囚われの勇者
返事がない。ただの屍のようだ…
死体を取り囲むようなあの黒地に白で書かれた数字。
これは、一体何を意味するのか。
勇者一行は、話しかけた後に、消失した屍があった場所を眺める。
屍の形に描かれた白いテープは、生々しくそこに屍があったことを告げる。その周りに現れた数字。
今まで、全滅した村や魔物に襲われた城の跡で、山のような死体を見てきた。
鼻にくる血なまぐささはもう友達といっても過言ではないくらいに、日常と化した。しかし、消失した屍の後に、このような非日常的なしるしが浮かび、材質のわからない黒い板が突然目の前に現れることはなかった。
今まで見てきた死体と何が違うのか?
勇者一行は、悩んだ。誰も音を発しない中、勇者の手から、ただ血が滴り落ち、やがて、地面で黒く色を変えるまで、悩んだ。
あえて、今までと違う消失した死体と、今までとの相違点をあげるとなれば…。
ぽんっと、肩を叩かれた。
勇者が振り向くと、そこには奇妙な青い制服をしたおじさんが素敵な笑顔を浮かべていた。
「勇者さん。あなたを村人殺害の容疑で逮捕します」
今までと違う点。それは、勇者が殺したということ。
戦争で死んだのではなく、魔物に殺されたのではなく、明確な意思で殺戮されたのではない。
たまたま、偶然に殺傷されただけである。
民間人を殺害した勇者は、剣に付着したものと手をしたたっていた血液が被害者と一致した。
現在は、裁判を待っている。
◇◇◇
青い服を身にまとい、豊かな青髪の女はただそこに立ち尽くしていた。
女は勇者の仲間である僧侶である。
遺体はなくなり、代わりにその死にざまを思い出させるかのように形どられた、白い線が残されていた。その周りでは黒いプレート上に書かれた数字が散らばり、無慈悲にも、たった数瞬前にあった温もりは失われてしまったことを女に思い知らせた。
目の前にあった、毎朝、頭をセットするのが大変だとぼやいていた髪の毛に触れることはできない。空を切る手を握り締めて、今はない人物に心を馳せる。
少し考えれば、わかることだった。最近、ずっと様子がおかしかったことに気づいていた。きっと、それは自分が何か重大なことを犯してしまったと知っていたからだ。しかし、気のせいと言い聞かせて、問い詰めることも、促すこともできなかった、と、後悔が波のように彼女を襲う。
どうして、話を聞こうとしなかったのだろうか。ずっと、一緒にいたのに。
そばにいたのに。なぜ、私に心の苦しみを分けてくれなかったの。
こうなってしまう前に、何かできることはなかったの。
彼女は涙を流しながら、その場に崩れ落ちた。
もう、彼女が望んだ時間は永遠に手に入らないものになってしまったのだから。
しばらくして、女は地面に何か光るものを見た気がした。
気になった彼女は、今の職業に就く前に習得した盗賊の技術を使って、地面をのぞき見た。
そこには、まぎれもない文字がつづられていた。
黒くそして、少しかさついた文字は、死の間際に託された最後の言葉。そう、ダイイング・メッセージだ。
わたしは、ゆうしゃにころされた。
その意味を理解するとともに、もう逃げられないことを悟った。
自分の愛する勇者は、もう、二度と戻らないことを。いや、気づいていた。しかし、心のどこかでこれは間違いなのだと信じていた。
彼女の泣き顔は醜く歪み、口は笑みを浮かべていた。
その姿は、聖職者の衣をまとった者とは思えない、狂った笑顔。
このとき、この瞬間、彼女は神という存在を自らの心をもって、失くしてしまった。
◇◇◇
女は、声を殺して笑っていた。
ガイシャの死に様を表わした白いテープを見つめながら、ピンクの甲冑を身に付けた勇者の仲間の女戦士は、口元に笑みを浮かべていた。
つい先ほどまで、青髪の女が泣き崩れていたことを、心の底から滑稽に感じていたからだ。
地面に描かれた、黒く擦れている文字を、踏みつけて、女は意中の男を思う。
初めから、気に食わなかった。最初に彼が必要としてくれたのは、青髪の女ではなかった。彼が酒場で一番最初に声をかけてくれたのは、自分だ。
