1.船の上で①『――魔法とは』
遠く日本を離れ、船で五時間。金のない俺達は、ほんの二畳ほどの空間に押し詰められて、あまりの暑さと息苦しさにふうぅ、としきりに溜め息を吐いている。五時間乗っていても、まだ道程の半分ほどしか来ていない。
「はぁぁ、兄さん」
「なんだ小石」
“義”のつく妹である、秋野小石も、俺の目の前で三角座りをしながらうつむいてしまっている。せっかくの快活な表情も綺麗な髪も、ここではどちらも曇っていた。二人きりの狭い部屋、と言えば聞こえは良いが。いかにも暑苦しい空気は、そんなムードをいっぺんに持ち去ってしまっていた。小窓を開けてはいるが、開口が一つしかないのでほとんど空気が出入りしない。息が詰まる。
「陸が恋しいです……。グランドシックです……」
「それは俺もだ……何、あと五時間ぐらいの我慢だろ。う……っぷ」
「狭いんですから、吐くのだけはやめて下さいね。……うぷ」
部屋の居心地が最悪なのに加えて、船もやたらに良く揺れる。乗り物酔いには滅法強いはずの俺達も、さすがに目の回る感覚に襲われていた。
はぁぁ、と俺もまた溜め息を吐く。船に乗ってすぐは、狭い部屋に充満した小石のシャンプーの香りで幸せになっていたのに。はぁぁ。
「なんでこんなに不便なんだろうな。超高速豪華客船とか、瞬間移動とか、やり方はありそうなものなのにさ」
「兄さんみたいな、サボり屋さんの為じゃない?」
小石が、さっき自分で不満を言っていたのを棚に上げて、そう言う。久々に会話が始まったので、少し気力が回復したらしい。
「にしてもさ、何もない狭い部屋で、十時間も何しろって言うんだよ」
「それは、えーっと……あ、教科書を読むとか。せっかく船室に持ち込んだんですし」
「ああ……」
教科書の山は、部屋をいっそう狭くするのに一役買っている。そう――俺達は今、一年生として、入学式に向かっているところだった。遠く日本から離れた学校。そこが、俺達の目的地だ。
「例えばほら、この教科書、どうかな? 『魔法法学』」
「頭痛がしてきた」
大げさに頭を押さえて見せる。少なからず同感だったらしく、小石は魔法法学の教科書をしまって次の教科書を取り出した。
「『魔法倫理』」
「酔うぞ」
「『魔法哲学入門』」
俺は、はぁぁ、と溜め息を吐いた。
「もうちょっと、夢のある教科書はないのか?」
「ええっと……あ、これ、良いかも知れません」
小石が次に取り出した教科書は、ひどく薄っぺらだった。
「『化学の一』です」
表紙にたくさんの化学式が躍っている。小石の方も、『化学の一』に夢が何もない事に気付いたようで、俺から少し目を逸らしている。
「……安息香酸って名前、夢があるよな」
「そうですか?」
「ああ。こう、嗅がせると簡単に催眠状態に誘導できるような……」
小石が、教科書の面で俺を軽く殴った。
「兄さんって、夢だけで生きてますよね。夢だけで」
「だけを強調するな」
「安息香酸には、確か多動性障害への影響があったはずです。少し前に解明されて……まあ、微々たる影響なんですが」
しまった、と俺は後悔した。小石は、普段は大人しいタイプなのだが、雑学を話し始めると止まらない悪癖があった。真面目に聞いていないと怒るので、とてもやっかいな悪癖だ。
「多動性障害っていうのは、要するに落ち着きのなさって事です。……兄さん、聞いていますか?」
「あ、いや、ほら、別の教科書、見てみよう。もっと夢のある魔法物質があるかも知れない」
「そんなのありません……。まったく、これまで何を習ってきたんですか」
俺達は、中学校までに初歩的な魔法の技術と基礎知識を教わる。――もちろん、これから行こうとしているところも、魔法学校だ。だが、これまでとは違って、本格的な魔法を学習する場である。
「まあ、良いですけど……これはどうでしょう。『初等魔法学』」
「おっ。面白そうだな」
上手く、小石のうんちく話は回避できたらしい。ほっと胸を撫で下ろしながら、小石の開く本の中身を見る。今度は分厚い本だ。
「『腕試しに、一つの質問に答えてみましょう。魔法とは、一体何でしょうか』だって、兄さん」
「また、唐突な質問だなぁ……」
