その十二 見越し
夕暮れのオレンジ色の光が遠くに建ち並ぶ高層マンションを鮮やかに染め上げていた。
近景には水流豊かな川がゆったりと流れ、その鏡のような水面が時折、去り行く太陽に向かい別れの挨拶をするかのようにきらきらと煌めいていた。
川縁から緩やかな傾斜をもって青々とした芝生が広がっていた。
秋の肌寒さを感じる風が吹くようになったこの時期になっても、この辺りの芝は夏の盛りのような瑞々(みずみず)しさを保っていた。
それ故、日曜となるとこの芝生へおしゃれなレジャーシートとバスケットをもった家族が高層マンションからわらわらと涌き出てきた。
世の成功者たる夫は妻の準備した自慢のご馳走に舌鼓を打ち、完璧なコーディネートに身を包んだ愛らしい子供たちが周囲をはしゃぎまわり、笑顔と幸せを無自覚に撒き散らした。
そして、その光景を真の成功者たる、妻であり、母である存在が鎮座して満足気に眺める。そんな光景がいたるところ出現した。
とはいえ金曜日の夕暮れ時の、真冬の木枯らしが吹くようなこんな日にはさすがに人影はなく、ただ、丈の短い芝生が夕映えに黙って黄色く染められていくだけだった。
プ~~~ン
耳障りな羽音をたてながら一匹のハエが飛んでいた。寒さに息も絶え絶えのようで、どこか頼りない。
プ~~~ン
もう一匹がどこからともなく現れた。ふらふらと何かに誘われるように飛んでいく。
プ~~~ン プ~~~ン
プ~~~ン プ~~~ン
どこからこんな湧いて出たのかと思うような数のハエがそこここで舞っていた。川べりからマンションへ向かう一本坂のところだ。
そのちょうど上りが始まるところに誰かがが倒れていた。年のころは30代の女性。驚きなのか、恐怖なのか眼をかっと見開いたまま、美しいであろう表情を醜くゆがめていた。喉元から大量の血が噴き出し、高級そうなワンピースを赤黒く染めていた。かすかな鉄気の臭いが辺りに漂っていた。それにつられ、また一匹、また一匹とハエが飛来してくる。
その一画だけを切り落とし、夕日は静かに傾いていく。世界はいつも通り、何事もなく平和である、とでも言うように女と飛び交う無数のハエを無関心に置き去りにして、郊外の高級住宅地は完璧な景観を誇示し続けていた。
「……なのよ。それでね、……」
大村縁はぼうっとした頭で話を聞いていた。同じマンションの棟に住む顔見知りさんたちの井戸端会議。話題は最近起きた殺人だった。近くを流れる川原で死体が見つかった。殺されたのが同じマンションに住む住人となれば話題に上がらない方がおかしい。犯人が未だに捕まっていないどころか容疑者すら絞られてないのならば尚更だった。
勢い、マンションの住人すべてがにわか探偵と化してしていた。
「やっぱりこのマンションの住人の誰かが犯人らしいのよ」
「そうなの? 嫌だわ、コワい。早く捕まればいいのに」
「でも、聞いた話だと、喉笛を食いちぎられてたって。本当だとしたらまともな人間ができることじゃないでしょう。異常者かしら」
「怪しい人がさ、5号棟に変な人いるじゃないの」
「5号棟…… ああ、いるいる。なんか昼間なのに仕事にもいかずにこの辺ぷらぷらしている男の人ね」
「私、この間、その人とばったり出会ったわ。下から覗き込むようににらまれて怖かったぁ」
「ところでさ。ランチに行かない?」
高橋泰江が唐突に言った。その言葉に縁は微かに体を震わせた。
「あの、ごめんなさい。私、少し用事があるので、今日は遠慮します」
そうね、そうねと同意する面々に、縁は申し訳なさそうに答えた。
「あら、今日は、って縁さん、最近いつもそうじゃないの」
と、言ったのは新居朋子。ねぇ、みなさん、というようにグループ一人一人と目を合わせていく。特に誰からもリアクションはなかったが、視線が痛かった。
「ごめんなさい。今日は特に、なにか調子がわるくって……」
それは半分本当のことだった。さっきから地面がぐらぐらと回転しているようなめまいに襲われていて、立っているのも辛かった。
「本当にごめんなさい」
こみ上げてくる吐き気を堪えながら縁は総てを絶ちきるようにその場を後にした。
まあ! という、声にならない微かな空気の圧力が背中に押してきた。
「本当、感じ悪い」
「体の調子じゃなくてお金がないんでしょ」
「あら、そうなの?」
ひそひそ声が追いかけてくる。
「最近、大村さんところ、家計が厳しいみたいよ」
「旦那さんのところの会社、ボーナス見送りとか言う話だから」
「ああ、テレビでやってましたねぇ」
ちがう!
