せんぱい、オレの出番ないっす
壺の蓋を静かに閉めるとカーラは真っ直ぐ俺を見た。前々から感じていたが、この大きな瞳に捉えられると、行き止まりに追いやられた子猫のように心が逃げ場を失ってしまう。
「なあ、ホマン……、おかしいと思わんか?」
いつもつり上がっている眉が何かを懇願するようにハの字になる。
「何の話だ」
「おぬしは腐人沼がいつからあそこにあるのか知っておるか?」
「なんだよ急に。いつからって……さあ、いつだろうな。少なくとも俺が物心ついた時から耳にはしていたが」
そう言われてみると、北の地に得体の知れない沼があることは知っていたが、それがいつできたとか何故できたとかは聞いたこともないし、そもそも知ろうとしてこなかったのだ。
「分からんじゃろう? わしにも分からんのじゃ。八十年ほど生きておるが、あの沼がただ“ある”ということしか……。なぜじゃ……なぜなんじゃ。なぜこのわしが知ろうとしてこなかったんじゃ……」
カーラは両手で頭を抱え込む。普段は妙に落ち着いている彼女が取り乱す様が意外だった。
ニコが引き金になったのかもしれないな……。
「まあ落ち着けよ、カーラ」
なだめるつもりで放った言葉にカーラは尚もかじりついてきた。
「落ち着けじゃと? では聞くがコガリオオグモについておぬしは考えたことがあるか? あれだってどうして人間の子がクモなんかになったんじゃ? なあ、おぬしは答えられるのか?」
なんだっていうんだ急に。
「そんなもんにわけなんて必要なのかよ。人が生きる理由を考えるのと同じくらい意味がないことなんじゃないのか」
「意味がないじゃと? じゃったらおぬしらは意味もなくクモや子供を殺しておるのか!」
「そ、そんなわけ……それは……」
カーラの視線が突き刺さる。しかし彼女はハッと我に帰ったように息を吐くと斜め下に目を落とした。
「……すまんかった。ついかっとなっただけじゃ……」
「いや、いいんだ。俺が悪い」
コガリオオグモに捕まった時の恐怖はカーラの中にずっと巣食っているのだろう。深く考えずに放ってしまった言葉を俺は恥じた。
カーラはバツが悪そうに立ち上がると、棚の下から三段目に立てかかっている本を手に取り、向き直る。今回は高さを心配しなくてもよさそうだ。
「……腐人沼の泥よりもな、こっちのが見て欲しかったんじゃ」
それは本ではなかった。
「ホマン、わしはな、もう何年も前から日記をつけとるんじゃが、最近おかしなことに気がついてな」
分厚い本のような日記をパラパラとめくると、カーラはあるところでピタリと手を止めた。
「あった、ここじゃ。ほれ、ほれ」
促されて指をさされた箇所を覗きこむが、特におかしな所は見当たらない。
そこには占いに使えそうな新しい鉱石を見つけただとか、外が寒いだとか、うまい茶が飲みたいだのといったことが書かれてあるだけだ。女ってやつは取り留めもないことをだらだらと語るのが好きな生き物だ。
「べつにどこもおかしくないじゃないか」
「違うんじゃよ! わしはここに重要な一文を書いたはずなんじゃ!」
小さな指が紙の上をトントンとノックする。
「なのに書いた形跡もないし、何を書いたのかも思い出せんのじゃ!」
それは……ちょっと言いにくいが……。
「……ボケ……たのか?」




