第十二話 フランケンシュタインの女
本日の投稿です。
鬼の髪煙に勝る万薬無し。
日本に古くから伝わる諺の一つに、そんなものがある。
鬼の髪煙はおよそ世界に存在しうるあらゆる薬よりも優れた効能を持つ、という意味の諺だ。鬼とは吸血鬼、髪煙とは、吸血鬼の頭髪を燻した際に立ち上る煙の事を指す。
古代の日本では吸血鬼の生命力の強さにあやかって、彼等の髪を炉で燻し、その煙を吸えばどんな病でも快方に向かうと実しやかに信じられていた。
それほど昔は、人間にとって吸血鬼という存在は神秘的な生き物だったのである。
このことわざからも分かるように、吸血鬼はその生命力の高さから、病気に罹る事は殆どないと言っていい。
赤痢菌も、マラリアも、サルモネラも、そしてエイズも、吸血鬼が体内に宿す無数の抗体には到底叶わない。
彼らが罹る疾患といえば、血液欠乏症に限られる。
通称、死血症と呼ばれるこの病気は、長期間に渡る人間の血液摂取を拒んだ結果、罹る病気だ。
死血症は体内器官の著しい活動低下に伴う倦怠感や吐き気、高熱、筋繊維の壊死をもたらし、治療が手遅れになれば死亡するケースだってある。
しかし、この死血症ですら《国際白十字機構》の手助けもあって、今のところは吸血鬼の脅威になりはしない。
肉体面だけで言えば、彼等吸血鬼に敵はない。
まさに、地上最強の生物。
だが、精神面は最強にあらず、その心は人間と同様、病んでしまう事だってある。
ここは《共栄圏第一地区》
ビル群の一角に立つ、とある総合病院の、とある診察室。
狭くも広くもない、清潔感漂う簡素な一室。
天井に設置された部屋全体を照らす蛍光灯のスイッチは切られ、事務机に置かれたスタンドライトの灯りだけが、闇の中で人魂の如く揺らめいている。
一人の女性が背もたれの配された椅子に座り、スタンドライトに照らされた事務机と睨めっこをしていた。書類の山の中に顔を埋め、一心不乱にペンを走らせてはカルテに何事かを書き込み続けている。
スラリと伸びた黒ストッキングに包まれた美脚。赤いタイトスカート。シミ一つない白衣を身につけ、時折、思い出した様に茶髪のウェーブかかった髪を掻きあげる。そこから覗く白く可愛らしい耳朶には、トルコ石のイアリングが装飾されていた。
積み上げられた書類の山々に隠れて素顔は見えないが、仕草や雰囲気からして、人目を引くほどの美人であることは間違いない。
女性の名はメアリー・フランケンシュタインといった。
年齢不詳。趣味も不明。住所を知る者はごく限られている。
彼女の私生活を詳しく知る者はいない。
かの有名な生物学者であるヴィクター・フランケンシュタインを先祖に持つ彼女の職業は、意外にも精神科医である。
先祖代々、外科医学や生命学研究を生業としている一族から、彼女は『はみ出し者』の烙印を押されていた。
しかし自分で選んだ道であったから、彼女には精神科医の道を歩む事への後ろめたさや、まして後悔などといったものは更々(さらさら)なかった。
彼女の患者は人間だけではない。
彼女は世界的にも珍しい、精神を病んだ吸血鬼の精神治療も担当している医者である。肉体的に優れた吸血鬼も心は人間と同じく、脆く壊れやすいのだ。
彼女が抱える患者の比率を数字で例えるなら、人間が7で吸血鬼が3といったところか。
スタンドライトの灯りだけを頼りに、猛烈な勢いでカルテを処理していくメアリー。彼女の抱えている患者の症状は様々だ。その一つ一つに、的確な処置を施し、治療完遂までの長い長い道筋を作っていく。
根気のいる仕事だが、やりがいはあった。何よりも、患者の喜ぶ光景が好きだった。相手が人間だろうと吸血鬼だろうと、その気持ちに変わりはない。
「よし、終わり」