縁は思わず振り返り反論したい衝動を辛うじて抑え込んだ。
違う。違うのだ。
確かに、一回5000円はするランチは家計に厳しい。でも、ランチを一緒にしないのは純粋に彼女たちと一緒にいたくないからだ。そう大声で言えたらどれだけすっきりすることだろうか。
縁はマンションの角を足早に曲がったが、ひそひそ声は執拗に追いかけてきた。
「その点、国家公務員の姥城さんのところは安泰ですわよね。世の中がどんなに不景気でもちゃんとお給料もボーナスも満額で支給されますもの。世間の風当たりは強いでしょうけど」
「いえいえ、うちのところなんて、起業されている高橋さんのところと比べるべくもありませんわ。最近のテレワーク施策が追い風になっているのではありませんか?
IT会社の一人勝ちですわよねぇ」
会話は、いつものマウントの取り合いに変わっていた。姥城さんと高橋さんは表面上は仲良く付き合っているがその実はグループ内の覇権を激しく争っている。最近は特に激しい。どうせランチに行ってもテーブルの周囲に形容しがたい一瞬異様な雰囲気ができるだけだ。両陣営のメンバーならば参加しないわけにはいかないだろうが、中立である縁には苦行でしかない。
大枚をはたいて、なにゆえそんな罰ゲームのようなものに参加せねばならないのか?
それが縁の本音だった。
なんにしても、矛先が自分でなくなったことにほっとしながら、降りてくるエレベーターを待った。エレベーターは4階付近で止まったまま、一向に降りてくる気配がなかった。縁はイライラしながら▼ボタンを連打する。と、ようやく表示が3階に変化した。
「毎年社員たち全員集めて忘年会をやるんですけど、今年は時流的にVRにしたんですの」
縁は思わず振り返った。声が驚くほど近くで聞こえたからだ。まるで耳元で囁かれたようだった。しかし、エントランスには誰もいなかった。
「それはそれは。経費が浮いてなによりですね。そんなおためごかしするぐらいなら、ボーナスを弾んで上げればよいのに」
「いえいえ、VRのシステムを構築するのが大変で、むしろ経費がかかってるのですよ。上手くいったら、市場に投入するんだと息巻いてました。まるで、小さな子供ですわ」
風のイタズラなのか、どうしてこんなに離れているのにこうも彼女たちの声が聞こえるのか、薄気味悪かった。ぶるぶるも頭を振ってまとわりついてくる声をふるい落す。
ガチャリ
エレベーターが音を立てて開いた。
縁は急いで乗り込もうとしてギクリと足を止めた。エレベーターの奥から黒い塊のようなものがのそりと外に出てきた。
男だった。
バサバサの髪に、黒っぽいジャンバーを羽織り、黒いマスクをしている。黒ずくめの中、やはり黒目ばかりが目立つ二つの眼が下から探るような視線を縁に注がれていた。
縁は蛇に睨まれた蛙のように動けずにいると、男はゆっくりとエレベータから降りてきた。
それを切っ掛けに呪縛がとけた。縁は慌てて横へどく。男はゆっくりと横を通りすぎていった。瞬間、今まで嗅いだことのない奇妙な匂いがした。
空が赤かった。
夕日に照らされ、赤と橙色の斑に染まった雲がぐるぐると渦巻いていた。まるで血を白い脂身に垂らしてかき混ぜたようだった。
姥城登紀子は気がつくと、そんな薄気味の悪い空を呆けたように見上げていた。
辺りを見回すと、そこはマンション近くの河原だった。夕暮れ時で人気はなかった。
みんなでランチに行った後、夕食の食材を買いに出たはずだが、そのあたりで記憶はふっとり途切れていた。なんでこんなところに1人で、しかも手ぶらで立っているのかどうしても思い出せなかった。
ぶるり、と身を震わせた。
この時期は日が暮れると急激に気温が下がる。
とりあえず、家に帰ろうと、登紀子は思った。帰って、ジャワーでもお風呂でもいいから体を温めたかった。夕飯の支度などどうでもよかった。
まったくお前は怠け者を役立たずだな
