第一話 ある日の夜
夜の帳が街を覆っている。
人々が寝静まった深夜一時頃。
額に大量の汗を浮かばせ、一人の男が全力疾走で街中を駆け抜けている。
途中、疲れからか、それとも例えようのない恐怖心からか、膝が折れ、足がもたつく場面もあったが、何とか踏ん張り、奔り続ける。時折、ホームレスと思しき身なりの薄汚い老人や、餌を求めて彷徨う痩せた犬とすれ違う。が、男はそれらに一瞥する余裕もなく、己の身を隠せる安全な場所を求め、闇雲に街中を駆け回った。もう、自分がどういうルートで、あの廃屋から逃げて来たのかさえ、良く覚えていない。
「こ、ここまで来りゃあ……へへ……流石に追いつけねぇだろうよ」
逃げて逃げて逃げ続け、やっとの思いで狭い裏路地に身を潜めた男は、茶色い染みのついたコンクリートの壁に背を預け、深く息を吸った。
肺に酸素が満ちる。呼吸を必死で整える。
見ると、男のだらりと垂れ下がった右腕から、おびただしい程の血が流れていた。血の色は青かった。吸血鬼特有の色だ。
詰まる所、男は吸血鬼だった。またの名をヴァンパイア。
最悪な事に、この男は人間に仇なす吸血鬼の中でも、とりわけ凶暴で陰惨な趣味趣向を持つ事で有名だった。つまり彼は生まれてこの方、人目を盗んではか弱い女や子供を拉致し、寝蔵に使っている山奥の廃屋で、『人体解剖』という名の殺戮ショーに勤しんでいた訳だ。
だが、今日は少々様子がおかしい。何時ものように『人体解剖』に取り組もうと廃屋のドアノブに手をかけた所で『怪物』の襲撃に遭い、手傷を負いながらも命からがら逃げてきたのである。
「それにしても、ちくしょう。一体何だったんだあいつ……」
男は地面に滴る己の血をじっと見つめ、先程自分を襲ってきた件の『怪物』について考えた。あの『怪物』は、吸血鬼や人間と同じ二足歩行の動物ではあったが、しかし共通点はそれだけのように思えた。
男は、怪物の謎を解く鍵を、何一つ持ってはいなかった。
それは、深い山の奥で丸腰のまま、凶暴な羆と相対するのに等しかった。
「……っと、悠長にしちゃいられねぇ。さっさとこの場を離れねぇと」
怪物を振り切る事には成功したが、しかし油断は禁物である。
出来ればもう少し、この場で冷たい夜風に当たっていたかったが、今は一刻も早くこの場を離れるのが得策のように男には思えた。
左手で血の滴る右腕を庇いながら、大通りに出ようと、脚を引き摺りつつヨロヨロと歩き始める。
だがしかし、大通りに出る前に、男は直ぐに足を止める事になる。
「――!」
不意に、辺りから漂うねっとりとした芳香が、男の嗅覚を刺激した。
それは、獣臭に近かった。つい先程、あの廃屋で嗅いだのと同じ匂いだった。
男の脳内でアラートが鳴る。
早くこの場を離れろと、全身の筋肉が男の意識を急かす。
が、男はただただ身震いをするだけで動く事が出来なかった。
「(ま、まさか、血の匂いを嗅いでここまで追ってきたのか!?)」
束の間の安心感が無残にもぶち破られた事実を目の前に突きつけられ、男はもう何が何だか分からなくなる。
背後に、気配を感じた。
ゆっくりと振り返る。
「ひ、ひ、ひひ、ひぃぃぃぃいいいいい!?」
『ソレ』を目にした途端、男はか細い、しかし甲高い叫び声を上げ、頼りなく尻餅をついた。魚が海面で酸素を求めるように口をパクパクと動かし、『ソレ』から目が離せないでいる。
『ソレ』は、先程男に重傷を負わせた『怪物』だった。異貌、異躯、異端の『怪物』だった。