それにも関らず、青髪の女は、後からやってきて、自分から彼をさらってしまった。…それだけならば、まだ許せる。
しかし、女は彼一人では満足せず、次々と男を虜にしていった。
女一人のために、パーティ内の空気が悪くなり、幾度となくメンバーが入れ替わった。
魔性の女。これがあの女にふさわしい名前だ。
狂ったかのように、醜く笑っていた女を、嘲るように思い返す。
目の前の無機質な黒いプレートの文字が目に入った。
4。
奇しくもその数字は、彼女が意中の彼に振られてしまった回数だった。彼女は、プレートを蹴り飛ばた。
もう、振られ続ける人生はおしまい。彼が思い続けた女は、
もういない。あの女は狂って、神への信仰をなくし、もう、何もできない、ただの女になったのだ。
白いテープに背を向け、歩きだした。
彼女は、少しだけ、今はただの白いテープとなってしか存在を表わすことができない、殺された被害者を哀れに思った。
自分が彼を手にいれるためだけに、そそのかされて殺された女。
一度だけ、彼女は後ろを振り返ると、再び歩き出した。
自分の歩く先には、彼が待っていると信じて。
◇◇◇
男は愉悦のあまり、声を殺すことも忘れ、笑っていた。
地面に描かれた白い線のすぐそばに、描かれたメッセージ。
悲痛な色を宿す、無念さを彼は笑う。否、感謝の意をこめて、口元の笑みを消す。先ほどまで、笑い狂っていた青髪の女はすでに彼の手中にある。勇者を一途に想い、自分には振り返りもしなかった女が、今や自分だけのものになっていた。
それもこれも全ては、かつてそこに横たわっていた屍のおかげである。
そう、全てはこの男の手の上だったのだ。
男は、ただ愛しの女を手に入れる、そのためだけに勇者をはめ、女を狂わせた。もう二度と、旅になど出ることのできない体にすることで、万が一に勇者と再び出会っても、もう交わることのできない道を互いに歩んでいると、双方に思わせるために。
勇者にしては、少し短慮であった、かつての仲間を想い、男は口元を緩ませた。今や、牢獄の中、ただ判決を待つだけしかできないあの男。青髪の女のみならず、彼が気を許した女を悉く奪いつくした男。彼の憎しみを最大限にまで煽っておいて、それなのに、彼に全幅の信頼を寄せていた、愚かな男。
しかし、その男はもういない。
彼は、現場に残された白いテープに向かって、小さく感謝の意を述べる。
たまたま目の前にいた、彼の目にとまったというだけで、犠牲になった哀れな青髪紫目の女に、哀れさと愉快さをこめて。
現場を立ち去りながら、彼はこの後を思う。
最後の後始末を、しなければ、と。
数日後、ピンクの甲冑を着た女が事故で死んだというニュースが流れた。
◇◇◇
歪んだ笑顔を浮かべていた青髪の女を後ろから包み込むように青髪の男は抱きしめた。
「全生活史健忘症」
それが彼女にくだされた診断だった。愛する男に裏切られた心はその重さゆえに堪えられなかったのだろう。自分自身すら覚えていない彼女を男は、愛しい目で見つめた。ようやく、手に入った喜びをかみしめて。
男は、彼女と共に小さな村の端で暮らすようになった。男が外でモンスターを倒し、賞金を手に入れ、女が家の一切を取り仕切る。そんな”普通”の生活を続けていた。
ある日、男がいつもよりも早く帰宅すると、そこには男の愛した無邪気な笑顔を浮かべる女がいた。花壇にしゃがみこみ、愛らしい緑の物体と夢中で話している彼女。男の帰宅に全く気付くそぶりはない。年相応の表情を浮かべる女に、男は寂しさを覚えた。
男と二人でいる時に浮かべる笑顔は、どこか悲しさを漂わせている。しかし、どうだろう?今、彼女の笑顔はこんなにも懐かしい。愛したままの姿だ。
女が男に気がつくと、あの笑顔は消え、いつものどこか悲しさを秘めた笑顔へと戻った。
「おかえりなさい」
いつものように男は女に微笑んだ。
「ただいま」
頬を伝う熱い雫は、気のせいだと言い聞かせるように。
男は、知っていた。
無理やり奪っても後に残る空しさに。