最後のカルテに今後の治療方針を簡潔に書き込むと、メアリーはホッと一息ついた。ライトの灯りを消し、今度こそ室内は真っ暗闇に閉ざされる。
椅子の背もたれに身体を預けて伸びをすると、ホット・コーヒーの入ったマグカップを片手に窓辺に寄る。
彼女の眼下に広がるは《共栄圏》を着飾る色取り取りの光源達だ。この煌びやかな夜景を眺めるのが、仕事終わりの彼女の日課であった。
五階の診察室から望む夜の《共栄圏第一地区》は、何とも言えぬ魅力を放っていた。
連なる高層ビルの数々。
紅玉や黄水晶の如き絢爛な光玉の数々が、夜空を照らす数多の星々に負けない程の輝きを放っている。
メアリーの目線の先にはライトアップされた尖塔があった。《共栄圏》の中心部たる《圏統議会塔》。またの名は《白露の巨塔》だったか。
そのすぐ側には《鬼縛連隊》の《特別本庁舎》に《理化生物学研究所》、国内有数の天体観測所の一つである《鴻上展望台》まで一望出来る。
マグカップに口をつける。芳醇なホットコーヒーの香味が、メアリーの薄い舌先を刺激する。
いつもなら忙殺されがちな日常から逃れるように、頭を空っぽに、何も考えず、こうして夜景を眺めるはずなのに、ここ最近はそうでもなかった。
彼女の脳裏に浮かんで消えるは一人の患者の姿と、ニュースで流れる《第四地区》での暴動の映像。
それらが交互に繰り返し、メアリーの脳内で反響する。
あの暴動の主犯格として逮捕された《はぐれ》の吸血鬼・イヴァンは、彼女の患者だった。
彼を担当し始めたのは今から三ヶ月ほど前の事である。
イヴァンは治療には前向きな性格で、毎週一回は必ずこの病院に訪れては彼女の診察を受けていた。
時折、気が触れたかのように精神的発作に見舞われ、辺り構わず暴れたりしたこともあった。そんな彼を必死で抑えつけ、辛抱強く治療を行い続けていた日々が、メアリーにはとても懐かしく思えた。
《はぐれ》の吸血鬼が精神を病むというケースは多い。
彼等の多くは社会から疎外され、周囲の誰からも相手にされず、自分の居場所が見いだせないでいる。
人間にも吸血鬼にも、帰る場所が必要なのだ。己一人の力では乗り越える事の出来ない巨大な壁や、大いなる危機に直面したとき、身を潜める事の出来る穴蔵が、どれほど精神状態にプラスの作用を与えるか。
《はぐれ》にはそれが無いのだ。彼等の心は、常に切立った岸壁に立たされている。
私が、あの人達の帰る場所になってあげなくては。
精神科医とは、そうあらねばならない。
《はぐれ》の精神患者と相対するとき、メアリー・フランケンシュタインは常にその心構えでいる。
《共栄圏》は《はぐれ》の居住を認めてはいるが、しかし彼らに対する差別意識は根強い。特に《名無し》は酷いものである。
《名無し》という立ち位置に収まってしまった挙句、心を病んでしまった者達の拠り所になってあげたい。
それが彼女の本心であった。
街の灯りは依然として煌めいている。
月光が窓に差し込み、西洋人特有の彫りが深いメアリーの美貌を儚げに照らした。
メアリーには気掛かりで仕方なかった。
どうしても、あのイヴァンが暴動を扇動したとは思えない。
主犯格逮捕の一報を耳にした時、思わず「嘘でしょ!?」と口走ったのは記憶に新しい。
イヴァンが暴動を扇動することなど、どう考えても不可能だ。よく考えれば誰にだって分かる事なのに、メディアはそれを全く報じようとはしない。
「彼はスケープゴートにされた。それは間違いない。じゃああの暴動の真実は、一体何だっていうの?」
窓に向かって独り言を呟く。誰も、その質問に対する解を持ち併せていなかった。
代わりにメアリーの耳に聞こえてきたのは、診察室前の廊下から響く足音であった。ただならぬ気配を孕んだ足音である。