第十一話 メトロポリス
本日の投稿です。
時刻は午後の三時を回った頃だった。
パステルハウス・ヒルを抜け、河川敷を並んで歩く蛮還と剣一の二人の表情は晴れやかだった。とりわけ剣一に至っては、つい数時間前まであんなに不安そうな表情をしていたのに、今は心にかかっていた霧が晴れたかのような、清々しい表情をしていた。
「いい人で良かったな」
「ええ、本当に……まぁ、肝心の愛には会えませんでしたが」
剣一はポケットから携帯電話を取り出して、発信履歴を見た。先程、長谷川氏の自宅を出た所で一度電話を掛けたのだが、呼び出し音が延々と鳴り続けるだけで、愛が電話に出てくれる事はなかった。
サイレントモードにしていて気がつかないのだろうか?
後でもう一度電話をかけてみよう。
電話に出たら何て切り出そうか。
やはり、直ぐにでもプロポーズの返事を聞き出すべきだろうか。
いやいや、早まっちゃ駄目だ。
まずは何気ない世間話から始まって……ああっ!でもでも!直ぐにでも彼女の返事が聞きたい!
「あんまり焦りなさんなよ」
「えっ!?」
思考の渦に嵌っていた剣一を、蛮還の言葉が無理やり引き上げる。
「あんた今、スゲー難しい顔してたぞ。大方、どうやって彼女さんからプロポーズの返事を聞き出すか考えてたんだろ」
「ああ、やっぱりバレました?」
「バレバレだよ。大丈夫だって焦らなくても。長谷川先生だってあんたの事を認めてくれたんだし、何も心配いらないさ。何てったって、あんたは将来のフレーダーになる男なんだ。もっとドーンと構えた方が様になると思うぜ?」
「フレーダー?」
聞きなれない言葉に、剣一が首を傾げる。誰かの名前だろうか。
「あれ、神山さんはあんまり映画は観ないタイプか?」
「映画でしたら愛と一緒によく観ますよ。もっぱらDVD鑑賞ですけどね」
「へぇそうか。どんなの観るんだ?」
「色々ですよ。最近だと『ターミネーター』ですかね。あれは面白かったなぁ」
「あぁ、筋肉モリモリマッチョマンの変態が主役をやってる映画か」
「それは『コマンドー』ですよ」
「どっちも似たような話じゃないか」
「全然違いますよ……」
「それにしても、結構古い映画を観るんだな。二十年以上前の映画だろ?それ」
「映画の良さに時代は関係ありません。あ、もしかしてそのフレーダーっていうのは、映画の登場人物の名前ですか?」
「おお、良く分かったな。その通り、フレーダーは『メトロポリス』っていうドイツで作られた映画の登場人物の名前なんだ」
「メトロポリス……聞いたことないなぁ。それって何時ごろ作られた映画なんですか?」
「確か、そうだな……1927年頃だったと思うぞ」
「古っ!?それ古すぎますよっ!」
「映画の良さに時代は関係ないと言ったのはそっちだぞ」
「そうですけど……因みに、どういうお話なんですか?」
「まぁ分かりやすく説明するとだな……」
蛮還は、かいつまんであらすじを説明した。
それによると、『メトロポリス』という映画は未来都市を舞台にしたSF映画で、支配者階級出身の青年・フレーダーと、労働者階級出身の娘・マリアとの心の交流を描いた作品だという。
劇中、支配者階級と労働者階級は互いに憎しみを募らせていき、ついには闘争に発展してしまう。だが紆余曲折を経て、最終的には両階級の代表が和解の握手を交わした所で、この映画はフィナーレを迎えるのだ。
「その和解の場面で支配者階級と労働者階級の仲介役を担うのが、フレーダーなのさ。さしずめ、マリアはあんたの彼女さんと言ったところか」
「ということは……支配者階級が吸血鬼で、労働者階級が人間って事になりますね」
「まぁそうなるな」
「……私には、吸血鬼が支配者だった頃の時代は、とうの昔に過ぎ去っているように感じますけど」
蛮還は、何も言わなかった。
二人はそのまましばらく連れ立って歩き、《第二地区》の外れの方までやってきた。ここからもう少し歩いた先に《第一地区》行きのバス停がある。
「じゃあ俺、こっちだから」
