娘は可愛い?
「えっくえっく……」
目の前で子供が泣いている。
まるでいままで感じていた自分の中の世界観とは全く違う。
今、ここから僕は逃げることができるのに、それをしないのは理由があった。泣いている子供を市役所の福祉課の職員に預けなければ帰れないという理由だった。
目の前で起きた事故に咄嗟に対処すべく、警察を呼び、事情聴取を受けて、やっと病院の安置室に一人の少女に付き添う形で待っている。
その市役所の職員に僕も含まれる。
今年、東京の大学を卒業して、国家公務員と県庁、地元の市役所を受けたのだが、なんとか受かったのは市役所だけだった。
人口十万ちょいの小さな町が僕の故郷。
九州の片田舎だが福岡市にも近いので、それはそれとして暮らしやすい。
半年前に配属された部署は会計課というお金を扱うところなので、目の前の子供を保護する担当部局に連絡し、その担当からの連絡を待っている。
普段からニュースで見かける交通事故と同じような事故の犠牲者がこの子供とご両親、酔っ払い運転の相手は既に救急車に乗って病院に向かい命には別状は無いとのことだった。
理不尽だ。
まだ小学生だろうという年齢の子供を残して、その両親を遠くに連れさる暴力に僕は心の底から嫌悪感が拭い取れない。両親の死をおぼろげに把握しながら泣き噦るこの子供とは裏腹に病院に搬送された犯人に対して、心の中で暴力的な言葉が抑えきれない。
ふと、横でハンカチを左手に持ち顔を抑えながら、右手で僕の袖を強く握るその子の手は震えていた。
怖さと悲しさと将来の絶望を感じているに違いない。
「大丈夫だよ。僕がいるから」
何も根拠は無かった。
でも、この言葉は心の底から出て来たのだと思う。
せめてこの子が安心して暮らせるようにしてあげたいと強く意識したのは確かな気持ちだった。
袖を握る手はそのままに、空いた方の左手で少女の頭を優しく撫でてあげるほか、何らすることが出来ない自分の無力さに自己嫌悪の念を感じた。
結局、その日は担当者が飲み会で酔っ払っていて迎えに来れないということと、僕が役所内部の人間ということで、僕の家で一晩預かることになってしまった。
それからのことは流されるままに人生という修行の場を身をもって知る事になる。
つまり、さしずめは僕が施設に入るか、親戚の家に引き取られる間は、引き続き面倒を見てやれというお達しを会計課長と仲の良い福祉課長の両名から受けることとなった。
さて、まずは自己紹介からだよな。
目線が大事と大学の心理学で聞きかじっていたことを思い出して、まずは屈んだ。
長い黒髪につぶらな瞳の女の子を相手に話すのはかなりの勇気が必要だった。
いままでの人生の中では、学生の頃に片思いの相手に話しかける時のような覚悟され感じる。
さっきまでは、無我夢中で話をしていたのだが、それが不思議なところだと思う。
さて、準備は万全だ。
俺、ふぁいと!
「僕は、古賀俊一です。市役所の職員だから、安心してもらいたいんだけれど。よければお名前を教えてね」
じっと待ちだているとかなりの時間をおいて話に応えてくれた。
「私は古賀葉月。双葉小五年生」
「えっと、あのね。葉月ちゃん。今日のところは、どこにも預かる所が無いようだから、おじさんと一緒に家においで。お腹も空いたでしょう。それに疲れたよね」
「いや、パパとママと一緒にいる」
間髪入れず、断られた。
まあ、これは想定内のことだ。
僕の言った言葉の後は一層、涙が止まらなくなったみたいで、しきりに涙を拭っている。そして、僕の袖を握る手にも一層力が入ったようだ。
しかし、自分をおじさんと言うのは結構抵抗があったな。そらはそうだろう、まだ二十二歳で就職したてなのだからな。
うーん、だがよく考えたら、まあ彼女の言うとおりだよな。人から言われて、実感するということはよくある事だし、まだこの事実を受け入れられないよな。
自分もこんなことがあったら、そう思うだろうし、無理に引き離すのも可哀想かな。
しかし、双葉小とは物凄く頭いいのな。
ここいらの中ではかなりの有名私立だが、そんな環境が一変してしまうとは、本当に同情以外に俺にできることはない。
そうこうするうちに、葉月は泣き疲れてウトウトし始めた。しかし、僕の袖を掴んだ指の力は相当なもので、葉月を起こさずに外すには多少の時間を要し、備え付けのベッドに横たえるには多少の時間を要した。
葉月が寝ていることを確認して、安置室から外に出ると、もポケットからスマホを取り出して迷わず実家に電話した。
簡単にしかも簡潔に今までの状況を話し、今日は実家に世話になることに成功した。
一人暮らしのアパートにはいくら市役所の職員といっても連れて帰れない。
同じ市内でアパートを借りて一人暮らしをしているのだが、母親からはとても反対されての一人暮らしだったから、実家に帰ることに異論は無いみたいだ。それに葉月のことも僕と同じく、放って置けないとの嬉しい言葉をもらい、疲れてソファに寝ている葉月を抱いてタクシーに乗り込んだ。
もちろんのことだが、安置室から出る時にご両親には心の中でお嬢さんを預からせていただきますという報告はしている。
児童養護施設の手続きをする前に、必要なことの確認をしなければならない。