魔法とは何だろう、という質問は、これまでにも何度か投げ掛けられてきた。もちろん、辞書的な定義を訊いているのではない。たとえば、「家族とは何ぞや」という質問は、何も家族の正確な定義を知りたいのではない。この質問は、家族の存在を、より主体的に捉えてどのようなものであるかを表現する事を期待している質問だ。これまでの魔法についての質問も、同じ様な意味を持っていた。
「習い始めた頃は、何か自分のものじゃない気がしてたけど、今は自分のものって感じだな。俺の使える一つの道具みたいなものか」
「私も、兄さんと同じです。……め、捲ってみましょう」
小石が、教科書を捲る。開いた次のページには、たった一行の文字しか書かれていなかった。いわく――魔法は、あなたのものではありません、と。
「兄さん、図星ですよ」
「小石もな」
次のページからは目次が始まっている。冒頭の質問について、もう触れるつもりはないらしい。
「魔法とは、あなたのものではない……」
小石が呟いた。小石ももう、目次を見るつもりはないらしい。魔法は、俺達のものじゃない。だとすれば、一体誰のものだと言うんだろう。もしかしたら、本の最後に答えが載っているのかも知れない。さすがに今見るのは無粋なので、後で見てみよう。
ふと腕時計を見ると、さっき見た時から三十分が経っていた。
「やったぞ小石。あと四時間半になった」
「ふえー……」
小石は力のない声を出しながら、壁にもたれかかった。と、同時に、部屋のドアがノックされる。小石は慌てて、姿勢を正した。
「どうぞ」
「おっ、人が居るみたいだぞ。やったな」
俺が応えると、外から男の声がして、扉が急速に開かれた。
「……あ、お楽しみ中だった?」
「違います!」
ぐい、と首を伸ばしてきた茶髪の男の言葉を、小石は激しく否定した。そこまで否定されると、何となく傷付く。
「そっかそっか、そりゃ良かった。いやー、さっきからクラスメイトを見つけようと思って部屋を回ってたんだけど、どこも空き室ばっかでさ。『もしかして僕、違う船に乗ったんじゃね!?』って焦ってたんだよ。あんたらも、明青学園に行くんだよな?」
「ああ、そうだ。俺は大原清介。で、こっちが妹の……」
「秋野小石です。よろしくお願いします」
小石は、さっき取り乱したのを忘れて下さいと言わんばかりに、外行きの声色で挨拶をした。一部の人間以外への小石の受け答えは、優等生そのものだ。俺みたいな親しい相手になると、これがちょっと砕けてくる。
「清介に小石ちゃんね。なんで兄妹なのに名字が違うんだ? ……っとその前に、僕は山下司! 好きなタイプは厳しいけど突き放さないでいてくれる可愛い女の子!」
……ちょっと、テンションのおかしい奴らしい。司は、更に自分の横の何もない空間を指差して、
「で、これが小型浮遊妖精のエリン」
と、言った。
「あの……。その、誰も居ませんけど……」
「やめとけ、小石。多分、ちょっと頭が変な奴なんだ」
「初対面で言うセリフかそれが! まあ、ちょっと耳を澄ましてみろよ」
一瞬、沈黙が訪れる。ちりん、ちりん、と、小さな鐘の音が聞こえた。そして、ほんの小さな声で、
「エリンです。末永く、よろしくお願い致しますね」
と、確かに聞こえた。
「まだ、姿を決めてないんだ。だから、存在だけの存在って奴?」
「へぇ……」
「妖精を作るのって、とても難しい魔法じゃないですか?」
小石が訊ねる。それは当然の疑問だった。俺達は、中学校を卒業していればごく簡単な魔法は扱えるが、それはちょっと風を起こすとか、一番難しいのでも魔法の傘で雨に濡れなくするとか、その程度のものだった。妖精を作るなんて、とんでもない。技術も知識も足りなければ、そんな魔法を扱う資格さえ持ってはいなかった。どんな魔法でも、使用するには資格が必要だ。
「まあね。……あ、ごめん、嘘嘘。お父さんに貰ったんだよ。僕のお目付け役って奴。それに、寮だと、何かと不便な事もあるだろうし、妖精が居ると便利だろ? 姿を与える魔法もいつか習うだろうから、その暁には僕の大好きな女の子の姿形にして、あんな事やこんな事を……ふぐげっ!?」
司は急に、目を押さえて悲鳴を上げた。
「エリン、目は蹴るなって言っただろ!?」
どうやら、お目付け役に目を突かれたらしい。お目突き役と呼ぶ方が正しいんじゃないだろうか。
「なんだか、愉快な方ですねぇ……」
「そうだな……」
小石の素直な感想に、俺はこくこくと頷いた。