停留所のある方向を指差すと、蛮還は片手を上げて別れを告げた。実にあっさりとした挨拶だ。
たまらず、剣一が彼の背中に向かって声をかける。礼の一言も述べずに別れるのはどうにも心が落ち着かない。
「黄泉平さん!」
「どうした?」
「あの、今日は有難う御座いました。貴方のおかげで、今日はとてもいい日になりました。本当に、感謝してます」
「感謝……ねぇ」
別に感謝されるような事はしてないんだけどなと、蛮還はそっぽを向いて赤髪を掻いた。
照れ隠しだと分かったのか、剣一は彼に聞こえないようにくすりと笑った。
「まぁ、頑張れよ。応援してるよあんたの事。無事結婚出来るといいな。その時は遠慮なく、周りに自慢するから覚悟しておけよ」
「お好きにどうぞ。むしろ歓迎しますよ」
「へっ」
地鳴りのようなエンジン音を立てて、一台のバスがゆっくりと、剣一の後方から近づいてきた。停留所脇に止まり、ドアが開く。
その中に悠然と乗り込んでいく蛮還を、剣一はただ黙って見ていた。
直ぐにバスは発車し、十秒も経たないうちにみるみる小さくなっていった。
剣一はしばらく手を降り、笑顔で見送っていたが、やがてバスが完全に視界から消え去ると、後ろ髪を引かれる思いでその場から去った。
「(そういえば、連絡先を交換するの忘れちゃったな)」
自宅への帰り道の途中、剣一はそんな事を思い、少し後悔した。
蛮還と剣一が去った後の長谷川邸は、静寂に閉ざされた空間と化していた。
まるで何かを隠すかのように部屋中のカーテンは締め切られ、リビングに灯りはない。
そのリビングの中央。長谷川公彦は眉間に深い皺を刻み、無言でソファーに腰を下ろしていた。薄闇が彼の顔に被さり、複雑な陰影を刻んでいる。
彼はおもむろに、テーブルの上に置かれた携帯を手に取ると、なれた手つきである人物の元へ電話を掛けた。
彼の携帯の端子にはコードが挿し込まれており、その先は傍らに置いたパソコンへと繋がっている。どうやら、通話記録を録音しようとしているらしい。
『もしもし?』
「私だ」
『おやおや、貴方でしたか。そっちから電話を掛けてくるとは珍しいですね。何かありましたか?』
電話口の主が笑いを零した。長谷川は仏頂面のまま、手短に要件を伝える。
「ついさっき、標的と接触した。奴が最後に接触したあの男だ」
『……まさか、殺ったのですか?』
単刀直入な質問を受け、自然と唇の端にニヒルな笑みを浮かべる長谷川。
「接触しただけだ。殺しちゃいないさ。ただ、そろそろ本腰を入れて動かなければと思ってな。一応連絡したまでだ」
『そうですか。ま、そっちの始末は任せますよ。こちらは今夜にでも仕事に取り掛かります』
「殺るんだな?あの女を」
『彼の担当医でしたからね。当然ですよ。それに彼女は相当頭が切れる女です。早めに手を打たなければ、こちらも直ぐに尻尾を掴まれるでしょうな』
「それを防ぐ為に、わざわざ『実験体』を貸出してやってるんだ。粗末に扱うなよ」
『了解しました。先生の方こそ、暗殺失敗なんて事にはならないようにしてくださいよ。それではまた』
そこで、電話は一方的に切られた。
携帯の待ち受け画面に視線を落とし、長谷川は感情の篭っていない声色で、悪態をつく。
「政治家が科学者に指図するか」
乱暴に、携帯を明後日の方向へ投げ捨てる。
背中をソファーに預け、じっと真っ直ぐ部屋のある一点を睨んだ。
先程まで、娘の友人と名乗る吸血鬼が座っていたソファー。そこだけが、長谷川にとってはまるで汚物をぶちまけたような穢れた場所に思えてならなかった。
ズボンのポケットから煙草を取り出し、火を点ける。彼は暫く煙を燻らせた後立ち上がると、何を思ったか。
700℃の熱点煌くタバコの先を、ゆっくり、丁寧に、しつこく、吸血鬼の座っていたソファーに押し当てた。彼の瞳はどす黒く濁り、心の奥底に隠し持っている残忍さが顔を覗かせる。誰にも見せたことのない、彼だけが知っている己の闇が、メラメラと体内で燻りを上げていた。
「モルモット風情が、生意気を言いやがって」
憎々しく、呪詛を吐く。