闇夜の中でもはっきりと分かる程の、太く、逞ましく隆起した腕と足。それらを覆う針金のように鋭く、長く、そして硬い、黒色の体毛。一見すれば、ローランドゴリラが二足歩行している様を思わせる。しかし『怪物』の、まるで戦車の装甲を思わせる分厚い胸板から生えた六本の黒い管が、『怪物』が『只の生物ではない』という事実を嫌というほど主張する。顔面は鼻から下が白色の仮面で覆われていた。口下が隠されているから、笑っているのか、怒っているのか、はたまた啼いているのか、判別がつかない。
だが、男を捉えて離さない煌々(こうこう)と紅く輝く双眸を見るに、恐らくは怒っているのだろう。鋭く、獰猛な猛禽類を思わせるその瞳に、恐怖におののく己の姿が写りこんでいる事を男は知らない。
「ま、待てっ!待ってくれっ!お、お前!俺が誰だか分かってんのか!?」
男はめちゃくちゃに叫んだ。まるで喧嘩を売っているようなぞんざいな態度であった。
「俺は吸血鬼だぞっ!?えぇ!?分かってんのかよテメェ!?ああぁ!この世界に存在する全ての生物の中で、肉体的!能力的に頂点に君臨する生命体だぞっ!て、てめぇが何者なのかは知らねぇが、俺は、吸血鬼なんだぞっ!?」
「………………」
男の必死の叫びも虚しく、『怪物』は何も答えようとせず黙ったままだ。何処かで犬の鳴く音がしたが、男には聞こえなかった。
「ぐ、くうぅぅうう……!」
話が通じないと悟った男は、チラリと己の背後を盗み見た。
男が逃げ込んだのは路地裏なのだから、当然、彼の背後には大通りへと続く出口がある。その出口から男が今立っている場所までの距離は、大凡五十メートル程だった。
何時もだったらこの程度の距離、奔り抜けるのは造作も無い事だ。人間を遥かに凌駕する膂力を有する吸血鬼なら、ざっと二、三秒で駆け抜ける事の出来る距離。
が、今日は特別だ。事情が違う。状況が違う。この『怪物』を前にして逃げ切る可能性等、露程もないことを、男は本能的に悟った。『怪物』の全身から放たれる有無を言わさぬプレッシャー、圧力。それらが見えない空気の壁となって男の全身を圧迫する。
ずしり、と、怪物が足を踏み出した。じりじりと、勿体つけるように男との距離を縮めていく。
「頼むよっ!待ってくれ!」
血の溢れ出る右腕を押さえていた左手の平を『怪物』へ向け、命乞いをする吸血鬼。男の顔は、情けない程に恐怖と狼狽の色で満たされていた。
左手にべっとりと付着した血糊が、月夜に照らされて青く光った。
「ま、待て!何で俺なんだよっ!お、おい!聞け!俺なんかまだ生まれて三十年しか生きてねぇ吸血鬼だぞっ!何で俺みたいな雑魚を殺すんだよっ!へへ、し、知ってるか、へへ、よ、世の中にはなぁ、俺なんかブルッちまうような凶悪な吸血鬼が山ほどいるんだぜ!?お、俺なんかより、そいつらを相手にした方が利口なんじゃねぇのか!?そ、そうだ、なんなら色々情報をおしえてや――」
空気が、ひゅう、と音を立てた。『怪物』が右腕を軽く横に薙いだのだ。
黒々とした怪腕には、月光を反射して妖しく輝く、刀身が銀コーティングされた軍用ナイフが握られていた。
だがそれを確認した所で、男の意識はぷっつりと途絶えた。
首の肉を勢い良く抉られ、男の頭部が勢い良く宙に撥ねた。続けて間欠泉の如く体液が吹き出す。
まるでにわか雨が降り注ぐみたいに、青い血が『怪物』の体を濡らしていく。ボトリと、男の首が地面に落下し、衝撃で眼球が潰れた。
頭部を亡くした男の下半身はしばらくの間、壊れたねじまき人形のように奇っ怪な動きをしていたが、やがて、力を失って直ぐ、大量の灰と化した。
切り離れた生首も同様だ。
そうして、路地裏に一陣の風が吹くのである。
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