司を中に招き入れて、談笑する。司は俺達と違う地方の出身らしく、興味深い話をいくつも聞かせてくれた。人懐こい性格の司は、どちらかと言えば人見知りがちな小石ともすぐに打ち解けてくれた。俺の不安の一つ、小石に友人ができないかも知れない、という不安は杞憂に終わった訳だ。また、どうも司の地域の方が魔法教育に力が入っているらしく、実力は司の方が数段上のようだった。
「で、二人はなんで名字が違うんだ? 何か複雑な事情なら、別に良いんだけど」
「私と兄さんは、ほんとの兄妹じゃないんです。その、色々ありまして」
「げ。清介ぇ、お前実の妹じゃない奴に『兄さん』って呼ばせてんのかよ。羨ましい奴だな」
あはは、と皆で笑い合う。二畳の部屋は、司に面積を取られてずっと狭くなったが、新たな刺激が加わって気分は晴れやかだ。時計を見ると、到着まであと四時間弱になっていた。
ふと、ある事を思い出して、俺は司に声を掛けた。
「そう言えばさっき、空き室ばっかりだったって言ってたよな。あれ、どういう事だ?」
「どうもこうも、そのままの意味さ」
司は、ちょっと真面目な表情になった。
「ねえ、二人とも。まず、この船、どれぐらい大きいか覚えてるか?」
「大きい船だったのは覚えていますが……どのぐらい大きいのかは、あまり正確には」
「この船、どうも魔法で作られてるっぽいんだよな。僕が見た限り、船室はどこも二畳のスペースだった。で、その船室がここには、なんとだな……八千室もある」
……単純に計算して、一万六千畳。俺達が最初に見た船は確かに大きかったが、それほどのスペースを確保できるほどではなかった。
「つまり、魔法で船内が拡大されてるって事か?」
「そういうこと。で、その割に人が全然居ない。僕、一時間は部屋回ったんだけどさ、清介達に出会うまでは全部空き部屋だったぜ」
となると、狭いスペースに押し込まれる必要は全くなかったという事だ。魔法で船内空間を拡大しているなら、同じ要領で部屋を広くする事もできただろうに。
「そう言えば、この船は日本から出る新入生用の船、という話でしたね。八千室も使うんでしょうか?」
「使わないと思うなぁ……でも、昔は新入生も多くて、不足しないように船室が必要だったんじゃないか? で、過去に強固な魔法で拡大したんだけど、今では誰にも解けなくなってるとか」
小石の疑問に、俺はそう答えた。そういう理由ぐらいしか、八千室もの部屋を用意している理由が分からない。
「いや、多分そうじゃない」
だが、司は首を振った。
「この船、新入生の送迎だけに使ってる訳じゃないんだ、きっと。船内を拡大するような大掛かりな魔法だと、当然切り離してるだろ。となると、いちいち用途ごとに解除したり調整してたら、高位の魔法使いが何人居たって追いつかない。って事で、不足しないように、目一杯広げてある……って、僕は考えるけど。実際どうかは分かんねぇな」
――司の言う、「切り離す」とは、魔法を扱うにあたって重要な言葉の一つだ。たとえば、俺が見えない傘を作り出したとして、何もしないで居ると傘の維持の為に俺はどんどんエネルギー――魔法を使うのに必要なエネルギーは熱、すなわち体温だ――を消費する事になる。見えない傘ぐらいなら、消費するエネルギーはさしたる量ではないが、これが大掛かりな魔法になると、維持で失うエネルギーの量が半端でなくなる。その不便を解消する手段が、司の言った「切り離す」だった。俺が、俺と見えない傘との繋がりを「切り離す」ことで、傘は自立して、俺のエネルギーを消費する事なくそこに存在し続けるようになる。非常に便利なのだが、魔法のジャンルや手法によって「切り離す」方法は違って、難しいものの習得には時間がかかる。また、一旦「切り離す」と、その魔法を解除するのには新たに解除魔法を掛けなければならなくなるという事で、まだまだ俺達にとっては上位の概念だった。唯一、見えない傘だけは切り離せるが。
司の意見は、筋が通っている気がする。俺は頷いて、
「それっぽいな。せっかくなら、部屋も大きくして貰えると良かったんだけど」
と、笑った。
「同感だね。って言うか、僕は一人だったんだけど、清介達はどうして二人一部屋だったんだ?」
「エリンさんを人数に数えていたんじゃないですか?」
「ああ、なるほどね」
司と小石も笑う。また元の、和気あいあいとした雰囲気に戻った。
――到着まで、あと三時間半。