それでも、手に入れた彼女を見れば、満たされると信じていた。親友を裏切っても。彼女さえいれば、幸せなんだと。
自分の汚れた手を見た男は、初めて後悔した。
◇◇◇
花壇の間から顔をのぞかせた愛らしい緑の物体に頬を緩めながら、青髪の女は自分を覗き見ている男を蔑んだ。
いつものように自分を求める視線に彼女は、いつものようにどこか表情に陰りを含ませた笑顔を浮かべて応えた。青髪の男の目から溢れ出る雫を心の中で嘲笑して。
「どうしたの?」
「…なんでもないよ」
そう言って男は女を抱きしめ、家の中に入っていく。戸惑いながら、女は男に身を預け、玄関を潜りぬけた。
顔を洗ってから、自分の用意した食卓に着いた男の顔や目、いやもはや体中から滲み出ている自責の念と、それでもなお求めてやまない自分への執着心に、彼女は哀れみを覚えた。
―――なんて、わかりやすい男。
思えば、自分の周りにいた人間は、感情を隠しきれない者ばかりであった。天真爛漫で子どものように純粋な勇者、自分への嫉妬心を抑えられない未熟な戦士、そして、冷静で頭が良いくせに恋心の奴隷となった賢者。人間的にまだまだ発展途上で素直すぎる集まりだった。だからこそ、操りやすかった。
食事を早々に終え、心の動揺を悟られぬようにといつになく早く就寝した男の横顔を眺めながら、女はため息をついた。
出会ったばかりの頃は、自分も純粋で確かに夢を描いていた。それがいつしか彼女だけが急速に周りを知り、未来に希望を求めなくなった。
ベットの横に立て掛けられた、今はもう自分には扱えない杖を眺めて女は想いを馳せる。
ピンクの甲冑の女は、とにかく気が多かった。立ち寄る村や町で少なくとも3人は一目ぼれをしていた。そんな女がたった一人、賢者に恋をしてしまってから、それまでの良好であったパーティに暗雲をもたらした。
今思えば、確かにこれが始まりだったのだ。あの女が多くの恋を捨て、一つの愛に目覚めたあの瞬間が。
青白く光る月の輝きを窓から望みながら、青髪の女は目を閉じた。
彼女は孤児だった。物心ついた頃にはすでに親という存在は影も形もなかった。城下町の一角、昼でも薄暗い裏路地を住処としていた。そこには、彼女と同じ孤児や大手を振って町を歩くことのできないどこか脛に傷を持つ者が集まっており、一つのスラムを形成していた。
生きるためには、スリや万引き、置き引きなどの軽犯罪から、強盗まがいの重犯罪まで何でもやった。彼女にとって人間とは、生きるための糧であり、同等の存在ではなかった。幼い時分から繰り返してきたその行動は、もはや技と言ってもいいくらいの完成度を誇っていた。”盗む”という点においては、彼女の右に出る者はいない程に。
そんな彼女が勇者のパーティに入れるようになったのは、奇跡にも近い出逢いがあったからだ。
その日、彼女はいつものようにカモとなりそうな人間を探して、一般の人が賑わう町を歩いていた。様々な色を纏った人間が途切れることもなく通り過ぎていくその中で、気になる男を見つけた。その男とは、灰色の髪に切れ長の瞳と何の変哲もない人間なのだが、どこか彼女と同じ匂いを感じさせた。
自分のテリトリーを侵す新参者。
彼女は、挨拶代わりにその男をこらしめてやろうと思った。もう二度と彼女のテリトリーに入ることがないように。
スッと、さりげなく男の後ろに周り、いつもの要領で男の懐に手を差し込み財布をスろうとした。しかし、財布を盗る前に、手首をつかまれてしまった。
「お嬢さん。それは俺の大事なものだから、あげられないね」
彼女は悟った。この男は自分の何倍も上をいく人間だったのだと。そして、おそらく、現行犯としてとらえられるのだろうと。
年貢の納め時ってやつか…。
おとなしく諦めた彼女は黙って男について行った。しかし、男が連れていったのは警察ではなく、宿屋。男が宿泊している部屋に連れ込まれ、ベッドに座らされた。身の危険を感じた彼女が逃げようとした所、男が頭の上に手を置いた。もう、駄目だと観念した時に。