頭の奥で夫のなじる声が響いた。登紀子はふるふると頭を振り、その声を頭から追いだし、歩き始めた。だが、少しも行かないところで、河原からマンションへ向かう坂道のところで、登紀子の歩みは止まった。
坂道の丁度上り切ったところに人影があった。
黒い影だけの姿は相手が男なのか女なのかも判然としなかった。真っ赤な夕日を背景にしたその姿はじりじり燃える炭のようにも見えた。
背筋に冷たいものを感じ、登紀子は再び体を大きく震わせた。さっきの寒さからくるものとは違う震えだった。なにか底の知れない気味の悪さがその黒い影から漂ってくる。なにか先を進むのが躊躇われた。
とはいえ、このままじっとしているわけにもいかなかった。
「あの…… なにか御用ですか?」
とりあえず、登紀子は、正体の知れない者に声をかけた。
返事はなかった。
焦れた登紀子が一歩前に踏み出そうとしたその瞬間。
「知ってるぞぉ」
野太い声が辺りの空気を震わせた。
「なッ?!」
決して大きな声ではなかったのに、まるで近くに雷が落ちたかのようなショックに、登紀子は一歩後ずさった。
なにを知っているのか、と問いたかったが口が強張って、声にならない。
「知ってるぞぉ」
再び空気がびりびりと震える。
ぶわりと、シルエットが大きくなった。
「お前が毎晩、亭主に殴られているのを!」
なんでその事をしっているの?
と、登紀子は驚きで目を見開いた。
無意識に二の腕の服に隠れた痣をさすった。
「外面だけ取り繕ったその仮面の下
知ってるぞぉ~」
声が周囲を震わす度に影がぐいぐいと大きく高くなっていく。
……
一体、これはなに?
もうのけぞるようにしなくては見上げることもできないくらいに成長した影を前に登紀子はパニックになる。しかし、足は根が生えたようにぴくりとも動かなかった。
「知ってるぞぉ~」
お前は本当に馬鹿だな!
「知ってるぞぉ~」
一日中、家にいるんだから家事ぐらいちゃんとやれ!
「知ってるぞぉ!」
影の声と夫の罵声が交錯する。影はすでに天をつくほどの高さになっていた。
こんなことはあり得ない。私は一体何を見ているんだ。そう思った時だ。登紀子はバランスを崩して、後ろに倒れこんだ。そこへ影が覆いかぶさってきた。
間近に迫る影の顔を見て、登紀子は悲鳴を上げた。次の瞬間、喉に激しい痛みを感じた。助けを呼ぼうとするが、声にはならず、だた、ごぼごぼと血の泡が吹き出て、地面を赤く染め上げた。
姥城登紀子の死体が発見された。
場所は前回の殺人事件のあった場所と同じ。
殺され方も同じ。
喉を嚙み切られての窒息死だった。
当然近隣は大騒ぎになった。警察のパトロールが頻繁に通るようになり、私服警官やマスコミ関連の者たちが近隣を嗅ぎまわるようになった。縁たちのグループの話題もそれ以外の話がでることが少なくなった。
「姥城さんのところの旦那さん、警察に任意で事情聴衆を受けたんですって」
「じゃあ、旦那さんが犯人?」
「違うみたい。事件が起きた時には旦那さんは仕事で、証人もたくさんいるらしいわ」
「じゃあ、なんで呼ばれたの?」
情報通の新居朋子の声が一段小さくなり、グループの輪が一回り縮まる。
「それがね、登紀子さんの体に直接死因とは関係ない傷がたくさんついていたんですって」
「……え、それって……」
最初は驚き、次にああ、そうなのという了解。そしてそれはすぐに底意地の悪い嘲笑と嫌悪の感情で受け入れられていく。
「そうそう、DVよ。登紀子さん、どうやら旦那さんから暴力をうけていたいみたい」
「あらまぁ、真面目で優しそうな旦那さんだったのに、意外ね」
「人は見かけによらないっていうのかしらね」
「お役所勤めはやっぱりストレスがたまるからじゃないの?」
「登紀子さん、そんな素振り、ちっともみせなかったわよね。いつも私は幸せですって顔してた」
泰江がどこか満足気にふんと鼻を鳴らした。
「ああ、でも、前に一度、顔に大きな痣を作ってなかった?」