幸いにも市の職員ということと、内部の協力者がいたことで、身元やらが簡単に判明して、施設に入る手続きに必要な書類は集まった。
最後に厄介なこととなったのが、親戚の方での引き取り手の確認だった。ご両親の葬儀には参列されたものの、引き取りについての話は玄関でのインターホン越しでの対応でらちがあかない。
三日を要して、合計して五家族から施設入居の同意と育てられない理由書を書いてもらい、市役所の僕宛に送付してもらうことで解決することになった。
俺としては腹立たしい限りであるのだが、この娘の家庭以外はさほど裕福とは言えない状況とは思えた。
でも、腹立たしい。
葉月が寝た後に、親父と一緒に深酒してしまう程、この日のことは俺の心に影を落とした。
二重のパッチリした瞼に漆黒の瞳という小柄ながらもお嬢様然としている姿の彼女を引き取るには、皆荷が重かったんだと思う。
普通よりも少しだけ優男といういただけないあだ名の僕が横にいても、たぶん葉月の保護者とは誰も認めることは無いだろうし、それほど一般的に異端な存在感だと思える。
後で気づいたのだが、葉月は気丈にも、葬儀の後は涙ひとつ零さない。
ほんと気丈にも程があるとはこんなことなのだと実感するが、泣いたら最後、涙が止まらないと思っているのかもしれない。もう少し優しくしてあげよう。
古賀葉月という少女に僕が翻弄されて、間も無く一週間が経過する。こんなに短い時間の中で、僕にも多少なりとも影響があった。
会計課から福祉課に配属先が変更となり、この子の担当と決められてしまった。
まあ、お金を扱うところよりは、緊張しないでいいという考えのもと、葉月に時間をかけてあげることができるという妙な安心感を覚えたことを自覚してしまった。
そんな間に、自分のアパートに戻ることはできずに、実家での生活を余儀なくされた。
葉月の担任の先生が僕の実家に来られて、これからの事を考えてもらいたいと言われたが、まだ決まっていない事が多くあり、一週間の猶予をもらったが、ご両親の遺された財産を考慮すると財政的には学校を変わる必要は無いと思える。
そんなこんなに時間を費やしていたが、児童養護施設では、葉月を受け入れられない事になってしまった。
その原因は我が親なのだった。
手続きをするための書類を全てゴミに出してしまったからなのだが、母も父もうっかりと言い張るのだが、わざととしか思えない。
それには確信がある。
僕の鞄の中に纏めて、提出するだけの状態になっていたものが、ゴミに出すなんてあり得ない。
だが、葉月はしっかりと母と父、それ以上に僕に懐いてきているから、それを本気で怒る気にはなれなかったから、なんとなく感謝している。新しい家族ができたのだと思えるし、みんなにとって一番良い結論だと思える。
そしてこれが、僕の新しい生活の始まりだった。
○○○
チュンチュンと窓の外から雀の鳴き声が聞こえ、窓から薄っすら明かりが入り込む。
朝が弱いので、遮光のロールカーテンにしているのだが、横の隙間から入り込む陽光にはさすがに勝てない。まあ、これと目覚まし時計のセットでしか起きられない自分が恨めしいのだが、この日は少し違った。
カチャっという音と同時に甲高いが、落ち着いた声が聞こえた。
「しゅんちゃん。ごはんですよ」
「すうすう………………………」
「聞こえないの? 朝ですよ。しゅんちゃん」
「……ううっ、あのな、葉月さん。しゅんちゃんはやめろよな。これでも俺は君の親代わりなんだからね。
学校のことも考えるとパパとかお父さんって呼んだ方がいいと思うよ」
「私にはパパとママはいないの。もういないから、その呼び名は私には言えないよ。だから、あなたはしゅんちゃんです」
「わーったよ。じゃあ、着替えて行くから先に食卓に行っといて」
「ここにいちゃ…ダメ?」
「今から着替えるけど、すね毛とか見たいのか?」
「いや、それは勘弁ね。後ろ向いてるから、お願い」
「まったくしょうがないな」
シャっとロールカーテンのチェーンを回すと窓が全開となり、陽の光が全身に当たり、少し広めの部屋の隅々まで陽が入り込む。
天井勾配の屋根の作りは広い部屋を一層広く感じさせてくれて、やはり狭いアパートとは別空間だ。
天窓や今は物置になっているロフトもお気に入りだから、それはいまだに両親に感謝している。
「ねえ、しゅんちゃんの部屋って贅沢だよね」
「なんだよ、いきなり」
モゾモゾとアイロンがかかったワイシャツを着ながら、青を基調にしたチェック柄のネクタイに手を伸ばす。
三着しか持たないスーツのズボンにさえアイロンがかけてあるのは、母に感謝だな。
一人暮らしの男にはあり得ない。
ベッドの下の引き出しから靴下を取り出して履いてからこっちを向いてもいいと葉月に伝える。
「だって、私の部屋は六畳だよ。ここってどう見ても八畳あるし、ロフトも付いてるから十畳でも過言じゃないわ。それに東南だから一番いい部屋じゃない」
「そうか?一人っ子だったから当たり前と思っていたけど、言われてみればそうかな?」
「そーなんだ。私も一人っ子で、自分の部屋は東南だったんだよ。でもこんなに広く無かったし、羨ましいな」
……こいつ、俺の部屋を狙っているのだろうか?
