その十 死霊
朝からどんよりとしていた空からポツリポツリと雨が降りだした。男は料金所の窓から手を出して雨の降り具合を確認する。
「おや」と男は呟いた。
橋の歩行者専用通路を白いものがゆらゆらと動いているのが見えた。
人だ。
島と本州をつなぐこの橋は自動車は有料だが人は無料だから、別に橋を歩いて渡るのは何の問題もない。だが、白い影は男のいる本州側の料金所から島に向かっていた。つまり、一度は目の前を通りすぎているはずなのだが、男にはまるで記憶がなかった。
男は目を凝らした。
背格好から察するに女のようだ。上から下まで真っ白な服を着ていた。
白装束?
男は頭に浮かんだ単語をすぐさま否定する。
ここは瀬戸内海のしがない小島だ。すぐ近くの四国ならいざ知らず、お遍路様でもあるまい。
遠目でワンピースか何かがそう見えるだけだろう。それよりおかしいのは女が傘をさしていないことだろうか?
雨脚は傘をささずに歩くには少し強い。それともやはり遠目にそう見えるだけで安手のビニール傘でもさしているのだろうか。
男はもう少し良く女を見ようと身を乗り出した。
ザーーーーー
雨脚が一際強くなり女の姿を覆い隠した。
男はあきらめて腰を落とすと水筒から眠気覚ましのコーヒーをカップに注ぎ、口に含んだ。
熱いコーヒーを飲み終える頃には男は女のことなどすっかり忘れていた。
東尾高之はベンツから降りると正面に立ち塞がる石段を見上げた。
ろくに舗装もされていない田舎道を延々と走らされた結果の終点がここだ。正確にはこの半分朽ちかけた階段の先にある庵に住まう人物に会うのが目的だった。
駐車場のようなものを求めて周囲を見回してみたが剥き出しの地面や自然の繁茂に任せた薮ばかりだ。
高之は路駐を決めこむと車を降り石段を上り始めた。
梅雨入り前だというのに酷く蒸す日だった。
石段を数段上るだけで全身から汗が吹き出した。長い階段を上りきる頃には肩で息をするはめになった。額には玉のような汗が溢れている。二十代、三十代の頃にはテニスを欠かさず、体力にも自信もあったが、四十代になってからは仕事が忙しすぎてすっかり鈍ってしまった、と反省しながら高之は頬を伝う汗をハンカチでぬぐい、ため息をついた。
ようやく上り切るとすぐに社殿が見えた。片田舎の神社にしては存外大きな社殿だと、意外に思いつつ、高之はその横の社務所に向かう。
「ごめんください」
高之は入り口で声をかけて暫く待ったが人が出てくる様子がなかった。少し迷って戸に手をかけると何の抵抗もなく横にスッと動いた。
中を覗くと土間があり、細い木張りの廊下か続いていた。外の蒸した空気とは異なるひんやりとした空気が頬に触れた。
「すみません。電話でご相談させてもらった者です。どなたかおられませんか?」
前より少し大きな声で呼ぶとようやく奥から一人の若者が姿を現した。年のころは二十代。ねずみ色の作務衣を着ていた。神社の見習いか何かかと高之は思う。
「東尾高之です。神主さんにご祈祷をお願いした者です」
若者は高之を一瞬見つめたがすぐに興味を無くしたように視線を外した。何も言葉はない。
「失礼。予約はしていたはずだが聞いてないかな?」
「あー、聞いてますよ。中へどうぞ」
若者は無表情でそう言うとすたすたと奥へと引っ込んだ。高之は慌てて若者の後を追う。
薄暗い廊下を若者の後ろについていくと、これまた薄暗い部屋へと案内された。壁の一角に巨大な祭壇が組まれていた。
「ここで、少しお待ちください」
若者はそのまま立ち去ろうとして、立ち止まった。振り返り、「それから、神主じゃなくて陰陽師ね」と言った。
「えっ、なんだって?」
若者の紋切りな言い方に面食らい、高之は聞き返す。若者はめんどくさそうに小さくため息をついた。
「うちは神道だけでなくて陰陽道もやってるの。どっちかと言うとそっちが本業。だから、神主じゃなくて陰陽師ね」
「はっ?なんの……」
戸惑い聞き返す高之を無視して障子がストンと閉められた。
高之は言葉を飲み込む。先程からの初対面の若造の無礼な態度に苛立ちがつのる。察するにいわゆる会社の新入社員のような存在であろう。それにあんな態度を取られたら雷を落としたくなるものだ。
考えていると怒りが高じてきた。高之は小さく舌打ちをした。
神主とか陰陽師と大仰な看板だが、所詮は金をもらって祈祷をするのが仕事。いわばサービス業に過ぎない。あの若造の立場がなにかは知らぬが基本の接客があれではここの陰陽師様とやらの実力もたかが知れると高之は思った。
だが、そうだとするとそれはそれで困ったことになる、と高之は暗鬱な気持ちになった。
色々手だてを尽くして万策尽きてようやくたどりついだ最後の希望がここなのだ。役に立っめもらわなくては困る。
組んだ腕に思わず力が込められた時、障子が開かれた。
入って来たのは先程の若者だった。ただし、来ていているものは先程とは違う。白のたっぷりした袴に袖広の和装。頭にも被り物をしていた。若者は呆気にとられている高之を無視して祭壇の前まで進み、優雅な仕草で正座した。
「お待たせしました。私がこの北辰神社の宮司にして、日伊良木流陰陽道第三十一代目当主、日伊良木智哉です」
「えっ、あんたが?いや、あなたが、当主?」
「この無礼な若造がっ、と思われていましたか? 気になされず。慣れてますから」
日伊良木智哉はクスリともせず応えると高之に座れと促した。
「さて、ではご依頼の内容についてお話しましょうか」
「用件は伝えてあるはずだが」
高之は露骨に顔をしかめると言った。何度も話したくない。そういう気持ちが働いた。
「怪異に見舞われ、命の危険すら感じるから祓ってほしい。そう聞いております。しかし、今一度あなたの口からどのようなことがあったのかをお聞きしたいのです」
「大の大人が何度も話す内容ではない。馬鹿げた話しだ」
「馬鹿げた話?