「あった、あった。転んだっていってたけどねぇ」
「でもさ、もしも旦那さんが犯人じゃないとなると、連続殺人犯がまだこの辺をうろついているってことじゃない?」
「そうなるかしら」
「いやだ、怖いわ」
「そうね。あら、縁さん、どうしたの顔色が真っ青よ」
泰江がふときづいたように言った。実際、縁はすこぶる気分が悪かった。
「ごめんなさい、なんか眩暈がひどくて」
「あら、ストレスかなにか? なんていったけ、メニなんちゃらとかいう病気あるじゃない」
「メニエール病!」
「それ、それよ!」
朋子の言葉に我が意を得たりとばかりに破顔になる、皆が一斉にケラケラと笑った。
縁は、悪意にまみれた笑い顔が頭上でぐるぐると回っているようなそんな錯覚に陥った。
「ごめんなさい。わたし、ちょっと、ごめんなさい」
自分でも良く分からない言葉を発すると、縁はグループの輪から離れた。
「ねぇ、ランチはどうするの~?」
「もう! やめなさいよ」
足早に立ち去ろうとする縁に背中に言葉が突き刺さってきた。
「でもさ、最近、昼時になると気分が悪くなるみたいねぇ、彼女」
「え、それ……仮病?」
驚き、訳知り顔の了解、そして嘲笑。
水面に石を投げ入れてできた波紋のように滑らかな感情の動きがグループ内に滑らかに伝播していく。
魔女狩り。
生け贄さがし。
搾取されるものは容赦なく踏みつけられ、見下される。
「ランチ代、ケチって仮病?!」
「ああ、あるかも~。あはははは」
言葉が、笑いが追いかけてきてまとわりつく。
あははは
あははは
あはははは
嘲笑がぐるぐる、ぐるぐる踊る、舞う。
知ってるぞぉ!!
野太い声が頭の奥で響く。
悔しさに、縁の奥歯がぎりっと軋み、割れた。
縁は自室へ戻るなり、トイレへ駆け込み、吐いた。
どのくらい経ったのか、まだ少しふらつく体でトイレからリビングへ向かう。
口中がすえた味に満たされ、喉がひりひりと痛んだ。お茶が飲みたかったが、冷蔵庫から取り出す気力も今はなかった。そのまま、椅子へ倒れるように体を預けた。どうやら胃の中身だけではなく体力と気力も一緒に吐き出したようで、なにもする気が起きなかった。
そんな中、縁は不意に、すんと鼻を鳴らした。
なにか嗅ぎなれない臭いがしたからだ。
嗅ぎなれないが初めてでもない。
つい最近どこかで嗅いだ記憶があった。
縁は落ちつかない様子で部屋を見回し、臭いの出所を探る。
ことり、と微かな物音がした。隣の部屋からだった。縁は少し悩んだ。正直、このままなにもしないでじっとしていたかった。半面、高ぶった神経は真意を確かめろと責め立ててくる。しばらく、相異なる思考のせめぎ合いの後、縁はだるそうに椅子から立ちあがると、ゆっくりと音のした部屋へ歩いていく。
少し臭いが強くなった気がした。
開けようとしたその時、戸が開くと、奥から黒い影が飛び出てきた。
縁は何の抵抗もできずにそのまま、床に押し倒される。重いものが体に乗りかかり、口元をざらざらとした手が塞いだ。さっきの臭いがむわっと鼻をつき、収まっていた吐き気がぶり返してきた。
なんで、かえってくるんだ
こいつらランチにいってるんじゃないのか
どうする、見られた? 見られた?
このままだとばれちまうぞ
どうする
どうする
頭の中に、声がわんわんと響いた。
なにこれ?
頭の中で、縁は戸惑いの声を上げていた。
押し倒されたことではない。黒い影が男であることはすぐに分かった。たぶん、以前エレベータですれ違った男だということも嗅ぎなれない臭いからすぐに理解できた。戸惑ったのは。頭に流れてくる不思議な声だった。
これって、この男の心の声?
理由はわからなかったが、どうも男の心が自分の頭の中に流れ込んでいるのだと、なんとなく理解した。
この売女
男の心の声に縁はびくりと体を震わせた。
しこたま稼いでいると思ったのにしょぼくれていやがった。その上、不意のご帰還ってか?
ハズレにも程がある
この男、知っているの?