だけど、こいつの住んでいたところはかなりの地価だからあまり広くなくてもそれなりに贅沢だったと思うが、ガキんちょにその話をしてもわからないだろう。
しかし、葉月の親代わりとしては、娘に配慮すべきなのだろうが、どうしよう?
ネクタイと格闘しながら、ぼんやりとした頭の中で考えた。仕方ないか。小さな子におねだりされたら断れるものでは無い。
「ねえ、しゅんちゃん。私、この部屋気に入っちゃった。えへっ!」
────き、きたー!
やっぱか?!
ここは、この部屋を譲るのが大人の判断だな。
うん、そうだよ。
いくらここが小学生の頃からずっと自分の部屋だったとしても、可愛い娘のためだ。
頑張れ、しゅんいち。
「じゃあ、葉月さんにこの部屋をあげよう」
「えーっ、それじゃあ、私がこの部屋からしゅんちゃんを追い出したみたいになるから嫌だな」
いやいや、葉月さん、まさにその通りだよ。
自覚無かったんか?!
「あーん、なんでそんな発想になるかな。しゅんちゃんは、私の親代わりでしょう。なら、この部屋を二人で共有するという考えはないの?」
………………はぁ?
発展途上とはいえ、女の子と部屋が同じとは思いつかなかった。じゃなくて、どうしてそんな発想に至るのだろうか?
そろそろ年頃と言えるはずだがな。
俺に女の兄妹がいなくてもそれはわかる。
じーっと注目して見ている葉月を尻目に、脳が汗を掻いているのではないかと焦ってしまう。
いやいや、別に変なことを想像している訳ではないからな。そこんとこ大事だから!
これは断れるしかないよな。
これが正しい大人の判断だよな!
「あーっ、こほん。むり!」
「えーっ、マジ? 今ならまだ間に合うよ」
「いや、葉月さん。僕の着替えがダメなら基本的に無理でしょう。それに葉月さんも同じじゃないのか?
それとも俺は親代わりだから、着替えぐらい大丈夫なのか? ……って、ごめん。言い過ぎた。
んんんっ、じゃあ訳だけは聞きたいな」
「そうだね。しゅんちゃんの方正解だと思う。
だけど、今はまだ一人ぼっちは嫌だな。それだけだよ」
おや、そ、そうか。
それならなんとなく分かるし、どうにかしなければならないだろうな。
「じゃあ、着替えとかは今の部屋にして、基本はこの部屋に自由に来れるっていうのはどうかな」
「まあ、少し不服だけど仕方ないわね」
「さて、朝ごはんを食べたら、学校まで送る。
担任の先生に挨拶しないといけないし」
「う、うん。よろしくお願いします。ごめんね。私なんかのためにお休みして、しかも学校のことまでお願いしたりして」
しゅんとした顔の葉月はよく見るのだが、これは本当にそう思っているらしい。
でも、それは子供が考えることではない。
こんな考えは俺に親としての頼りなさが出ているのだらう。
「葉月、それは二度と言うな。お父さんなんだから当たり前のことと思えよ」
「うん、わかった」
「ちがーう! はいっ!だろ?」
「はぁーい」
……って素直じゃないな。
素直な時とのギャップがあり過ぎだよ。
えっ、これはギャップ萌を狙っているのだろうか?
いやいや、そんなこと無いよな。
「俊一、早くなさい。遅刻させたらダメでしょう」
あっ、母さんみてたのね。
早く言ってよ。
葉月もクスクス笑うなら、なんか言えよ。
「おい、俊一。お前の車はちょっと双葉には合わん。
私の車を貸すから、それで行きなさい」
あら、お父さんもまだいたのね。
さっさと仕事に行けよな。
でも、確かに中古だが、高級車ではあるから、そっちがいいかな?
でも、俺のもちょっとだけ小さい車なだけだろ?
軽で悪いか?




