をさせる等です」
水瀬はそこで言葉を切って、一旦、相手の反応を待った。しかし、相手からは謝罪の言葉も反論も何もなかった。
「失礼ですが本日は、おばあさんが美登里さんにどのような教育をされているのかお聞かせ願えないかと思い、訪問いたしました」
再び言葉を切り、相手からの回答を待ったがやはり沈黙が返ってくるだけだった。水瀬は少し声を大きくする。
「良いですか。本日のことだけとってもあなたのお孫さんが他の生徒にしたことは重大です。すぐにでも謝罪をしないと傷害罪で訴えられる可能性もあるのですよ。お分かりですか?」
少しきつめの口調で言ったが、障子に映る影は動かない。水瀬は業を煮やして、部屋に踏み込んだ。またなにかが散らばるゴミの下を逃げていったが、頭に血が上った水瀬の意志を挫くことはできなかった。そのまま、ずんずんと部屋を横切る。あと一歩で障子に手がかかるというところで影が口を開いた。
「美登里は……
美登里の親はそれは酷いものだった。
毎日、小さなあの子を殴ったり、蹴ったり。
食べ物もろくに与えなかった。
あの子はな、いつも身体中に生傷や痣をつくり、お腹を空かしていたのだ」
水瀬は動きを止めた。そんな話は初耳だった。
「つまり、虐待されていた……と言うことですか?」
水瀬の質問に影はクックッと忍び笑いをした。
「人の言葉では虐待と言うのか。
儂らの世界ではない言葉だ。覚えておこう。
知っているか?
あの子は飢えを凌ぐために山に入って木の実やら若芽を食らっていた。
まあ、それも春先や夏の話じゃがな。冬になると木の皮を削って食べておった」
「そんなことが……信じられない」
影のにわかには信じられない話に水瀬は絶句した。だが、影の話は終わらない。
「儂があの子に声をかけたのは、そんな時じゃ。
儂はあの子にいうたのじゃ。人などやめて儂らの仲間にならんか?とな」
「……?
儂らの仲間?
あなたは美登里のおばあさんじゃないのか」
「あの子のおばあさんとな。
ああ、確かにばあさんだ。
あの子は『今の境遇から抜け出せるならば』と言うたよ。
だから、あの子の親を殺してやった。そして、儂があの子のばあさんになった。
それ以来、あの子が儂らの真の仲間になれるように色々と教えておる。あの子は真面目だからな。あと少しで儂らの仲間になるぞ。クックックッ」
影が笑い始めた。そのとたん、水瀬は頭に血が昇った。障子に手をかけ、力任せに開けた。
「あんた、適当なことを言って誤魔化そうとしてもそうはいかんぞ!
お前も、あのクソガキも世の中を舐めてんじゃ……な……」
水瀬の怒鳴り声は急速に小さくなり、腰が砕けたようにへなへなとゴミの中にしゃがみこんだ。口からはヒューヒューという声にならない悲鳴が漏れるだけだ。
「見~た~な~」
開け放たれた障子の先にいたそれは、耳まで裂けた口をくわっと開く。その口からは凶悪な牙が覗き、目はメラメラと燃える業火のように閃いていた。
「高木さん」
名前を呼ばれて驚いて振り返ると美登里がいた。正門で取り残された後、仕方なしに家に帰る途中のことだった。
早苗は驚いた。
「山品……さん。どうしてここに。
水瀬先生と一緒に家に帰ったのではないの?」
「あんな愚図から逃げるなんてどうってことないわ」
美登里はケラケラと笑った。
「でも、きっと水瀬先生は一人でも山品さんのおうちに行くと思う。それで今日のことをおばあさんに言うよ。
そうしたら、山品さん、おばあさんに怒られると思う」
「ばぁーさまに怒られる?
私が?
あのばぁーさまに?
あははははっ」
早苗の言葉に美登里は腹を抱えて笑いだした。
「何で笑うの?私、本気だよ。
もしかしたら酷いこと、……されるかも、知れないよ!」
笑い声がピタリと止まった。美登里の目が真っ直ぐに早苗を射ぬく。
「酷いことって、どんなこと?」
「えっ?」
ゆらゆらと美登里が早苗の方へと歩み寄る。
「あんたがいつもされてること?」
美登里が耳元で囁いた。早苗は返す言葉を失う。
「辛くない?哀しくない?助かりたくない?」
「えっ、だって、そんなの……助かるの?