と縁は驚愕する。
この男は私の秘密を知っているのだ。縁は確信する。ならば……
知ってるぞぉ
野太い声が、目の前の男とは違う声が響き、ズキンと頭が痛んだ。
と突然、上に乗っていた男が驚いたように飛び退いた。
「なんだ……?」
そして、呟く。
その瞳は理解できないものを目の当たりにした人間の恐怖の色を帯びていた。
縁はゆっくりと上半身を起こした。
知ってるぞぉ!
頭の中でぐわんと声が鳴り響いた。
「うわ?! うわわぁ」
男が突然声を上げてベランダに向かって走り出した。そして、そのまま柵を乗り越え飛び越えた。
柵から下を覗きこむと、救急車やパトカーが何台も止まっているのが見えた。赤いライトがくるくると静かに回っていた。
その年配の刑事はふうと大儀そうにため息をつくと部屋に戻った。部屋には三十代ぐらいの女が一人、放心したように椅子に腰かけていた。真っ白な顔色に目の下に隈が浮いている。ひどい面相だが、それは女が不美人だからではない、元はむしろ美人の部類だか立て続けの不運が彼女を打ちのめしたせいだと、刑事は結論づけた。
「さてと……」
事情聴取は終わっていたが他に聞くことがないかをもう一度確認する。
名前は大村縁。
話によると、部屋に戻ったら男がいて、突然襲われた。戻った時刻も、聞いている。その後、理由は定かではないが男はベランダへ走っていって飛び降りた。
「ここが良くわかんねぇんだよな」
自分のメモを見ながら刑事はつぶやいた。
「焦っていたからって6階から飛び降りるかね?」
自問する。
それとも何かに驚いてパニックに教われていたのか?
しかし、では何を恐れたというのか?
刑事は部屋にいる縁にもう一度目を向けた。大の男をパニックにするようには見えなかった。
「おやっさん」
思考を中断した刑事は声の主に応えた。
「おう。○害のこと、何か分かったか?」
「はい。このマンションの5号館の住人ですね。
名前は秋山。
どうもこのマンションで時折起きている空き巣の被疑者の一人で、2課の連中が内偵してたらしいです」
「そうか。被害者でかつ被疑者ってことか。
と、なると。秋山が仕事の最中に大村さんが帰ってきたので慌てて逃げようとして誤って転落した、ってところか」
「状況的にはそうですね。ただ、ちょっと気になることがあります」
「気になること?」
「例の連続殺人事件。最初の被害者と彼女につながりがあるみたいなんです。
例の主婦売春グループの連絡網に名前があるんですよ。そして、2番目の被害者。その女性とも面識があるみたいです。こっちは普通のご近所さんのグループみたいですね」
「おいおい、本当か? まさか彼女が二人をやったなんていうのか?」
「それは、なんとも」
「なんにしても二つの事件の接点になる人物ってことか。それじゃあ、その点を踏まえてそれとなく探りをいれてみるか」
年配の刑事は、そういうと手帳をしまい、再び縁の方へ近づいていった。
夕暮れ時。
縁は当てもなく歩き続けていた。刑事との尋問めいた質問の嵐に精も根も尽き果てた、といったところだった。
何故か、例の殺人事件のあった時刻に何をしていたのかとかを執拗に聞かれた。そんな質問をされたことも驚きだったが、その辺の話になると自分の記憶がことごとく曖昧になっていることに縁自身が驚かされた。思い出そうとすると眩暈と頭痛に襲われた。そこで近々の体調不良が、殺人事件にかかわると起きることに気づかされた。
先ほどの頭の中で聞こえてくる声にしろ、まるで自分の中に、別の存在が巣くっているのではないか、と内心恐怖にかられていた。
一体、私はどうしてしまったのかしら? もしかして病気なのかも…… 一人思い悩んでふらふら当てもなく歩いているそんな時だった、ばったりと泰江と出会ってしまった。
「あら、まあ、縁さん。聞きましたよ。大変だったそうね」
泰江の方はむしろ嬉しそうだった。予期せず格好の獲物を見つけた肉食獣のようだった。
縁の方は、空き巣に入られたことはもうマンション中に知れ渡っていることが分かり、うんざりとした。
「無事で何より。
でも、押し入った空き巣は慌てて逃げる時にベランダから落っこちたんですって?