「お前さん、いい腕してるよ。どうだ、俺の弟子にならねぇか?」
男は盗賊であり、後継者を探していたらしい。こうして、彼女は盗賊となったのだ。
鉄格子越しに入る光り以外に明かりはない暗い部屋の中、女は自分の甘さを悔やんでいた。生まれてから今までずっと一人。仲間という名の人間もいたが、所詮傷の舐め合い。信だとかそんな言葉を誰かに預ける程甘い世界を生きてきた訳ではないのに、それに縋った、堕ちた自分。
不信。それだけが、私を構成するもの。そうだったはずなのに…。
盗賊と出会った女は、後継者となった。修業は辛かったが、互いに笑って過ごした日々。そんな暖かい時間が自分を弱くした。少し時間を共にしたからといって、他人を信じるなどという愚行。…知らず知らずの内に微温湯に浸かっていたのか。
跡を継ぎ、盗賊団の頭となり、仲間と盗賊行為を繰り返した。そんな仲間が自分を売るとは考えなかった。否、当初は疑ったが、次第に薄れていったのだ。己の甘さに舌打ちしか出ない。
女は、情報を売られ、囚われた。今は判決を待つばかりの身である。ここは独裁国家であり、王の気分次第で生死が決まる。王は、犯罪を軽重問わず全て憎み、幼子が生きるための犯罪でさえも死刑にした。それを知っている女は、仲間を信じた自分自身を呪う程、後悔していた。
捕まってから何日過ぎたのか?今日も眠れぬ夜を過ごしていた女に、チャンスが訪れた。静けさだけが支配していた牢屋に人目を忍ぶように誰かがきた。見張りの人間ではない。相手の目的が分からない以上、迂闊に声を出せない。様子を見ようと女は息を殺していた。
侵入者は複数いるようで、話声が聞こえる。どうやら、刺客の類ではないらしい。声を聞こうと身を乗り出した途端、侵入者の一人と目があった。
女は後ろに下がった。近づいてくる侵入者に緊張するものの、決して開かない扉を心強く思う。侵入者は三人。一人が鍵を取り出して、入ってきた。驚きながら、外に出られるかもという希望を確かに感じた。しかし、相手は三人であり、隙がない。
「盗賊さん?君の力を貸してほしい。ある宝物が必要だ。噂に名高い君にしか盗めない」
「…見返りは?」
「ここから脱出と自由の保障」
仕事はともかく、ここから出るのが先決。利益は十分にある。死を待つしかなかった女は、侵入者の手をとった。
これが、勇者たちとの出会いであった。
油断はできない。女は心に刻み込んだ。
夜の城からそっと抜け出すと、女は三人組を観察した。黒髪のツンツンした髪の男は、見るからに人のよさそうな、騙しやすい人間であることが一目で伺えた。ピンクの甲冑の女は発言から頭の弱さを思わせる。この二人だけならば、腕は立ちそうだが、どうにか切り抜ける自信がある。しかし…。青髪の男は、この中で一番思慮深く目ざとい。女が少し彼らと離れたり、目線を四方に配らせていると、さりげなく逃げ場をなくす。この男を撒こうとした所で、後の二人がそれを許さないだろう。…一緒に行動するしか道がないようだ。
三人が宿泊する宿屋に連れられて、一室に押し込められる。そこで、盗む宝物の所在と三人の正体を聞かされた。黒髪の男が勇者で女が戦士、青髪の男が賢者だという。こんな騙されそうな男が勇者で世界は大丈夫なのか?女は密かに思う。盗む宝は、自分に頼むだけのことはある、といったある貴族の屋敷深くに隠されているという噂のものだった。曰、全ての真実を映す鏡であると。以前その屋敷に忍び込んだ時には散々な目にあわされた。そのリベンジにはもってこいの話である。
元来女は、義理固い性分だ。相手がどうであれ、受けた恩は返す。仇は二倍に返す。
結果として、盗みは成功した。しかし、女は長い牢屋生活で体が鈍ってしまったらしく、盗み終えて屋敷を出たときに失態を犯した。屋敷の用心棒に見つかり、深手を負った。もう、駄目かもしれないと思った時、勇者が助けに入ったのだ。宝物は勇者一行に渡っていて、自分を守る必要性などどこにもないにも関わらず。
女は、盗みを終えた暁には、さっさと自由の身になるつもりでいた。それだが…。受けた恩を返さずに終えるのは忍びない。同等の恩を返すまでは…。
