その十一 橋姫
『橋姫』三部作
最終です
じりじりと照りつける太陽に大橋巡査部長は全身から汗がにじむのを感じていた。昨夜の大雨が嘘のような快晴だった。
「全くよ、晴れるんならもっと早くに晴れろっていうんだよ」
昨夜の雨の中の現場保全の苦労を思いだし大橋は小さく毒づいた。眼前では彼の部下たちが現場検証に勤しんでいる。
目の前の事故車は橋の支柱に真っ正面からぶつかっていた。現場のタイヤ痕から昨夜の集中豪雨でハンドル操作を誤っての事故と思われた。
それは分かるんだが、と大橋部長は落ち着かなさげに体を揺すりながら思考を巡らせる。
車の損傷から察するに事故当時、車はそれほどスピードを出してはいないようだった。怪我はすれども普通なら死亡事故には至らない程度だ。だが、実際には死者が出ていた。死亡したのは女が一人。
この死に方も妙だった。
事故現場の数十メートル後ろで内臓を撒き散らして死んでいた。腸が全部引き出されていたり、子宮が遺体から数メートル離れたところに転がっていたりするのを見る凄惨な現場だった。長年交通課畑で事故現場を見慣れていた大橋巡査部長でも初めての経験だった。
遺体の損傷が酷かったから、最初は事故を起こした時に車から放り出されたのかと思ったが、座席に残る大量の血痕から事故の後に車から自力で這いずり出て力尽きた、と考えるしかできなかった。それでも細々したことが理屈に会わずしっくりしないことが沢山あった。
「なにか分かったか?」
検証をしている若いのを捕まえると大橋は聞いた。しかし、首を横に振るばかりだった。
「なんだか良く分かりませんね。エンジンのところは結構潰れてますが車内はほとんど無傷です。エアバッグも正常に機能しているし、シートベルトもちゃんとしていたみたいですから、そもそもなんでお腹が裂けるような大怪我を負ったのか分かりません。それに現場を見る限り自力で這いずったというより引きずり出された、という感じです」
「引きずり出されたって誰にだよ?」
「う~ん、分かりません。誰か、とかしか言いようがないです」
「誰か、ねぇ……
例えば運転してた奴、とかか?」
「可能性はありますが、断定できません」
大橋巡査部長がそんな質問をしたのには理由があった。つまり、車を運転していた人物が見当たらないのだ。
車の登録から所有者はすぐに分かった。東尾高之なる人物だ。
島のホテルに昨日まで死んだ女と一緒に滞在していたところまでは調べがついていた。
帰る途中で事故にあったのだろう。
ならば、事故の時に運転していたのは高之で間違いないのだろう。そして死んだ女は高之の妻。と、思ったのだが違っていた。高之の妻は現在入院中とのことだった。女房が入院中に別の女と旅行とは良い身分だな、と最初聞いた時は呆れたものだ。
気が進まないが夫が事故を起こしたことを入院している妻に知らせるように部下に命じたのだが……妻は妻で行方不明になっていた。
『行方不明?』
『はい、入院していた病院から突然いなくなったそうです。病院のほうはほうで、そもそも、奥さんはずっと意識不明で病院を自力で抜け出すことなんてできないはずっていってましたね。
ま、それはそれとして、病院の方もそのことを連絡しようとしていたらしいのですが、当の東尾高之と一向に連絡とれなくて困っていたそうです』
部下との会話を大橋は反芻する。
一言で言えば、訳が分からない、だ。
そもそも東尾高之の行方が分からないのとその妻が失踪したことに何か関係があるのか、そるともなんの関係もないのかも分からなかった。
それでも、大橋の頭には、不倫の精算のための無理心中、或いは事故に見せかけた偽装殺人の線が浮かんでいた。
「大橋さん。欄干のところに変な傷があります」
部下の一人がそう報告してきた。
大橋が欄干を確認すると確かに真新しい傷があった。欄干から下を覗いてみた。しかし、見えるのは海面ばかりだった。
無理心中ならば愛人を殺した後、ここから海に飛び込んだかもしれない。或いはそう見せかけているのかも知れない。
「ちょっとこの下をさらうか」
「えっ? 橋の下をですか?」
「そうだ。もしかしたら海に飛び込んだかもしれん」
「ここ、潮の流れが早いから、もし飛び込んだとしたらもう太平洋の遥か彼方ですよ」
「やってみたら何か出てくるかもしれんだろう。いいからやるんだ」
「何かある!