間抜けねぇ。
ま、縁さんのところを狙った時点で間抜けですけどね」
泰江の声が無遠慮に縁のささくれた神経を逆撫でにしてきた。いつものマウント。いつもならば曖昧な態度で受け流すのだが、今は縁のほうの許容値を越えていた。
「なにがです?!」
思わず、言ってしまった。想定外の反撃に泰江は一瞬目を見開いたがすぐに口元を歪めたようなうそ寒い笑みを浮かべた。
「なにがっておっしゃるの?
そのままの意味ですわ。色々と家計が最近お苦しいのでしょう。
私、存じ上げてますよ。朋子さんからちょっとだけ聞いたんですけど。縁さん、あなた、例の殺人事件の最初に殺されたかたとお知り合いだそうね。あの方、いかがわしい人たちとおつきあいのある人だったって知ってて?
それとも……縁さんもいかがわしい方なのかしらねぇ」
知られた!
例の訳知り顔の微笑みに縁に絶望の淵につきおとされたような衝撃を受けた。知られてしまったらもう二度と這い上がることもできない。ここにいる限り一生見下されることになる。ぐらぐらと立っている地面が崩れ落ちていくそんな感覚に襲われた。なにより、こんな下劣な者どもに頭を押さえられるなんて我慢ならない。
なにか、こいつらを見返すなにかがあれば、と縁が思った時、再び謎の声が頭に響いた。
知ってるぞぉ!
何を知っているというのか? と問おうとした瞬間、頭の中に様々な声が流れ込んできた。
なに、この写真は。この女、だれよ? それにこの子供…… まさか、あなたの子じゃないでしょうね!
泰江の声だ。
いやよ、なんで私があんたのお義父さんの介護しなきゃなんないの? 長男? 関係ないでしょ。そんな話聞いてないわ。
これは朋子の声。
他にも様々な怒号、嘆き、愚痴がどんどん縁の頭にねじ込まれていく。それはマンションの住人たちの心の声。
縁がそれを理解した時、再び、あの野太い声が響き渡る。
知っているぞ、知っているぞ。
俺は何でも知っているぞぉ~
まるで頭の中に雷が落ちたかのような衝撃とともに、縁の脳は沸騰する。激しいめまいに世界がぐるぐる回る。いや、実際に回っていた。
空が、夕日にうすく染まった空がぐるぐるとかき混ぜられていく。渦を巻き、黄色がちだった色合いがオレンジ色に変わり、朱色と変じついに、ついにどす黒い血の色へと変貌する。
ぶわりと体が宙に浮く感覚に縁は襲われた。
いや、宙に浮いたわけではない。足はしっかりと地面についている。それなのに視点がぐいぐいと上がっていく。
知っているぞぉ~
頭で鳴り響いていた声が、自分の口から絞り出ていることに縁は気づく。これは一体誰の声なのだ。本当に自分の声なのか?
知ってるぞぉ~ 人生の勝ち組気どりの高慢女 夫が外に女を作っていることも知りもしないで
知ってるぞぉ~ 知ってるぞぉ~
体が空に伸びていく感覚、そして、目の前の泰江がどんどん小さくなっていく。その快感に縁は恍惚となる。ああ、なんて気持ちがいいのだろう。人を見下すということは。
いつも人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている泰江の顔が恐怖で醜く歪んでいた。今にも目玉がこぼれ落ちそうだ。
知ってるぞぉ~ やがて、おまえは捨てられて、なにもかも失う。 いずれお前も私と同じだ
ぐぐっと上から顔を近づけてやる。と、泰江が逃げようとして転倒した。なんと無様な姿だろうか。
うあはははは
腹の底から爆発的な笑いがこみあげてくる。そのまま、縁は泰江の白い喉笛に歯を突き立ててかじり取った。口中に血であふれる。そのままごくりと飲み込む。生暖かい鉄気の液体。
甘露なり
妖怪見越しは舌鼓をうつ。そしてぐるりと首をマンションへと向けた。
さあ、次だ
次はだれを見下してやろうか。知っているぞぉ。お前たちの薄っぺらい自尊心など、風に舞う塵ほどの重さもないことを。そして、その腐った血を、肉を食らってやるわ
血をかき混ぜたような赤い夕暮れの中、妖怪見越しは、冷たく硬いマンションの群れにむかって一歩足を踏み出した。
あらゆる者を見下し、支配するために。
2021/11/30 初稿
次回は『蛇骨婆』