こうして、女は勇者の仲間としばしの時を過ごすことにした。この時はまだ、長い時を共にし、職業を変えることになるとは、夢にも思っていなかったのだが。
日に日に大きくなっていくこの気持ちの抑え方を私は知らない。
盗賊の女は、苛立ちを隠すことができなかった。勇者に受けたカリを返すためにパーティに一時的に入っていたのだが…。カリを返すどころかどんどん増えていっているのだ。最初の頃は、隙あらばと目を光らせていたが、女が勇者を助ける前に賢者が必ず鮮やかに助けに入る。戦士の女が惚れたはれたで次々と問題を引き起こしても、賢者が全てを裏から手を回している。そうしてイライラしてミスを起こし、勇者にフォローされる。という悪循環が続いている。
そもそも女はなぜここまで自分が腹立たしいのか正確に把握できていなかった。勇者を助ける賢者に心をざわつかせ、自分を信頼しきった態度で話す甘い戦士にあきれ、自分をかばう勇者に心を乱される。最近では、勇者の姿を見るだけで心が躍る。そんな感情が初めてで、女は自分自身が恐くなっていた。あまりに長く微温湯に浸かってしまうと、もうそこから二度と抜け出せなくなるのではないかと。
人を信じないこと、それは強さであると同時に弱さであるということを女は良く知っていた。それでも、孤独に生きていく自分に必要な唯一のものであると思っている。
いつものように戦士が色恋沙汰の問題を起こして、賢者がそれの裏工作に走っている時のこと。女はやることがなくて、夜中の散歩に出ていた。村外れの草むらに腰を下ろし、星を見上げていた時だ。遠くで男の声が聞こえてきた。それはやけに聞き覚えのある声で、二度と聞きたくなかった声。少しずつ近づいてくる音に女は凍ったようにそこから動けないでいた。
お互いに姿が確認できる距離に対峙して、女は自分の耳に間違いがなかったことを感じた。そこにいたのは、かつての盗賊団の仲間たちであり、その中には、初めて信じるということと愛するということを女の心に焼き付けた男がいたからだ。
何かが音を立てて崩れ落ちる音が聞こえた。
もう二度と聞くことはないと思っていた話声。楽しそうな、話声。愛しい思う心の震えと切ないという感情を教えてくれた男の声。そして、とどまることのないどす黒い自分を思い出させた初めての男。
時が止まったかのように二人は声をなくして見つめあった。
「…お………頭…?」
静寂を破ったのは女でもなく、男でもない、かつての仲間のうちの一人であった男。
「…久しぶりだね。お前たちのおかげで随分と楽しい思いをしたよ」
女は逃げたいと叫ぶ自らの心の内を悟らせないように、かつてのようにしゃべりかけた。
「お久しぶり…ですね、お頭。よく首がつながった状態であの牢屋から出られましたね」
かつてはあんなに愛しいと思ったピンクの瞳がひどく冷めていることが苦しいと感じた。あれだけ憎く思っていたはずなのに、実際に目の前にすると、憎いと思う気持よりもこの場から消えてしまいたいという思いが自分を支配していることを腹立たしく思うことで無様な姿を見せることだけはのがれていた。しかし…。
男の左腕に巻きつけられた細い銀鎖。なんの変哲もないその腕輪は結婚をしたという意味。
目の前が見えなくなる感覚というのはこういうことなのか?
女は、意地もお頭であった誇りも全てを捨ててこの場から逃げ出したかった。自分を裏切った理由を目の前に突きつけられて、平静でいられるはずがなかった。
女は自分を抱きしめるように腕を交差し、目を強くつぶった。
もう、男たちが何を言っているのかわからなかった。
あまりの暖かさに涙がこぼれそうになったことは、きっと、一生の秘密だ。
冷たいあの牢屋の中でずっと考えていた。
どうして、あいつは私を助けに来ない?
どうして、あいつは私が捕まるのを見ていた?
どうして、兵士はあの場所に私がいると知っていた?
あの場所に行くことは、あいつと私しか知らなかったのに。
どうして?どうして?どうして?