おおーい! 柱の根本に何か沈んでるぞ」
船を使って橋の下をさらい始めて数時間経過した頃、捜査員の一人が大声が上がった。直ちにダイバーが潜る。
やがて、「柱の根本に男が引っ掛かってるようです」と大橋巡査部長に報告された。
「すぐに引き上げろ」
部下に命じる。
偽装殺人ではなく無理心中の線だったか。なんにしてもこれでこの事件も一段落
と、大橋巡査部長はほっと安堵のため息をついた。しかし、男の引き上げは難航した。何時間も、沢山のダイバーが入れ替わり、立ち替わり海に潜り作業を続けた。痺れを切らした大橋は作業責任者のダイバーに説明を求めたが、言葉を濁すと理由は男を引き上げてから説明するの一点張りで要領を得なかった。それが余計に大橋の神経を苛立たせ、遂に船に乗り込み男の引き上げに直に立ち会うことにした。
「よおぉーし! 引き上げろ。ゆっくりだ!」
引き上げ責任者の合図で船上のクレーンがゆっくりと動き出す。ギリギリと軋みながら鎖が巻き上げられていく。
作業を見守る大橋はたかが男を引き上げるのになんでこんなに大袈裟な重機を使わなければならないのかさっぱり理解できなかった。
やがて、水面に男の姿が現れた。水を吸ってはち切れない膨れ上がっていた。潮の流れが早いので服は脱げているようで上半身は裸だった。
「うん? なんだ?」
水面に男の下半身が現れた時、大橋はその異様な光景に目を疑った。男の下半身は何か覆われていた。
「フジツボだそうです」
引き上げ責任者が耳元で囁いた。
「フジツボ……? いや、事故があったのは昨日だろ。なんでフジツボがあんなにくっついているんだ」
「私に聞かれても何にも答えられませんよ。
事故があったのが昨日だろうがなんだろうがあれはフジツボの塊なんです。発見した時、あの男の下半身にはあんな風にフジツボの塊がびっしりついた状態で海底に埋まっていたんです」
船上に引き上げられた男を間近に見ると確かに付着しているのは無数のフジツボだった。それは間違いない。
「確かにフジツボに見えるが、これって本当に、本当に……」
しかし、大橋は男を、男の下半身の付着したフジツボを見て絶句する。引き上げ責任者が当惑する大橋に向かって何か怒ったような口調で言った。
「だから、フジツボなんですって。
例え、フジツボの形がどう見ても女がしがみついているように見えたとしても、これはフジツボなんです。単にフジツボの塊が偶然、そんな形に見えるに過ぎないんです!」
大橋は、死んだ男と引き上げ責任者の顔を困ったように見比べる。そして、最後に女、フジツボの塊、に目を向けた。
女は口を開け、嬉しそうに笑っていた。
月の無い夜のことだ。
男が一人歩いていた。そこは本州と孤島をつなぐ長い橋の上だった。それだけでも奇妙なことだったが男の服もまた奇妙だった。まるで平安絵巻から抜け出てきたような衣装だった。
男は橋の丁度真ん中に辺りに来ると、高くそびえる橋の支柱に向かい拝礼をする。
男の名は日伊良木智哉。
陰陽師である。
智哉は足を踏み鳴らしながら聞き慣れない呪文を口承する。数分程それを繰り返すと目の前の柱がぼうっと淡い光を放った。
光の中にうずくまった女がぼんやりと現れる。女は顔を伏せたまま、宙に浮いていた。
「東尾靖子さんですね」
智哉は静かに女に向かい声をかけた。
しかし、女から返事はなかった。少し待ったが返事がないので智哉は再び問いかけた。
「靖子さんなのでしょう?」
「既にその名は捨てました」
女が答えた。
「我が身と命をこの橋に捧げ生まれ変わりました」
「死霊に成りて自分の思いを通しましたか……」
「死霊?」
智哉の言葉に靖子だったものは小首を傾げた。
「我を死霊と申しますか」
「違うのですか?
