甘く見られたもんじゃ
「……あら、怖い顔のお兄さん。その様子だと連泊の予約ではなさそうね。うふ」
彫刻のような笑顔を貼り付けて、手に持っていたペンをコトリと置くと、女はそう言った。
「お前一体何者だ。フェイに何をした! この空間は何だ!?」
「あら、人にものを尋ねる時にそんな物騒なものを振り回すなんて、あなたは紳士とは程遠いわね。でも勇ましい男は好きよ。ふふ」
刃を向けられているのに全く動じないその物言いが、逆立った毛を下からいやらしく撫で上げているようで、強烈な嫌悪感を与えてくる。
「ふざけるな。死にたくなけりゃさっさと答えろ!」
ぞわり。
そう言い放った直後、全身を冷たいものが通り過ぎた。カウンター越しに女の腕を押さえつけたはずの俺の手が、宙を掻いて女の向こう側へとすり抜けたのだ。
「なっ……!」
呆気に取られた俺を嘲笑うかのように、闇をたたえた水底の瞳がのぞき込んでくる。
「触れたくても触れられないのはもどかしいでしょ? あなたはまだ生身の人間のようだけどあの坊やはどうかしら?」
「なんだと」
「うふふ。あなたは鈍感なのね。でもあの坊やは素直で、可愛くて、そしてとても脆い……。ほら、水ってどんな小さな隙間にも入り込んで、みるみるうちに濡らしてしまうでしょ」
気色が悪い。反吐が出る。大男にでもなってこの薄気味悪い女をひねり潰してやりたい。そんな気分に駆られる。
女の話す内容はゆらゆらと揺れる水草のように掴みどころがなく、それが苛立ちを増幅させた。
意味が分からない。こいつは何を言っている?
これ以上ここにいても無駄だ……。
「あら残念。もう少しあなたとおしゃべりしたかったわ」
無言で踵を返した俺の背中に、女の声がねっとりと塗り付けられた。
「俺はゴメンだな。お前は趣味じゃない」
「そう、冷たいのね。なぜかわからないけどあなたはまだ楽園に馴染めてないみたい。でもきっとすぐよ。憂いがない人なんていないもの」
「俺は必ずここを出る。マトモになったフェイを連れてな」
来た時と同様に、俺は乱暴に宿の扉を閉めた。