溢れてくる疑問に蓋を閉じ、見えないふりをすることでどうにか自分を保っていた。何かの間違いであると、空しすぎる安易で愚直な答えに満足していた。
いつからか、正確に覚えていないが、あいつは自分の前で自然に笑うことが少なくなった。
…邪魔に思っているかもしれないと感じることもあった。
しかし、向こうから自分に近づいてきて、ピンクの瞳に甘い光を携えて、自分だけを好きであると言ってきたのはあいつだった。
信じることが恐い自分を少しずつ溶かし、人を好きになることを教えてくれたあいつが、自分を嫌っているなどと信じたくなかった。
---けれども、目の前にいるピンクの瞳の男の手には、結婚したという証の銀鎖が巻きついていて。
自分以外の女を愛していたという事実を目の前に突きつけられて。
しっかりと地面に足を着いているはずなのに、足場がもろく崩れ落ちていくような、そんな気がした。
あいつに描いていた幻想が、心の中で音を立てて崩れていく。
どうすることもできず、その場に立ち尽くす女に、ピンクの瞳の男とかつての部下とは、女を蔑む言葉を口にし続けていた。
女がもう限界だと逃げ出そうと思ったときに響いた言葉。
「僕の大事な仲間を傷つけないで欲しいな」
聞きなれた声と背中に感じる暖かさに、女は驚いて声も出せなかった。
とても寒い夜だったはずなのに、胸の奥に暖かさを感じたような気がした。
背中の暖かさの正体は、勇者が常に着ているマントだった。
突然の侵入者に男達は一瞬言葉を失った。
それを気にせずに、勇者は女の腕をとり、踵を返し戻ろうと足を踏み出した。
女は、勇者の腕にただ黙って捕まっていた。しかし、それを黙って見過ごすピンクの瞳の元恋人ではなかった。
「…あんた、知ってんのかよ、その女の正体!!そいつは最低な女なんだよ!!」
その言葉に思わず足を止めてしまった女を見て、元恋人は次々と女を貶める言葉を紡いでいく。
そんな声を聴きたくなくて、女は目を強く瞑った。
耳を塞いでしまうのは、なんだか元恋人の言葉を肯定しているような気がしてできなかった。
そんな女を見た勇者は後ろを振り返り、ピンクの瞳の男を見据えた。元恋人は、黙っていれば容姿端麗といえそうだが、今はとてつもなく醜く見える。
「…何をそんなに焦っているの?
まるで、君の方が追い詰められているみたい」
止まることを知らず話し続けていた口が一瞬止まった。
「そんなことない。…ただ、あんたがその女に騙されていないか心配なだけだ」
「…そう…ありがとう。…でも、大丈夫だよ。
僕は、彼女を信じてる」
勇者は男の瞳が一瞬ではあるが、確かに怯え竦んだような色を帯びたことに気がついた。
理由は不明だが、女をここで逃がすわけにはいかないと焦っているのだとわかった。
女は、一片の迷いもなく、自分を信じていると言い切った勇者を信じ難い思いで見つめていた。
どうして、自分などを信じると言い切る?
どうして、自分以外の人間を信じることができる?
人は裏切る生き物。
「…失礼しますね」
勇者が今度こそ帰ろうとした時に、元恋人達が勇者と女に襲いかかってきた。
しかし、数々の修羅場をくぐってきた勇者に、なすすべもなく、数分でけりがついた。
無様に倒れ伏す男たちに女はなんの感慨も抱かなかった。
先程まで、どうしようもなく揺れ動いた感情も今はただ静かに凪いでいるだけであった。
勇者と共に宿に戻った時、賢者が心配していたかのように待っていた。勇者と女の顔を見て、わずかに口角を上げて安心したように笑った。
「ありがとう」
勇者は賢者に笑いかけた。
「…怪我はないようだな…。やつらはしつこかっただろう?」
どうやら、勇者があの場所にいたのは偶然ではなく、賢者がいち早く情報を手に入れて、勇者に伝えていたからであった。女が所属していた盗賊団は、女の命と引き換えにかの国の隠密つまり、他国を探る公認の盗賊となる取引をしていたらしい。しかしながら、女は勇者たちの手によって脱獄を果たし、現在も生き延びている。盗賊団にとって、女の身柄を拘束もしくは首を持ち帰り、取引の仕切り直しをしたいというのが現状らしい。国との期限が迫っているということもあり、焦りが生じていたため、女を襲うなどという暴挙に出たのだろうと。元恋人はおそらく、他の仲間が集まるための時間稼ぎにあのようなことを言い続けていたらしい。
自分を裏切った盗賊団の話を聞いて、女は心が冷えて行くのを感じていた。元恋人は彼の隣りだけではなく、盗賊団の中ですら居場所を奪ったということに怒りとも憎しみとも違う感情が胸の中に溢れだしてきた。
女は、勇者と賢者がまだ話しているにもかかわらず、ひとりになりたいと、部屋から抜け出した。
ベットに寝っ転がり、目を閉じた。先代が任せてくれた盗賊団はもう自分の手を離れてしまった。
それだけではない。盗賊団のモットーすらも彼らの中にはないのかもしれない。そうでなければ、
一つの国と結託して、他国を襲うなどという権力に屈した地位を狙うとは思えない。
自分たちをこのようなことでしか生きられなくした世の中、王侯貴族たちを襲い、自分達と同じ境遇の者たちが増えないようにあがりの一部を貧民街の子どもに分け与えるという大義名分は、なくなってしまったのだろうか?