でも、あなたご自身がその馬鹿げた話を信じてるからわざわざこんなところまで来たのですよね」
「それはまあ、そうなのだが……」
高之は口ごもる。智哉は背筋を伸ばしたまま微動だにせず待っていた。高之が語らなければなにもしないという無言の圧力があった。
「最初の異変は旅先のホテルでのことだった――」
高之は観念すると、訥々(とつとつ)と話し始めた。
「初めはホテルの一室だった。
夜中に見知らぬ女がバスルームに現れて、直ぐに消えた。
その次の朝、車の後部座席に座っているような気がした。それも直ぐに消えてしまったから、何かの間違いだと思ったんだ。
だが、その同じ日に……そう、レストランで天井からぶら下がっているのを目撃したんだ。
なんというのかな。レストランで食事をしようとしたテーブルの上を見たら、女がぶら下がっていたんだ。落ちてきたと思ったら消えてしまった。信じられないとは思うが、本当のことだ。
その後、知人がその女に襲われた。なんとか助かったが危ないところだった。
その後も色々な形で女は出没して来て困っているんだ」
高之はそこで言葉を切り、目の前に座る智哉を見た。智哉は黙ったままだった。視線の焦点があっておらず、どこを見ているのか良くわからない。高之はなんとも言えない居心地の悪さを感じた。
「お祓いをしたり、お札をもらったり。怪しげな霊能者に頼ったりもしたが全部役に立たなかった。それで色々な伝を探してようやくここにたどり着いた」
高之はじっと智哉を見つめた。だが、智哉は薄目を開けピクリとも動かなかった。先ほど飲み込んだばかりの怒りが振り返した。
「黙ってないでなんとかしてくれ。
私はそのためにこんなところまで来たんだ。有名な陰陽師なんだろ?
さあ、お祓いでもお札でも何だって良い。効果があるなら言い値を払ってやる」
「まだです。まだ、話は終わってない。続けてください」
怒鳴る高之に動じることもなく智哉はゆっくりと答えた。その落ち着き払った態度が余計に高之の怒りに油を注ぐ。
「もう全て話した。これ以上話すことはない」
「あなた、いやあなた達を襲っている女の正体についてです」
「女のこと、だと?
いや、知らない。皆目見当もつかない」
「それでは、あなたと一緒に襲われたという知人については?」
「知人? それが重要なことなのか?」
「重要なことなので聞いてます。答えたくないですか?」
図星をつかれて高之は口を閉ざした。額に今までとは違う意味の汗がにじんだ。智哉は片目を見開くと「ならば」と言った。
「ならば、後ろのご婦人に聞くことにしましょうか?」
「後ろの女?」
何を言っているの分からず、反射的に後ろを向いた高之はぎょっとなった。
真後ろ、それも手が届くほどのところに女がうずくまっていた。案内された時、部屋には誰もいなかった。智哉も一人で入ってきた。だから女が居るはずがないのだ。
女は土下座するように板張りの床に額をぴたりとつけていて顔は見えなかったがそれが誰なのか直感でわかった。
「や、靖子」
絞り出すような高之の声に女が反応をした。四つん這いのままズリズリと高之に迫る。まるで蟲が這いずるようだった。
「うわっ、うわっ、うわっ」
腰が抜けて立てない。尻餅をついたまま後ずさる。女にあっという間に詰め寄られた。高之に覆い被さると女はゆっくりと顔を上げる。
あの夜、バスルームで見た顔が再び高之の目の前にあった。こぼれ落ちて来そうな血走った眼が高之を狂気へと誘う。
「おおおおお」
女は大きく口を開く。
低い地鳴りのような声。
血のように赤い唇に縁取られた口腔から漆黒の闇が覗きこんでいた。それは地獄へ繋がる洞窟のようだ。そのまま飲み込まれてしまうような恐怖に高之はわななき、全身から汗を吹き出させた。
肩越しにすっと手が伸び女の額に添えられた。その指には白い札が挟まれている。
バチンと青白い火花が散った。
「うぎゃあ」
凄まじい悲鳴が部屋に響き渡った。
気づくと女はどこにもいなかった。
高之がぜえぜえと荒い息をついていると智哉が耳元で囁いた。
「今のあなたの奥さんですね」
その言葉に高之は振り向く。そして、まるで幽霊を見るかのような目で智哉を見つめた。
「どうしてそれを……」
「あなたが話している横で奥様はずっと恨み言を言ってましたよ。
今のは奥様の生霊ですよね。勿論、ご存知ですよね」
智哉の言葉に高之は再び部屋を見回した。また女が現れてきていないことを確認すると大きく息を吐いた。
「全てを話してもらわないと私も力にはなれないですよ」
「分かった。全てを話そう。どうやらあんたは本物のようだからな。
その代わり、絶対なんとかしてくれよ」
高之は念を押すように言った。
「確かに、あんたが言うように知っているよ。
あれは私の妻だ。名前を靖子と言う。生霊と言うのかな。
そうだな、大きな声では言えないが、私は浮気をしていた。
その、なんと言うか、そういう話は良くあるだろう?
男なら一度や二度はするものさ。ばれていないと思っていた。実際うまくやっていたんだ。それがなんでばれたのか皆目分からない……
いや、そんなことはどうでも良いな。
さっきの話で襲われた知人と言うのは、私の浮気の相手だ。
最初はエレベーターに乗っていたら後ろに現れたそうだ。その次の朝は階段を下りていた時に襲われた。話を聞いた時はまさかと思った。だが、自分もレストランで目撃した。
ここまではさっき話した通りだ。
その時、美桜は、あっ、ああ、もういいか。美桜と言うのは私の相手だ。とにかく、美桜に、女は妻の生霊ではないのか、と言われた。
私はそれを確かめるために美桜をホテルに残して家に帰ったんだ。
家には人気が無かった。色々探してようやく寝室で靖子を見つけた……
□
室室のドアを開けて覗くと中は真っ暗だった。「靖子?」と声をかけたが返事はなかった。誰もいないか、と思った時だ。
「う、ううううう、ううううううう」
暗闇からうめき声が聞こえてきた。
「靖子か? 居るのか?」
高之は部屋に踏み込むと明かりをつけた。視界が開けるとベッドの真ん中で靖子が横たわっているのが分かった。仰向けになり両手を胸の上で組んでいた。顔色は土気色で、まるで死人のようだった。