人を恨み、妄念に囚われて、未来永劫苦しむ浅ましい存在成り果てた」
バチン!
智哉の目の前に突然青白い火花が散り、数メートル程弾きとばされた。
「ぬう」
智哉の顔に苦悶表情が浮かぶ。
「我を死霊どころか浅ましい存在と呼ばわるとは無礼なり!
我は男女の契りの守り神になると誓いてこの身を捧げた者なり。契り守りし者を守護し、破る者には破滅をもたらすものぞ!
下賤な陰陽師ごときが、身のほどをわきまえよ」
靖子だったものはかっと目を見開き、口は耳まで裂け、凄まじい形相で智哉を睨み付けた。
なんと妄執が高じて鬼神に変じたか
これほどの力とは、全くもって見誤った
さすがの智哉も心胆を凍えさせた。
「申し訳ございません」
圧倒的な力の差を理解した智哉は即座に詫びた。靖子だったものはひたすら平伏する智哉をまるでゴミを見るような目で見下していたが、吐き捨てるように言った。
「疾く去ね」
「はっ!」
智哉は、恥も外聞もなく一目散に逃げ出した。逃げながら、思った。
げに恐ろしきは女の一念であると
☆
「あっ、ここ深夜は無料になるんだ!ラッキー」
橋の料金所の横の看板を見た美琴が妙なテンションで叫んだ。
「さっ!だして。えっと、ここから数えて四本目の柱のところで止めてね」
ノリノリの美琴と対称的に車を運転する安住隆行の顔は疲労と困惑で暗く落ち込んでいた。
「なあ、本当に行くのかよ。もう、夜中の零時過ぎてるぞ」
「えーー、何いってるのよ。むしろここまで来て引き返す方がワケわかんないよ。
もう後ちょっとなんだから、ほら頑張る!」
やがて美琴たちは目的の場所にたどり着いた。
「さぁさぁ、お祈りしましょ!」
美琴は車から降りると橋の支柱に駆け寄った。
「私たち結婚します。私、田端美琴は一生浮気せず、安住隆行を愛することを誓いまーす!」
柱に向かい手を合わせ、高らかに宣言した。
「さ、隆行もやって!」
「えー、なんかバカらしくね?」
隆行は完全にテンションが下がっている。
「何よ! 約束したでしょ。ほら、ちゃんと守ってちょうだい」
「う~ん、しょうがねーなぁ……」
隆行はぐだぐだ言いながらも手を合わせると言った。
「安住隆行は田端美琴を愛することを誓いま~す。
これで満足? 満足した? じゃあ、帰ろうぜ」
隆行はそそくさと車に戻った。美琴は少し不満そうな表情を見せたがやがて車に戻った。
「あっ、ちょっとごめん、メール来た」
車を出そうとした時だった。隆行はポケットから携帯を取り出すとSNSを確認する。
《今度の土曜日、いつものところで》
そう表示されていた。
「オッケー、ほいじゃあ行こうか」
隆行は車を発進させた。
少し車を走らせてから隆行は思い出したように行った。
「あのさぁ、今度の土曜日、映画行く予定だったじゃん? あれな、ちょっとキャンセルして良いかな」
「えっ? だって……なんで?」
「ああ、仕事だよ。先輩が都合が悪くなってさ、どうしてもシフト代わってくれ、言われたんだよ」
「嫌よ! そんなの断ってよ」
「バカ! お前、そんなことしたら俺の職場の立場が悪くなるじゃねーかよ。
俺のことを思うんなら、我慢しろよ」
「う~ん……
もう! 仕方ないわね。いいわ! でも、この埋め合わせはしてもらうからね」
「おお、さすが美琴。分かった、約束するわ」
車は橋を越え、元来た道を一路突き進んで行った。
ザブリ
橋の欄干を濡れた手が掴んだ。
ずるりと橋の上に女が転がり落ちる。
全身ずぶ濡れの女はゆらゆらと立ち上がると、歩き始める。先程の車を追いかけ、その女は歩き続ける。男女の誓いを破る者に破滅をもたらすまで、その歩みは決して止まらない。
それこそが『橋姫』の願いなのだから。
2020/11/15 初稿
次回は
『見越し』です