先代の笑顔や、失われた盗賊団との思い出を浮かべては消しを繰り返した。
夜が明けるころには、女は一つの決意を固めていた。
「盗賊団の壊滅を手伝ってほしい」
次の日に女は勇者たちに手伝いを申し出ていた。かつての女ならば、決して仲間など頼らずに一人で成し遂げていただろう。たとえ、己の命と引き換えになったとしても。
しかし、カリが増えようがどうでもよかった。自分の過去を知ってもなお、仲間であろうとした勇者たちを信じたい。そして、すべてのカリを返したい。そう、女の心は変化していた。
「…もちろんだよ」
少し驚いたように間をあけてから、勇者が返事をした。
賢者はわかっていたような顔をして、なにやら盗賊団壊滅に関する作戦を紡ぎだしていた。
戦士はやれやれといった感じで、苦笑を浮かべていた。
どうして…?女は小声でつぶやいていた。
「言っただろう?俺たちは仲間なんだから」
何でもないとというように賢者がさらりと仲間だと口にした。普段クールであろうとする賢者のその言葉に女は茫然としてしまった。勇者はその様子をニヤリと笑いながら、女の肩に手をまわした。
「仲間に手を出されて、賢者も頭にきてるんだよ。僕もそう。だから、遠慮せずに言ってくれたことがうれしかったんだよ」
そう囁いて、賢者の作戦にみんなで耳を傾けた。
盗賊団のアジトは町の南東に行ったところにある山の洞窟であった。そこはかつて女が盗賊団の頭であったころにはなかったアジトで、賢者の情報収集力に改めて恐れ入った。
女がおとりとして一人で洞窟の付近に顔を出し、勇者が草むらで待機、援護する。その間に賢者が洞窟に行き、残りの盗賊に催眠の魔法をかける。魔法のかからなかった者を戦士が戦闘不能状態にする。
殺しさえしなければ、賢者の回復魔法でどうとでもなるからこその作戦だ。生き返ることができるのは、神の加護をもらった勇者と、その勇者が認めた仲間のみ。たとえ、魔法がつかえても、教会に仕えていたとしても覆ることのない理だ。
そうして、作戦はつつがなく成功し、盗賊団を壊滅に追いやった。洞窟には、財宝と女を差し出すことで国賊となる約束を交わした契約書などがあった。そして、義賊としての誇りを捨てた数々の犯罪の証拠も。
女はかつての仲間たちが捕まっていくことに、何の感傷も抱けない自分を怖く思えた。自分は、今も昔も人を信じることができないのではないかと。
「僕たちと行こう?」
「今は俺たちの仲間だろう?」
「あんたがいないと張り合いがないわよ」
いなくなったかつての仲間の姿をずっと探していた女にかけられた言葉は、とても温かかった。自然と目からあふれる何かをぬぐって、女はこの仲間たちとともに歩んでいこうと、心から思った。
◇◇◇
隣のベッドで横になっている男は、眠れぬ夜を過ごしたようだった。
この男たちと仲間となるきっかけを作った真実の鏡を枕の下から取り出し、そっと女は自分の顔を映してみた。そこには、青い髪の女が映っていた。なんの変哲もないただの女。
神への信仰心を失ったにもかかわらず、普通に映る鏡に安堵と少しの落胆を思う。
真実の鏡は、姿を偽っているものを本当の姿に戻す力がある。
心から信頼していた仲間を裏切った自分はひどく醜い顔をしているはずなのに、鏡にはどこにでもいる、かつての自分と同じ姿であることに、心の醜さが映らないことを皮肉に思った。
男は女が勇者に惚れていると信じ込んでいた。確かに、自分の身体的なピンチを救ってきてくれた勇者には感謝をしている。しかし、本当の意味で自分の存在を救ったのは賢者であったこの男だ。
恋人に裏切られた哀れな盗賊の情報を掴み、利用することを提案したのは、賢者。かつての盗賊団が自分を狙っていると知っていて、勇者に助けを求めたのは、賢者。心から信頼し、仲間になるきっかけをつくってくれた勇者と知り合うためには、賢者が必要だった。