「靖子、大丈夫か」
声をかけたが返事はなかった。ただ、うめき声が小さく口から漏れ聞こえてくるだけだった。
高之は一瞬躊躇したが、靖子に近づくと体を揺すり、声をかけた。しかし、靖子は一向に目を覚ます気配を見せなかった。
一体どうなっているのだろうか、と高之は思った。かなり激しく揺り起こそうとしているからこれで目を覚まさない訳がないのだ。脳溢血と言う単語が頭をよぎった時、突然携帯電話の着信音が鳴った。
高之は舌打ちをすると携帯に出た。
「はい」
『私よ、美桜よ』
出るやいなや美桜の声が耳に飛び込んできた。
「今、取り込み中なんだ。後にしてくれ」
電話はこちらからかけるからするなと言ってなかったか? と少しイライラしながら高之は答えた。
『取り込み中なのはこっちの方よ!』
美桜の切迫した声が返ってきた。
『話を聞いて! あのね……カ、エ、セ』
カエセ……。意味不明だ。何を言っているんだ。
と高之は一瞬思った。その次の瞬間。
「えっ……きゃあ!(ガツン ガガガ)」
美桜の悲鳴、そして堅いものがぶつかる音が携帯から聞こえてきた。
おそらくは携帯を取り落としたのだろう。何か異常なことが起きているのは分かった。
「おい、美桜! 大丈夫か」
携帯に向かって高之は叫んでみたが返事はない。
『コロシテヤル』
「え?」
携帯から微かにそんな声が聞こえた。その声を聞いたとたん高之は腹の中に氷の塊を押し込まれたような感覚を覚えた。
「もしもし、もしもし、美桜、聞こえるか? 返事をしろ」
携帯にかじりつき美桜の返事を待った。しかし、聞こえてくるのは、遠くから途切れ途切れ聞こえる悲鳴、そして、つぶやくような、『コロス コロス コロシテヤル ……』、そんな声だった。
「美桜、見桜、おい、美桜」
『コロス ……』
何度も美桜の名前を呼ぶが返ってくるのは、しゃがれたつぶやきだけだった。それでも、高之は、何度も美桜の名前を呼ぶ。
『「ユルサナイ コロス ユルサナイ……」』
必死に名を呼ぶ高之はふとそのつぶやきが左の耳からも聞こえることに気がついた。携帯を当てている右の耳から聞こえてくるのは分かる。しかし、何故左の耳からもつぶやきが聞こえるのが。
はっとなってベッドへと視線を落として、ぎょっとなった。
さっきまで目を閉じ、うなっていた靖子がかっと目を、白目をむいて自分を睨み付けていた。
「や、靖子」
高之は声を絞り出す。恐怖で急速に力が抜けていくのを感じた。
「コロシテヤル!」
靖子は突然上半身を起こすしと、空をつかんで絶叫した。
「うわっ」
反射的に高之はのけぞる。
「コロス コロス コロシテヤル」
白目をむいたまま、両手で空をつかみぐいぐいを力を込める。まるで見えない誰かの首を締め上げているようだった。
いや、今、まさに締めているのか
高之ははっとなった。
靖子は本当に首を絞めているのだ。そう、遥か遠くにいるはずの美桜をくびり殺そうとしているのだ。
「やめろ! やめるんだ」
高之は靖子の両腕にしがみつき、懸命に靖子を見えない美桜から引き剥がそうとした。
「うああぁあ!!」
靖子は叫んで高之を振りほどくように体を揺すった。
「うわぁ」
普段では考えられない力で撥ねのけられ、高之は無様にベッドから転げ落ちた。それでもすぐに立ち上がると再び靖子へ飛びかかった。
「やめろ。目を覚ませ」
全力で体当たりして、高之と靖子はもつれ合ってベッドに転がった。馬乗りの格好になった高之は靖子の両腕をつかむと渾身の力で開こうとする。しかし、まるで鉄の棒のようにびくともしなかった。
「靖子、靖子。目を覚ますんだ」
しかし、いくら声をかけても靖子は一向に目を覚まそうとはしなかった。美桜のことも気になった。このままでは美桜が靖子にとり殺される。躊躇している場合ではない。
パシン!
高之は平手で靖子の頬を張った。
「起きろ、靖子!」
大声で叫ぶともう一度、平手打ちをする。それでも靖子は白目を向いたまま、ぶつぶつと呪いの言葉をつぶやき続けていた。
「起きろ 起きろ 起きるんだ」
「コロス コロス コロシテヤル」
高之は何度も靖子を打つ。頬がみるみる真っ赤になり、唇が切れて血が滲んだ。
「起きるんだ!!」
靖子の首に手を回すと高之はぐいと力を込めた。
「コロ……」
喉が潰れ、声が途切れる。すっと靖子の目に黒目が戻り、高之の方へ向けられる。
彫像のようだった靖子の体が不意に弛緩した。それでも高之は靖子を締め上げる力を緩めるめない。
「あ、あああ」
苦し気なうめき声が漏れ、両手が弱々しく高之の両肩を引っ掻いた。
ようやく高之は我に返り、締め上げていた手を離した。
「靖子……正気に戻ったのか?」
さっきまでの狂乱状態とは打って変わって、靖子はぐったりとしていた。ギョロりと黒目が動き、高之を見つめる。ゆっくりと口を開く。
「コホッ」
言葉を期待したが出てきたの軽い咳だった。
「ゴホ、ゴホ」
すぐに止まると思った咳は、止まることなくかえって激しくなる。靖子は体をくの字に曲げて激しく咳き込んだ。
「カハッ」
吐血した。ベッドのシーツが真っ赤に染まった。
「入院ですか?」
高之は目の前の医者に問い返した。
「吐血は急性胃潰瘍によるものですが、心臓や肺。腎臓、肝臓の機能が軒並み低下しています。どうしてこんなになるまで放っておいたのですか?」
医者は非難するような目を高之に向ける。
「いや、今日の朝は普通でした。体の調子が悪いようには見えませんでした。体調が悪いなんていうのも聞いていませんし、昨日の晩も今朝もいつもと変わりませんでした」
そう答えた直後、昨夜の晩、眠れないと言っていたのを思い出した。だが、言い切った後すぐに言い直すのも格好が悪く嫌だった。それに朝は確かに普通そうだった。体の調子が悪いとも言われていないのも嘘ではない。高之は、昨晩の記憶を黙殺した。
「顔に殴打のような跡がありましたが?」
「それは……」
医者の探るような視線に高之はたじろいだ。
「家に帰ってきたら妻がベッドに横になって、唸っていたのです。いくら声をかけても目を覚まさないので、その、起こそうと思って……」
「起こそうとして顔を叩いたのですか?跡が残るほど?