でも、どうやるの?」
美登里の口元がにぃっと引き上がった。
「実はね。私のばぁーさまは、人間じゃぁないのよ。
塵塚怪王。
山姥を束ねる妖怪なの」
美登里の声が更に一段小さくなる。
「私は人を止めて山姥になるの」
「えっ?えっ?なにを言ってるの。意味が分かんない」
「あんたもそうしなさい。あなたは私と同じ。私たちの側の存在よ」
早苗は身をよじって、美登里から離れた。そうしないと、離れないと頭がどうかなってしまいそうで怖かった。
「わ、私は……
ううん。いい。もう遅いからいくね」
早苗は逃げるように立ち去る。
「待ってるから」
美登里の声が早苗の背中に突き刺さった。
次の日から美登里が学校に来なくなった。
水瀬先生も来なくなった。
早苗をいじめていた三人組も学校を休んだままだ。
水瀬先生は行方不明。三人組は重態で命が危ないという噂だった。美登里に受けた傷がドロドロに腐っている、一人はすでに片腕を切断したとか、まことしやかな噂が流れていた。
しかし、同時に起きたこの怪しい出来事が互いに関係があるとか、ないとかと学校中が騒がしい中、早苗の学校生活は逆に平穏になっていた。やはり、いじめっ子がいなくなったのが何よりも大きかった。
朝、学校に来て授業を受け、帰る。
後は家に帰ってから息を潜め、出来る限り父親から身を隠す。そんな、ある意味平穏な日々が一週間も過ぎた頃だ。
早苗は帰宅すると、いつものようにこっそりと玄関をあけ、父親の存在を伺う。家はひっそりとして、人のいる気配がなかった。父親は寝ているのかもしれない。早苗は急いで、しかし、足音を忍ばせて自分の部屋へ向かう。
「小百合か?!」
父親の怒声が響き、早苗の体が凍りついた。
「小百合か?こっちこい!」
小百合は母親の名前だった。母親なら仕事に行っている時間だから、何で父親が母親の名を呼ぶのか分からなかった。なにか嫌な予感しかしなかった。
「なにやってる。早くこっちにこい!」
父親のイライラした声が早苗の体をビリビリと震わせた。早苗はおずおずと父親のところに行った。
父親はイスの背もたれに体を預けていた。テーブルや床に、空になったビール瓶が何本も転がっていた。
父親は、ドロンと濁った目で入ってきた早苗を睨んだ。
「チッ。お前か……
小百合を、母さんを知らんか?」
早苗は首を横に振る。
ダン!
父親が突然テーブルを叩いた。
ダン!ダン!ダン!
何度も叩く。叩く度にテーブルが少し跳ね上がる。早苗は恐怖に身をすくませた。
「あいつがいなくった」
父親が立ち上がった。手に紙が握られている。テーブルを叩いていたのではなく、置かれていたその紙を叩いていたことに早苗は気がついた。
「こんな手紙だけ残して。
『もう我慢できない。さようなら』だと?
くそ、馬鹿にしゃがって!」
父親は早苗を壁に追いやる。
「お前、本当に小百合の居場所をしらないのか?」
早苗は首を横に振るだけで精一杯だった。もはや、否定のためなのか、恐怖で体が震えているのか自分でも分からなかった。
「嘘をついてると酷いぞ?
本当は、こっそりと聞いていて、後で会ったりするつもりなんだろ?
うん?なんとか言えよ」
「知らない。知らない。本当に知らない」
「嘘をつくな!
言え。小百合はどこだ」
父親は早苗の髪を掴むと左右に激しくふる。
「痛い、痛い。止めて。お父さん止めて。本当に知らないから」
早苗の体がふわりと宙に舞い、つぎの瞬間、床に叩きつけられた。
「お前のせいだ。あいつがいなくなったのはお前のせいだ。この、この、この。
あいつめ、あいつめ、こんなのを残していきやがって!」
早苗は何度も踏みつけられ、杖で突かれた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。
お父さん、ごめんなさい」
体を丸めて、早苗はひたすら哀願した。それでも父親の手や足が止まることはなかった。
「許して、許して。ごめんなさい。ごめんなさい」
体を丸めて、父親の折檻に耐えながら、ひたすら謝り続けた。
自室の暗闇の中、早苗は鏡に映る自分の顔を見ていた。顔中がパンパンに腫れ上がっていた。右目は腫れてほとんどふさがり、唇は切れて、またジクジクと血が滲み出ている。
ふと、鏡に自分以外のものが映っているのに気付き、早苗は慌てて後ろを向いた。
部屋の隅に美登里が立っていた。しかし、そのこと自体に早苗は驚きはなかった。むしろ当然のように思えた。
「迎えにきた」
美登里は静かに言った。
早苗は小さく頷いた。美登里にすがり付くと血を吐くような声を絞り出す。
「助けて。助けて。助けて。
ここじゃないところなら、どこでもいいから。お願いだから、一緒に連れていって欲しいの」
「その返事を待っていた。
後は、ばぁ様がなんとでもしてくれる」
美登里はニヤリと笑う。
尖った犬歯が鈍く光を反射した。
次の日から高木早苗は学校へ行かなくなった。無届けで長期欠席が続くので担任が自宅を訪問したが、家はもぬけの空で、早苗も足の不自由な父親の姿もどこにもなかった。
2019/12/01 初稿
2019/12/29 誤記の修正と文章の一部変更
次話は「橋姫」