おそらく、自分は勇者も賢者も恋人にしたいという意味で好きというわけではない。心の底から信頼している仲間だ。だからこそ、これからも勇者を見るたびに傷つい続けていく賢者を見たくなかった。歪んでいく賢者はあまりにも哀れだった。
甘い勇者のことだ。裏切られてもなお、仲間だと言い続けるだろう。だからこそ、戦士は死んでしまっても生き返ることができる。そう信じて、これ以上仲間たちが歪んでしまう前に、この現状を作り出した。
あとは、この鏡を賢者が使うだけ。
女は起き上がり、鏡をそっと目立つようにテーブルの上に置き、井戸から水を汲むために外に出た。
◇◇◇
男はそっとベッドから起き上がり、女がいないことを確かめてから、テーブルの上に置かれた鏡を手に取った。この時間、女が井戸で今日一日に使う水を汲むのに時間がかかることを知っていた。
外に出て、女に見つからぬように街へと男は向かった。
現場に警察を連れていき、目の前で鏡をかざした。そうした瞬間、屍の形に貼ってあった白いテープに沿うように虫の息となったモンスターが現れた。そのモンスターは、村人の格好をしており、透明の針で体を縫い付けられ、動けないようになっていた。
そう、勇者は村人に手をかけた訳ではなかった。確かにモンスターを切っていた。
そのモンスターは、見たものに変身できる能力を持つモンスターであり、普通の人間には変身しているかどうかなど判断がつかないもので有名だった。
それを見た警察は速やかに勇者を解放し、謝罪をしたのであった。
◇◇◇
牢屋の中で男は、ずっと待っていた。
彼の持っている鍵を使えば、脱獄など簡単にできる。しかし、彼はそれをすることはなかった。
なぜなら、彼はこれは彼に課せられた罰だと思ったから。
勇者と呼ばれる男は、かつてはただの少年だった。
神のお告げで勇者となった。
しかし、神のお告げを横取りにしたと男は思っていた。
賢者として、仲間となった男が本当の勇者であると。
賢者は勇者の幼馴染であった。12の時に、魔王から世界を守る者に加護を与えた銀の証、ネックレスを与えたという信託が勇者の国の教会にあった。その日、勇者はたまたま賢者の家に来ており、賢者の部屋に見覚えのない木箱を見つけて、好奇心から開けてしまい、銀のネックレスを手に入れたのだ。それが何かわからない勇者ではなかった。勇者になる誉れを、自分のものとしたくて、木箱ごと自分の部屋に持ち帰り、あたかも自分のものであったかのようにふるまったのだ。賢者はそれを知らず、勇者一人では、危ないと旅の同行を申し出てくれて、一緒に旅をしたのだ。勇者は常におびえていた。神に選ばれた本当の勇者は賢者であるこの男であることがいつバレてしまうかと。しかし、どの国の教会に行っても、神は何も告げることはなかった。それがますます勇者を追い詰めていた。本当の勇者のいうことは絶対だった。彼の作戦に反対をしたことがなかった。自分が考えるよりもずっといい作戦を提案し、それが失敗したことなどなかったから。賢者が賢者のことで自分のことをはめたこともわかっていた。けれども、何もしなかった。いや、できなかった。これが、自分への罰だと思ったからだ。
牢屋の中で何度目かの朝を迎えたとき、唐突に謝罪とともに釈放をされた。
釈放された自分には、何も残っていなかった。
それでも、勇者の証は鈍く光っており、加護の力を失っていなかった。
彼は、その後、仲間を新たにつくることもなく、一人で旅に出たのだった。
きっと、自分の罰は魔王を倒してようやく償えるものだと、見えない罪に囚われたまま。