余り良い方法ではありませんですね。
それから。首や腕にもアザができていますけれど、こちらのほうは?」
医者は明らかにDVの類いを疑っているようだった。高之はあらぬ疑いをかけられ、恥ずかしさと憤りで全身がかっと熱くなるのを感じた。
自分は妻に、靖子に手をあげたことなどなかった。いつだって文句のひとつも言わずに従う女だった。だから、手を上げる必要など一度もなかったのだ。昨夜が初めてだ。いや、あれは異常だった。不可抗力だ、と高之は心の中で叫んでいた。
「突然、暴れだしたので、必死に止めようとしたのです。思ったよりも力が入ってしまったかも知れません」
嘘ではない。ベッドで寝ていた靖子がうわ言を言いながら暴れ出し、勝手に血を吐いて倒れたのだ。それは客観的な事実だ。
「本当です」
医者にではなく自分に言い聞かせるように高之は呟いた。
「まぁ、良いでしょう
とにかく、奥様は大変危険な状態です。
今は集中治療室で24時間の監視治療を行っております。容態が安定するまでは面会謝絶です」
医者の説明を聞きながら、ふと、美桜は無事だろうかと高之は思った。思い出すと無性に気になった。
「……1階の緊急外来の窓口のところに担当の看護師が居ますので、そこで入院の手引き書を貰ってください。正式の手続きは明日の朝でないとできませんので。それで……、東尾さん、聞いていますか?」
「あっ、はい。聞いています」
美桜のことで上の空になりかけていたのを目ざとく見咎められた高之は慌てて
居ずまいをただした。
「とりあえず、ここに緊急の連絡先を記入して下さい」
医者は説明を打ちきると一枚の書類を高之に手渡した。
「ああ、つながった」
1階へと下りる階段の踊り場で高之は安堵の声を上げた。
「無事か?」という質問に『大丈夫じゃないわ』とやや不機嫌そうな声が返ってきた。
『大変な目に遭ったわ。あなたの奥様に殺されかけたわ』
「ああ、知ってる」
高之はため息混じりに答えると、それまでのいきさつと今は病院から電話をかけていることを説明した。
「それで。君の方はどうだったんだ?」
『奥様が、いえ、奥様の霊が乗り込んで北のよ。ホテルの屋上まで逃げたけど、捕まって首を絞められたわ』
ベッドで虚空を掴んでいた靖子の姿がまざまざと思い出された。自分の直感は間違ってなかったと確信する。
「それでどうしたんだ?」
『どうしたもこうも。首を絞められて気を失ったわ。それっきりよ。気がついたら屋上で寝てた。奥様の姿はどこにもなかったわ』
正気を取り戻したから生霊が消えたのだろうか? と思ったが敢えて口にするのを止めた。
『ねえ、こっちに戻ってきてよ。私、怖いわ』
「いや、駄目だよ。これから入院の手引き書を貰ってから家に帰らないとならない。
入院の準備をやらなきゃならないんだ。着替えとか色々あるんだよ。
今夜は徹夜になりそうだ」
『丁度良いわ。だったら、迎えに来てよ。私が準備の手伝いをして上げるわ』
「なんだって?」
『迎えに来てって言ったのよ。私が奥様の服とかを用意するのを手伝うわ』
「いや、それは……不味いだろ」
『なんで? 奥さんは入院して家には居ないんでしょ?』
「それはそうだが……」
高之は言葉を濁した。靖子の居ない隙に美桜を家に上げるのはさすがに気がひけた。何か後ろめたい気持ちになる。
『じゃあ、すぐに戻ってきて。また、あなたの奥様が現れないとも限らないのだから。
あなたはそばにいて私を守る義務があるとは思わない?』
たちまち美桜の反論が返ってきた。そして、結局、高之は美桜の言葉に押しきられた。
「お邪魔します」
美桜はそう言いながら家に上がり込んだ。
「なんだか嬉しそうだな」
「えっ? まあね。一応、夢だったから。あなたの家に上がるのが」
「ささやかな夢だな」
高之の言葉に美桜はくるりと振り返った。その目には妖しげな光が宿っていた。
「ささやかだ、なんてとんでもない。
私の夢は、この家にあなたと二人で住むことなのよ。奥様抜きでね」
「おい、おい、おい、おい。勘弁してくれよ」
高之は苦笑したが、美桜は逆に真顔になった。二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「とりあえず、何か飲むか」
高之の提案で二人はリビングへ移動した。
「奥様の具合はどうなの?」
美桜は入院の手引きを片手にソファに背をあずけた。
「いろいろな内臓が悪くなって危険な状態だそうだ。面会謝絶で会わせてもらえないので様子は良く分からない」
高之はテーブルにウイスキーを置きながら答えた。
「ふ~ん、それは大変ねぇ」
美桜は暫くパラパラとめくっていたが、すぐに興味を無くしたように手引きをテーブルに放り投げる。代わりにグラスを取るとじろりと高之の方へ目を向けた。
「えっ? なに?
そんなこと思ってもいない癖にって言うような目ね」
「い、いや。そんなことは思っていないよ」
「いいえ。逆よ。私は思ってるのよ」
「えっ?! なんだって?」
「思っているわ。
大変なことになったと思っている。
こんなことになるなら、奥様、いっそのこと死んでくれれば良かったのにって思っている。
うん? そんなこと聞くと引いちゃう?
でもね……」
美桜は両手で自分の方を抱きすくめた。
「でも、あなたも同じ目に遭えば分かるわ。
あなたの奥様に首を絞められてみればね」
その体は小刻みに震えていた。
「怖いのよ、怖い。
奥様が生きてるって聞いた時、また同じことが起こるかと思うと、体の震えが止まらないわ。
氷のような冷たい手で締め付けられながらじっと見つめてきたのよ。
あの眼! ああ、思い出したら気がおかしくなりそう」
高之は無言で聞いていた。なんと答えれば良いのか分からなかったからだ。
「私のお腹の中にはあなたの子供がいるんですからね。」
低い、しかし、はっきりした声で美桜は言う。
「どっちを選ぶべきは分かってるわよね」
念を押すような言葉。しかし、高之はやはり黙ったままだった。
「とりあえず着替えよね」と言いながら美桜はクローゼットを物色する。その背中を高之は荷物を詰め込むためのバックを持ったまま、ぼうっと見つめていた。保険証の場所さえままならない。ただ馬鹿のように突っ立っているだけの本当の役立たずだった。
「はい、これとこれを入れてください」
適当に見繕った服を手渡された高之はそれをバックに詰めようとしたが、すぐに美桜に止められ、バックを引ったくられた。
「ちょっとお! そんなに乱暴に扱ったらシワになるじゃない。
もう良いわ。貸して。私がやります」
丁寧に服を入れる姿に、こんな所帯染みたところもあるのかと変な感動がこみ上げてきた。
美桜の印象は「できる女」、「格好良い女」であったのでこの一面は本当に意外だった。たがそれは不快な気持ちではなくむしろ、好ましく思えた。どこか靖子と似たところがあると思った。靖子に反発して真逆の女を選んだつもりで実は根っこは同質の女を選択していたのかも知れない。
「さあ、これで完了よ」
美桜の言葉に高之は思考を中断させた。
「ああ、ありがとう」
「あれ? それだけ?」
美桜は口を尖らせると不満を表明する。
「ちゃんと行動で示してよ」
今度は打って変わって悪戯っぽい笑みを浮かべると傍らのベッドへ体を投げ出す。
「ね! ご褒美をちょうだい」
ベッドに横たわったまま両手を広げる。その笑みは妖しい色香を放った。その誘惑を前に高之はごくりと唾を飲み込む。
そのまま、二人は愛し合った。
横でもぞもぞと動く気配に高之は眠りから引き上げられた。ベッドが少し揺れ、ついで微かな足音。ドアが開き、閉じられる音が続いた。
靖子、いや、美桜がトイレにでも行くのかとまどろみの中で思う。案の定、すぐにドアが開く音がした。戻ってきたのだろう、と目をつむったまま高之は思った。ベッドが軋み、布団にもぐり込んでくる。
と、美桜の手が高之の体をまさぐってきた。そのこそばゆい感触に高之は、うんと小さくうなった。
ついさっきまであれほど激しく愛し合ったというのにまだ足りないと言うのだろうか。美桜はその気でとあいにく高之の方は眠気の方が強くてとてもそんな気にはなれない。とは言え邪険にもできず、暫く相手のさせるがままにさせておいた。
細い指が腹、そして胸をさわさわと動く。指は冷たかったが、その冷たい感触が心地よかった。
ずん、と体に重みがかかった。
上に乗っかってきたのだ。
さすがに無視続ける訳にもいかない。
「美桜、やめろ」
高之は布団にすっぽりと潜り込んだまま自分の上に乗っかっている美桜に向かって言った。胸の辺りにある頭に両手を置し、一度優しく髪を撫でるの優しく力を込めて体の上からどかそうとした。しかし、美桜はむしゃぶりついて頑として離れようとしなかった。
だんだんと煩くなってきた。
「美桜、やめてくれ」
もう一度、今度はさっきより強い口調で拒絶の言葉を吐くと手にも力を込める。
だが、美桜は低いうなり声を上げ、ふるふると頭を振り抵抗する。高之の手に長い髪がまとわりついた。
長い髪……?
彼女はショートだったのでは、と思った時、ガチャリとドアの開く音がした。
違和感、いや、本能というべきか、とにかくなにかが一気に高之の目を覚まさせる。
はっとなってドアの方へと顔を向けると、そこには戻ってきたばかりの美桜の姿があった。
「なんで、そこにいるんだ」
思わずそんな言葉が口をついた。そして、すぐに思い当たる。トイレだかなにかで部屋を出て、その後、喉の乾きを覚えて水でも飲んだかして、とにかく美桜は今、部屋に戻ってきたのだ。ならば……
ならば、自分の上に乗っかっているのは誰だ?
顔を下に動かすが視線は布団に遮られた。ただ、こんもりと盛り上がった布団が、中に何かがいることを物語っている。
高之は、恐る恐る布団をめくり中を覗きこんだ。
女がいた。
目が合った。
あの目だ。真っ黒で見つめた相手を果てのない深淵に引きずり込むあの目が覗いた先に待ち構えていた。
「おおおおおおお」
ずりずりと自分の体の上を這いずり女の顔を急速に近づいてきた。
「うわぁ」
叫んだ。悲鳴を上げずにはいられなかった。
ベッドから転げ落ちた。床で肩を激しく打ちつけた。
「な、なに? どうしたの」
美桜が慌てて寄ってきた。
「いる!」
「いる? いるってなにが?」
「靖子だ。靖子がいた」
「えっ?! ど、どこによ」
靖子という言葉を聞いたとたん美桜は体を固くして四方を見渡した。
「だから、ベッドだよ!
布団の中にもぐり込んできたんだ」
二人の視線がベッドへと集中した。
美桜の指がそっと布団にベッドの上の膨らんだ布団を指し示した。高之はこくりとうなづく。二人とも微動だにしない。いや、できなかったというべきか。布団もまた同じであった。突然跳ね飛び靖子が躍り出てくるわけでもうなり声が漏れ聞こえてくるわけでもなかった。
「ねえ、布団をめくってみてよ」
遂に痺れを切らしたように美桜が囁いた。
「俺か?!」
「だって、あなたの奥様でしょ」
躊躇う高之に向かって美桜は妙な理屈を振りかざした。意味が分からないとは思いながら、高之は布団へと目を向けた。
じっと見ていても埒が開かない。意を決するとベッドに近づくと一気に布団を捲り上げた。
何もなかった。
部屋の空気が一気に弛緩した。
「なによ。脅かさないでよ」
「いや、確かに居たんだよ」
高之は寝室の隅々に目を配ったが、靖子の姿はどこにもなかった。
「ああ、もうすっかり目が覚めちゃったわ」
美桜の言葉に高之も相槌をうった。少なくとも今はベッドに横になる気は起きなかった。
「下へ降りて少し飲み直すか」
二人でリビングへ行くことにした。
寝室のドアを開けると念のため左右を確認する。暗い廊下に靖子の姿はない。二人ならんで廊下を進む。歩きながら二人の肩が触れあう。いつもより二人の距離が近かった。それは親愛が深まったからではなく、ただ単に二人とも怖かったからだ。
下に降りる階段の手前まできた時だった。
ユルサナイ
背後で微かな声がした。はっとなって振り向くと靖子が立っていた。高之は大きく口を開いた。しかし、声が出てこない。肺の中の空気が一斉に凍りついて固まってしまったかのようだった。
「きゃあ!」
逆に隣にいた美桜が鋭い悲鳴を上げ、そのまま階段を転げ落ちた。靖子に突き落とされたのだ。
「美桜!」
階段を駆け降り、抱き起こす。
美桜の口から苦し気なうめきが漏れた。
良かった、生きてる
そう高之はほっとする。視線を上に向けるともう既に靖子の姿は無かった。
高之は鉛のように冷たく重い恐怖を感じた。
■
「幸い、階段から落ちた美桜は軽い捻挫ですんだ。お腹の子供も異常がなかった」
高之はそこまで話すと言葉を切り、智哉の反応を待った。しかし、智哉の反応は薄いものだった。ほとんど無反応と言って良かった。まだご不満ということだろう。
高之は小さく舌打ちをすると話を続けた。
「その日はもうなにも起きなかったが、靖子は何かにつけて現れるようになった。
クローゼットを中から現れて襲いかかってきたとか、湯につかっていたら引き込まれて危うく溺れ死にそうになったりした。
神社や寺で祈祷をしてもらったりお札を貰ったが効果がなかった。怪しげな自称霊能者にも頼ったがダメだった。とにかくやれることは全て試した」
「その結果、たどり着いたのがここと言うわけですか」
ようやく智哉が口を開いた。高之は大きくうなづいた。
「そうだ。ここだ。
正直さっきまでは半信半疑だったが、あんたは見事に靖子を追い返した。あんなことは初めてだ。今まではお札にしろ、霊能者にしろ、靖子はまるでお構い無しだったんだ。
あんたの力は良く分かった。だから、力を貸してくれ。靖子を何とかしてくれ」
「奥様はまだ生きておられるのでしょう」
「あ、ああ。入院中だ。日に日に悪くなって、今は意識もなく眠り続けている」
「あなたたちがやらなくてはならないのはお札や祈祷に頼るのではなく話し合うことだと思います。今ならまだ間合う」
「話し合う、だと? 誰と何を話し合えと言うんだ?」
「奥様とあなたたちのことです。
まずは奥様に詫びるべきだと思います。それから、こらからどうするかを話すのです」
「相手は化け物だぞ。現れると問答無用で襲いかかってくるんだ。そんなのとどうやって話し合えというんだ」
「生身の本人と話をすれば良いことだと思いますが……
とは言え、先程のように突然襲いかかられては話もできない、と言うのも一理あります。
……
ならば、これを渡しておきましょう。一時的ではありますが、奥様を抑えることができます」
智哉は懐から紙の束を取り出すと高之に渡した。
「ああ、さっき終わった。お札を渡されたよ」
神社を後にして車に戻った高之は、すぐに電話をかけた。相手は美桜だ。ここから一時間ほど離れたファーストフード店で連絡を待っていた。高之は詳しいことは、そっちで話すと言うと電話を切り、車を発進させた。
「これがそうなの」
美桜はテーブルに置かれた札を疑り深そうな眼差して見ながら言った。和紙に墨で四角や丸の紋様と読めない草書体の漢字が書かれていた。美桜が疑うのも分かる。今までこんなようなお札をそれこそ何十種類と試してきたのだ。
「今度のは期待できる。なんと言ってもこの目で見たからね」
高之は智哉のこと、そして襲ってきた靖子をこのお札で撃退したことを話して聞かせた。
「ふ~ん。それでその陰陽師さんは何て言ってたの」
「話し合えってさ」
「話し合え、ですって? 正気?
相手は殺しに掛かってるのよ。それを話し合えって言ってるの?」
「同じようなことは言ったよ。そうしたらこれを貰った。これで動きを抑えられる、って話だ」
「本当かしら。そんな面倒なことをするよりお祓いか祈祷で何とかしてもらえないの?」
「それも頼んだが……
その、なんだ。まだ間に合うとかなんとかごちゃごちゃ言われた」
「ごちゃごちゃってなんて言われたの?」
「うん、まあ……」
高之は言いにくそうに言葉を濁した。
「えっ、なに? 何か変なことを言われたの?」
「その陰陽師には別れ際に、君とは別れて靖子に謝れ、とはっきり言われたよ」
美桜の顔色がさっと変わるのが良く分かった。
「なんですって? まさかあなた、奥様とよりを戻すつもりじゃないでしょうね。
お腹の赤ちゃんはどうするつもりよ。
ダメよ! 絶対に許さないから」
「分かってる! 分かっているさ。俺も今さら靖子とよりを戻すつもりはないよ」
一気にヒートアップする美桜を高之はあわてて宥める。ふと周囲を見ると、何人かの客が自分たちのほうをちらちら覗き見てくるのが分かった。
「出よう。話の続きは帰りの車の中でしよう」
高之はお札を回収すると立ち上がった。
くねくねとカーブの続く山道を下る車の中は気まずい沈黙が満ちていた。助手席に座る美桜は不機嫌さを隠すことなく無言で正面を向いていた。高之も言葉の切っ掛けが掴めず黙りこくっていた。
「これからどうするつもりなの?」
ついに美桜が呟くように言った。
「どうするとは?」
「だから、病院に行って奥様に謝るつもりかと聞いているの」
「靖子は意識不明だから、謝るもなにもできないよ」
「……質問を変えます。
私と奥様とどちらを取るの?」
「どちらをとるって……今はそんな「今だから聞くのでしょう」」
高之は答えをはぐらかそうとしたが美桜はそれを許さなかった。
「……」
「黙ってないで答えてください。
どっちを……!?」
車がタイヤを軋らせながら急カーブを曲がった。
「ちょっとスピード出しすぎじゃないの?」
危険を感じた美桜の言葉に高之はひきつった表情で答える。
「いや、違う。さっきからブレーキが利かないんだ」
踏んでも利かないブレーキの様子を確認しようと足元を見た高之は、うわっ、と叫んだ。
「や、靖子だ!」
何を言っているのか、と美桜は運転席へと目を向けて同じように悲鳴を上げた。運転席の足元に女が居た。スペース的に生身の人間が収まることなどできはしない。なのに靖子はそこから顔を覗かせて、あまつさえ手を伸ばして高之の腕を掴もうとしていた。ただでさえスピードが出過ぎている山道の下り坂だ。腕を取られてハンドル操作を誤れば、一瞬の内に崖下に転落する。
「札、札だ! 美桜、お札を取ってくれ」
腕を取られまいと必死に抵抗しながら高之は叫ぶ。
「えっ?! お札? えっと、どこよ」
「上着だ。俺の上着のポケットの中だ!」
言われて手を伸ばそうした時、ぐるりと靖子の顔が動き、美桜を睨み付けた。歯を剥き出し、威嚇する。その形相に美桜は思わず手を引っ込めてしまった。
「早く! グズグズするな!!」
怯む美桜を高之は怒鳴る。
気を取り直して手を伸ばす。と、ギギギッと車体が傾きながら急カーブを曲がった。遠心力で体が外側に引っ張られる。
ガリガリと車体がガードレールで削られる振動がドア越しに背中に伝わってきた。恐怖で体が麻痺する。
「なにやってる! 早くお札をこいつに当てるんだ」
大声に美桜は気を取り直した。高之が着ている上着のポケットへ手を突っ込む。指の先に紙の束が触れた。手を引き抜くとそのまま、靖子にお札を当てる。
「うぎゃあ」
バチンと青白い火花が散り、耳を貫くような悲鳴が響いた。と、同時にブレーキがかかったが車の尻がぶれ、横に滑った。制御不能に陥った車はガードレールに衝突する。
ガガガガガ
小刻みの振動と耳障りな音を立てながら車は横滑りをして、ようやく止まった。
「はぁ、はぁ。だ、大丈夫か?」
「ええ、なんとかね」
ハンドルにしがみつき額に汗をにじませる高之と顔面を白くした美桜の二人は互いの無事を確かめあうと車の外に出た。ガードレールが大きく歪み、あとちょっとで崖から真っ逆さまに落ちていたことが分かった。
「危なかったな」
「ええ、本当に……
でも、うふふふふ」
「なんだ、なにが可笑しいんだ?」
「いえ、だって、あのお札、本当に効くのね。
お札が触れた途端すごい悲鳴を上げて消えてしまったもの。これさえあれば、もう奥様に悩まさられることはないわね」
美桜は愉快そうに言った。
「このお札、また奥様に邪魔されないように車の中に何枚か貼って帰りましょう」
高之の家に戻った二人は早速お札をあちらこちらに貼って回った。一通り貼り終わるとリビングで一息ついた。
「これで安心かしらね」
美桜の言葉に高之は無言でうなづいた。
「ねえ、このお札もっともらえないの?
高かったの?」
「いや、金は請求されなかった」
「えっ? 祈祷料に入っていたのかしら」
「言ったろ祈祷はしてないんだって。
そんなものは必要ない、話し合えば良い、の一点張りだった」
「ふぅん。で、私と別れて、奥様と寄りを戻せと言われたのね」
高之は自らさっきの話を蒸し返しす切っ掛けを作ってしまったことに内心後悔した。
「それで、どうするつもりなの?」
再び始まった追求に高之は少しうんざりさせられた。
「私と奥様のどちらを取るつもり?」
そう言いながら美桜は部屋を見回した。やはり、生霊が気になるのだ。しかし、お札のお陰か、靖子の現れる気配はなかった。
「お前だよ」と高之はぼそりと言った。
「じゃあ、離婚してくれるのね」
高之の言質を取った美桜は勢いづいた。
「離婚? それは今は不可能だ。
靖子は意識不明だから離婚の話なんてできないよ。それに入院中の妻を離婚するなんてそんな世間体の悪いことは……無理だよ」
「じゃあ、どうするのよ。お腹の子供は待ってくれないわよ。お腹が大きくなってからウェディングドレスを着るなんてそんなみっともないことしたくないわ」
「気持ちは分かるが、こちらの事情も考えてくれ。子供は認知する」
「そんなの当たり前よ!
ああ、もういっそのこと……」
美桜はふっと何かを考えるように言葉を切った。そして、高之に身を寄せた。その瞳には妖しげな光が宿っていた。
「ねぇ、あなたの奥様は今もどこかで私たちのことを見ているのかしら」
甘い吐息が頬にかかるぐらいに高之に顔を近づけると美桜は囁いた。靖子のことを言われて高之は決まり悪そうに顔を四方に向けた。
「ドアの隙間や窓の外から私たちを見ていないかしら?
見ているのならきっと悔しいでしょうね」
美桜はくすくす笑いだした。
「おい、止めろよ」
高之の声は少し震えていた。それは怒りではなく恐れによるものだった。
「なに? 怖いの? 大丈夫よ。
お札があれば入ってくることはできないわ。仮に入ってこれても、このお札をくっつけてやればすぐに退散するでしょう」
美桜はお札をひらひらと振って見せた。
「意味もなく靖子を刺激するんじゃない」
高之は不機嫌そうにうなった。
「意味はあるわ。奥様に見せつけて嫉妬で狂わせたいのよ。そうしたら消耗して……」
「お前、なんてことを言うんだ!」
思わず高之は怒鳴った。
「なによ! あなただって本音はそうなんでしょ!? 奥様が死んでしまえば良いと思っている癖に自分だけ善人ぶるのは止めてよね!」
美桜もまた吐き捨てるように言った。
二人は激しく睨みあった。
先に目をそらしたのは隆之だった。
「君とは結婚する。責任は取るよ。
だがね、基本的に離婚は当人たちの同意が必要なんだ。君も子供じゃないんだから知っているだろう?
だが、靖子は話し合うことすらできない状態だ。もしかした一生できないかもしれない。靖子との離婚は努力はするが約束はできない。今はそれが精一杯の回答だ。
それでいいだろう?
これ以上追求するのは君のためにもならないよ」
「本当にあなたって……」
美桜は口をすぼめてこの先を言うのをやめた。
「いいわ。この話しはこれで終わりにしま~す。
じゃあ、今度は楽しい話しをしましょうか」
美桜はさっきまでの険しい表情から一転して満面の笑みを浮かべた。そして、手に持っていた携帯の画面を見せた。それにはどこかの観光地が写っていた。
「島、なのか?」
「うん。島なんだけど本州から橋で繋がっているから車で行けるのよ。
今の季節だと、山の幸と海の幸の両方が楽しめるんだって」
「それで、つまり、ここに行きたいってことか?」
「そうよ。ずっとあなたの奥様に怯えて閉じこもっていましたからね。でも、このお札のお陰でようやくそんな生活ともお別れよ。
ねっ、だからそれを記念して連れていってよ」
「えっ……う~ん。まあ、な。
まあ、それもいいかもな」
美桜の変わり身の早さに少し戸惑いながら高之は携帯へと視線を戻した。風光明媚な島や海の風景や見映え良くディスプレイされた豪華な料理の写真がこれでもかと写っていた。
美桜の言う通り、靖子の生霊の襲撃に怯える日々であったのは事実だ。そして、これもまた美桜の言う通り、お札によって解決を見た訳だ。携帯の写真を見ているうちに気晴らしをしても良いか、と言う気持ちになってきた。
それに……旅行をしているうちに康子の命が尽きるかもしれない
高之は心のずっと奥の方でこっそりとそんなことを考えた。
通行料を手渡すと車を発進させる。
「結構長い橋だ」
「そうね。
う~ん、すごく見晴らしが良いわ!」
割かしできたばかりなのだろうか、橋は日の光をピカピカと反射させながら、島へと一直線に伸びていた。その両脇は真っ青な海が広がっていた。波もなく、まるで一面の鏡のような美しさだった。
「ホテルに着いたら浜辺に行ってみましょう」
はしゃぐ美桜に高之も笑顔で相づちをうった。来るまでなんとなく罪悪感のようなものがあったが、今では高之も来て良かったと思っていた。なんと言っても、これで美桜の機嫌が良くなるのならなによりだ。それにどうせ靖子は人形のように眠ったままだ。話し合うことなどできない。
医者の話だと、どんどん衰弱しているらしい。1ヶ月持たないかもしれないとも言われていた。正直、靖子のことを考えるのは気が滅入って億劫だった。この頃は早く全てが終わってくれないか、とさえ思っていた。
「うわ、すごい」
美桜の歓声に高之は思考を中断させた。車は橋を渡りきり島へと到着した。
「ねぇ、ねぇ。あそこになんだかお洒落なレストランがあるわ。
ホテルに行く前にちょっとお茶でも飲まない?」
「ああ、そうするか」
高之は同意すると車をそのレストランへと向けた。
ピッ、ピッ、ピッ、と規則正しい電子音が病室に響いていた。
カルテを片手に看護師は機器の数値を確認していく。一通りの確認を終えるとベッドへ目を向けた。ベッドには女が横たわっていた。
女は目を固く閉じ、身じろぎもせずこんこんと眠り続けていた。目は落ち窪み、黒い隈が目立った。頬もごっそりこ削ぎ落ちており、肌には黄疸の症状も見てとれた。病院に運び込まれた時から日に日に症状は悪化していたが、未だに原因も対処法も分からなかった。
「東尾さん、おはようございます。
今日も良い天気ですよ」
看護師は意識のない女に笑顔で話しかけると窓のブラインドを動かして病室の明るさを調整する。
「また、来ますね。今日も頑張りましょうね」
看護師は明るく声をかける。返事が返ってくることも聞こえることも期待はしていなかった。しかし、恐らくは生きてこの病院を出ることはないであろうこの患者にそうせずにはいられなかったのだ。
看護師は小さく息を吐くと静かに病院を出ていった。
病室には女が一人。
こんこんと眠り続けている。
ピッ ピッ ピッ ピッ
電子音だけが時を刻む。
ピッ ピッ ピッ ピッ
電子音は無機質に鳴り続けた。
ピッ ピッ ピッ ピッ
ピッ ピッ ピッ、ピッ
ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ ピッ
規則正しかった電子音が乱れはじめた。
ピッ ピッ ピッ ピッピッピッ
ピーーーーー
急速にテンポが早くなった。
女が唐突に目を見開いた。黒目ばかりのその瞳は少しも光を反射しせず。捕らえたものをべったりと絡めとり吸い込む洞穴のようであった。
ザーーーーーー
激しい雨が車の屋根やフロントガラスを激しく叩いた。ワイパーはフル回転で雨水を拭うが、拭う先から大粒の雨が降り注ぎ、あっという間に視界をにじませた。
「いや、すごい雨になったな」
「そうね。でも、旅行中は良い天気だったから良かったじゃない」
視界の悪さに辟易する高之を美桜が慰めた。
「まあ、そうなんだけどね」
高之は曖昧な相づちを打つと前方へ目を向けた。
島での三泊四日の旅行に来て、滞在中は実に良い天気が続いたのだが、さて、帰ろうとホテルを引き払う段になってにわかに天気が崩れた。本州につながる橋のたもとに来た頃にはバケツをひっくり返したような大雨になっていた。料金所で支払いを終えると、高之はノロノロと車を走らせた。
視界は数十メートル先でまるで白い幕が下りたようにおぼつかなくなった。橋を渡りきったら雨が小降りになるまで思った時だ、ふっと前方に黒い影が現れた。
「うわっ!」
反射的にブレーキを踏むが水に速度が落ちない。
ガツン!
衝撃と共にフロントガラスに女の顔が貼り付いた。
やってしまった、と背筋が凍る。と同時に理由は分からないがなにか異質な悪寒が走った。
「きゃあぁ」
助手席に座っていた美桜が悲鳴を上げた。
フロントガラスにぶつかった女はまるで接着剤でくっつけたように車のフロントガラスに貼りついたままだった。
高之は自分が最初に感じた悪寒の原因が何なのかを理解した。そして、美桜は車が人をはねたのを目撃したから悲鳴を上げたのではないことも理解した。
フロントガラスに顔を貼りつけたまま女は薄く笑っていたのだ。
ずるり
女の顔がフロントガラスを通り抜けた。
「靖子!」
「奥様よ」
高之と美桜は同時に叫んでいた。
ずずずずず
靖子の上半身がフロントガラスをすり抜けてくる。靖子の手がハンドルを掴むと無造作に左に回した。車の方向が急激に変わる。
視界に巨大な柱が現れ、急速に近づいてきた。
ガツン!
強い衝撃が全身を襲った。と、視界を白っぽいものが覆った。エアバッグが展開したのか、と思いながら高之ほ意識を手放した。
意識を取り戻すと、そこはまだ車の中だった。そんなに長い時間意識を失っていた訳ではなさそうだ、と高之は思う。
「美桜、大丈夫か?」
助手席に顔を向けるが、そこに美桜の姿はなかった。助手席のドアは開け放たれ、座席には血がベットリと付いていた。
「美桜、どこだ?!」
高之はシートベルトをはずし、外に出た。体のあちこちが痛んだがそんなことに構ってはいられない。
雨は大分小降りになっていた。
車は橋を支える柱の一つに正面からぶつかっていた。前部がかなり凹んでいる。
「美桜、美桜! どこだ?」
衝撃の際、車外に放り出されたのかと車の回りを探したがどこにも姿はなかった。ただ、助手席のところから赤い筋が車の後方へと伸びていた。筋の正体が血痕なのだろう。
美桜は怪我をして、助けを求めて自力で這いずり出たのだろうか?
高之は血の跡を追いかけた。
数十メートル程行くと跡は急に橋の左側に折れ曲がっていた。視線で先を追うと橋の欄干に塊があった。
「美桜!」
高之は叫ぶと塊に向かい走った。塊の方も声に反応してぶわりと膨れ上がった。
高之は歩みを止める。
それは美桜ではなかった。
「や、靖子……」
絞り出すように呟く。元は白だったはずの服は赤黒い色でまだらに染め上がっている。足元には美桜が仰向けで転がっていた。恐怖なのか苦痛のせいか目も口も大きく開いたまま、打ち捨てられていた。一目見て、絶命しているのが分かった。
靖子は手に持っていたものを放す。ピチャリと湿った音がした。
「止めろ! 来るな!」
ヨロヨロと近づいてくる靖子を認めて、高之は叫んだ。足はガクガク震えるばかりで、地面に貼りつきぴくりとも動かすことができなかった。
「止めろ 止めろ 止めろ」
高之は首を横に振り、叫び続けた。しかし、靖子の歩みは止まらない。
「そ、そうだ。お札を」
ようやく思い出したかのように高之はポケットからお札を取り出した。靖子はもう目の前まで来ていた。
「こ、これだ。消えろ!」
高之は伸びてくる靖子の手にお札を貼りつけた。しかし、何も起きなかった。その事実に愕然とする。
「な、なんで効かないんだ?!」
靖子の手が高之の腕を掴んだ。ボキボキと骨の砕ける音がした。激痛に高之は悲鳴を上げた。
「止めろ 止めてくれ 助けてくれ」
高之は絶叫する。
ザーーーーーー
高之の絶叫は再び激しくなった雨音にかき消された。
2020/11/15 初稿
次回は
『橋姫』三部作の最終 『橋姫』 です




